ありがとう
有り難い。
が、気味は良くない。私に何が起こっているんだろう。今、かなりの恐怖に取り憑かれている。
有り難いと言ったが、少し考えてみると、激烈な悪意、塩酸の様な悪意に浸されているのかもしれない。
いや、其う考える方が妥当だろう。
警察などに連絡しておいた方が良いのかもしれない。
だが、其れさえも状況に対する刺激と成りそうな気がしてしまう。
―失せ物の代表格って、何だろう。人によって違うかもしれないな。ハンカチを矢鱈と失くす人もいれば、手袋とかね。ああ、そうだ、矢鱈と『家の鍵』を失くす人物を見た事があるが、あんな大切そうな物ですら頻繁に紛失する『習慣』があるんだな。
そう、まさに習慣としか言えないのかもしれない。個々の癖としか言えない。
―私の場合はね、其れが『傘』で。頻度はランダムなんだ。集中する時期もあれば、一年くらい平気な事もある。ただし気をつけていてどう成るものでもないね。ちょっとした病気と言える。
雨上がりの電車なんかは、みんな、遣らかすだろうけれどね。
私は、仕事場、コンビニ、図書館、歯医者、ファミレス、バスを降りる時、バスに乗る時、タクシーで。諸々。網羅している。私が傘を忘れた場所に印をつけていくと、私の生活圏全部が真っ赤に染まるかもしれない。
まったく、酷いと、雨が降っている最中の路上に忘れた事すらあるよ。
だからね。傘立ては玄関の外に出しっぱなしにしてあるんだ。
『持ち忘れる』と言う危惧があるんだね。実際、あったんでね。いや、まさか其のまんま濡れて出掛けやしないが、玄関を出て入ってがある。
目の前に雨が降っている状況ならば、いくら私でも持ち忘れたりはしない。
それから、却って、ちょっと良い物を使う様にしたら、私にとしては一定の効果を感じられたんで。
比較的、色のついたやつだったり、生地に模様のあるやつだったり、と多少でも個性が出ているのを使っている。
没個性なコンビニのビニール傘だったら、尚更、戦績は壊滅的なものだろうな。忘却戦線全滅だろう。
―失くした傘は百本はいくだろうか。
―其れが起きたのは三週間くらい前。
私は、傘立てを外に出してあると言った。
其処に失くしたはずの傘が戻ってくるんだ。
四年前に失くした赤い傘。
三カ月前に失くした青い傘。
外国旅行の土産の傘。
此れは珍しい模様が入っているし、日本で買える代物でもない。だから私のに間違いない。下手をするとね、此れは当の異国で紛失した物かもしれない。
其れらが、数日おきに一本、一本と返ってくるんだ。
誰がそうするのだろう。
とにかく、戻ってくる。
幽霊の様に。
―其れから、此れは下って漸く気付いたんだが。
一本一本の出戻りの傘の裏地には、―
ありがとう
―と鏡文字で書いてあるんだ。
どう言う意味なんだろうね。