実感
文章校正しました。(2020/5/17)
何とか桔梗との話し合いはうまくまとまったと思う。
コンコン…とドアを叩く音がして、ドアを開けると美味しそうな香りが漂ってきた。
女将さんが満面の笑みを浮かべながらこっちへ来てと手招きをしている。
外を見るともう夕刻になっていたようで、今更ながらにこちらの世界に来てからまだ何も食べていなかったことを思い出す。
私と桔梗のお腹が小動物のようにか細い鳴き声を発した。
そんな情けないお腹の声を聴いた女将は『あらまぁ…』という表情で微笑んでいた。
*
広間にあるテーブルにはたくさんの料理があり、ちょっといかつい感じの女将の旦那が先に椅子に座っていた。
女将から何を聞かされたのか、ニヤッと悪戯っぽく笑いながらこちらを見ている。
私達は気恥ずかしくなりながらも席に着き、食事を食べることにした。
そして、食事中に行儀が悪いと思いながらも貪欲にこの世界の言葉を覚えようとした。
―食べ物を指さしては、これはどう呼ぶのか?
―絵本を指さしながら、これはどう読むのか?
女将と旦那を質問攻めにしながら、それ以外のことも身振り手振りを交えながら会話している内に、
簡単な会話ではあるけれどある程度コミュニケーションが取れるようにはなった。
*
旦那さんの名前はアケロス、この街で鍛冶屋をやっているそうだ。
ここら辺では有名な鍛冶屋らしくて、”この街特有”の難しい鍛冶もしているらしい。
女将の名前はクラリスさん、これでも昔は酒場の看板娘だったらしい。
そして宿屋の名前は燕月亭、燕が来る季節の月がきれいな夜に、アケロスがクラリスさんに求婚したのが由来というとてもベタな展開だ。
*
食事を食べた後に私達はクラリスにお礼を言った。
『ありがとう、こんなにおいしい食事を食べたのは久々だった。』
クラリスは嬉しそうに優しく微笑んだ。
『お上手ね、でもあなた達の歓迎も込めているから。』
そして私たちにウインクをする。
『それじゃまた明日ね。』
私達が部屋に戻ろうとすると、アケロスが悪戯っぽく目くばせした。
『マセガキ! 嬢ちゃんを泣かせないようにな。』
桔梗がまた駆け落ち云々のことを思い出して真っ赤な顔をする…
と同時にクラリスさんの鉄拳が旦那に振り落とされた。
*
お互いに湯浴みを済ませ、用意してあった寝巻に着替えた後、桔梗と今日一日のことについて話し合った。
「野盗との戦いの際の桔梗の対応は見事だったな。」
「凱さまこそ、見事な動きでした。」
「年こそは若返っているようだが、思ったよりも体が動く…全盛期の以上の動きが出来そうだ。」
桔梗が首をかしげながら私の顔を見る。
「そうですね、転移前の経験のせいでしょうか?」
何気ないそのしぐさが可愛くて、アケロスに茶化されたことが思い起こされる。
私は窓の外を見ることでそれをごまかした。
「あと、アルと名士様には感謝しなければならないな。」
「そうですね、まさかしばらく宿に住めるように手配してくれるなんて。」
アルの命の恩人の礼として、名士様がしばらく宿に住めるよう十分な代金を支払ってくれたと、女将さんが教えてくれた。
―そして…駆け落ちしたという私達の面倒を見てやってくれと。
私は外を眺めるのをやめ、悪戯っぽく桔梗の顔を伺いながら言った。
「しかしマセガキか…確かに十五、六の子供が国を捨てて、真実の愛とやらのために逃避行ともなればそう言われても仕方がないか。」
桔梗も一連の失態を思い出したのか、また赤くなってそっぽを向いてしまった。
「し…知りません!」
私は表情を戻して、穏やかな表情で桔梗に語る。
「ただ、こうして桔梗以外から純粋な好意を向けられるのは久々で…違う世界に来たのだなということが実感できる。」
桔梗もそれに同意して、前の世界のことを思い浮かべた。
「そうですね、隠遁生活の最後の方は疫病神として、疎まれ続けてきましたからね。」
そして桔梗の頭に手を置き、素直に感謝する。
「だからこそ、こうして幸せを実感できるものさ、…桔梗、本当にありがとう。」
桔梗はハラハラと涙を流しながら、嬉しそうに笑う。
「凱さま…私は…私…」
私はずっと言いたかったことを伝えるのはこのタイミングかと思った。
桔梗の目をじっと見つめて真剣な眼差しで見つめて告げようとする。
「なあ桔梗、私が自害を試みた後…本当に勝手なことだが、もし来世で君にまた会えた時に言おうと思っていたことが…」
桔梗も真剣な顔でが私のほうをじっと見つてその先を聞こうとしたが…
「あっ…」
と、小さな声をあげて私の後ろに視線を向けた。
私も後ろを振り返るとドアが半開きになっていて、女将と旦那が目を皿のようにしてこちらの様子を伺っている。
私は慌ててドアに駆け寄りカギを閉めた。
そして桔梗に向き直り…再度言おうと試みたが、一度砕けた決心はそうそう簡単につくものではない。
桔梗は首をかしげてその先を聞きたそうにしている。
「凱さま?」
私は今夜は言うべき時ではなかったのだろうと思うことにした。
「いや…何でもないさ…」
ドアの向こうの二人から『へタレ…』というようなつぶやきが聞こえてきた気がするが…
それは聞かなかったことにしようと思う。




