化身の市
―質の良い煉瓦を積んで行くしか無いのさ、―
という言葉を口癖にしていた老人と将棋をしたが、其の老人はとっくに薨っていた筈である。
夢なのか、私こそ冥府に来たのか。
判然としないまま、
やがてして夕刻。
円蓋を持つ屋内の様な場所に我々は所在している。
出入り口が一箇所あり、其処を唯一の光源とするばかりであるけれど、
不思議に暗くはない。(ついでに付言しておくなら、暑くもなく寒くもないのだ。)
―代わりに明るくもなく、何やら物象の凡てが輪郭を朧げにしている。
夕陽が差し込んで、私も老人も、其れから将棋盤や将棋の駒も―、
橙に染まりそうな道理だけれども、
朱がかっているのは光線ばっかりで、我々や将棋一類は、
―どちらかと言うと、琥珀色と表現したい色味を有しているのだ。
眼の病気なんだろうか。
いや矢張り黄泉か。
分子化して宙に浮かびそうである手足が心許ない。
此んな自分の手足を見た事がない。
褪せた写真の様に砂嵐を起こしていて、向こう側を透かしていさえするのだ。感覚はと言えば、其れも有る様な無い様な。
老人が私に―
「どうだい、芲田君、変わった空間だろう、外へ出ると仔細が了解されるよ」
と魔術師が種明かしを為る口振りで告げるのだ。
茶目っ気の様なものすら漂う。綽々としている。
―老人は一体、誰なんだろうか。其れが実は思い出せない。
―其れから。私は芲田と言う名なのか。
自分の事であるのに曖昧極まりない。
おそらく脳髄も手足の要領で微粒子と化身しているのだろう。
誘い水に乗り、外に出てみると、
―理解を拒絶する光景が広がるのだ。
ドーム状の建造物が二十、三十と集落を成していて、我々が過ごしていたのも一端らしい。
建物は一様に琥珀の帯色をしていて、一色刷りの版画を思わせしめる―、
また。
我々二人と似た様な人々がわらわらと逍遥しているのだ―、
が。
彼れらも皆、琥珀の皮膚を持ち、琥珀の衣類を身にしていた。
自動人形と言う日常的語彙と離れた語句が何うしてか浮かぶ。
生気を感じない、いな、正気をかんじない。
ぼうとした表情で、なにかプログラミングをでもしたふうに機械的に徘徊する彼らなのだ。―
一部の人物には見覚えがあり、老人に看取したのと同様、親和の感覚が湧く。
だが半分以上の者については顔も分からない。
―其れより。
此の集落、円蓋の市を大きく取り囲むのは、―
何と『キッチンの水回り』らしい構造をしていた。
其うだ、我々が小人にでも成り果て、所在していると考えたらば却って理屈が通るのではないか。
銀色をした金属の、マナ板を収めるスペースに『市』は在るのだ。
水回りを囲繞するのは、―当然と言う顔で存在する―、
ダイニングスペースじみた生活空間である。
安直なアパートの様な場である。
どうも琥珀色なのは我々だけで、キッチンやダイニングは多色にいろづいていた。当たり前の現象・現実と言う様に。
「芲田君、見てごらん―、あれが僕らの『全能者』だよ」
笑うでもなく、しかし可笑しそうに老人が指し示したのは―、
巨人だった。
トレーナーを着ていて、グレイのやはりトレーナーパンツを穿いている。
私の丈の何百倍、いや千倍以上はあるだろう。
のしのしとダイニングを練り歩む。
神と言うには卑近である。
何処かで見知った顔だ。私は自動的に―、
「空月」
と口をつくのだ。
確か大学の折に交遊していた人物の気はするが、多くは思い出せない。
精神に失調を起こしていた男だったか。だから中退したのだったかしらん。
其の様に思っていると、彼は。
大きな水道管の蛇口をひねり、ざあ、と水道水の大瀑布を創りあげ、湖ほどあるコップで飲水を為るのだった。―
―事もなげに。
―地獄の釜めいた大口に、錠剤めいた粒を嚥下んだ。




