長い髪の女
―彼女が長い髪を短くする事はない。
『疲れた顔の男が鏡に映っていた』と言う常套句の様なものがあるけれど。
私が自分の『疲れた顔』を見つけたのは、通勤電車の中だった。
其れが、帰りの電車ならばまだしも―、
―『行き』の電車に揺られながら。
地下鉄の車窓が鏡うつしにした『私』は。
活力を持たない者だった。
―頬や口元にきざまれた皺。―寄生虫の這う様だ。
―目。―ひびわれた硝子球の様。
―その瞬間に、何かの螺子が外れたのか―、
―仕事に赴かず、途中下車をした。
―発想が貧しいのだろう。霜降あたまの中には安直な・下卑た慰安しか息づいていないのだ。
私は、徘徊者として蹌踉めいた末。
朝から開けている酒場、しかも女の子のいる飲み屋に入った。
―変わった娘を付けられた。
見くびられたのか、それとも此んな時間帯には風変わりな娘しか居ないのか。
まあ、何うでも良い。
溢れ者は、私のほうだから。いささか自己憐憫ぎみに、―
髪がやたらに長い娘の酌を受ける。
腰までの黒髪、というのは聞く事もある。が、―
―彼女の髪は踝まであると言うのだった。
美しい女ではある。否、あおじろい位の肌の白さは不健康を思わせた。すりきれた様な痩せかたも不健康を感じさせた。
きっと其の翳りが私には魅力なんだろう。
髪は上手にたばねてあるものだ。ものすごい長さには感じない。
だけれど、漆を刷いたみたいな漆黒は、量感をたたえ、いっそ圧する様な色気を吐いている。
見惚れながら話を聞いたが、微醺のうちに、彼女が僻地めいた漁業区に生まれたことや、―痛ましい出来事だ―、
―おなかを痛めた子を幼いうちに亡くしたこと―
などを知った。
其れにしても。
ウイスキーと言いながら安酒を混ぜてあるのだろう、やがて私は怪しい酔いに包まれだした。
いや、電車の鏡像にまいって仕事をサボり、朝酒しているくらいだ。
気鬱だか神経症だか、或いは統合失調症を発したのかも知れなかった―、まったく、―
―どうにも妙なものが見える。
幻視というヤツは初めてだ。
女のひざもとに『手』の様な事物が這うみたいに思えた。
『子供の手』の様に見えた。白い、ゆびの形状をした器官、掌じみた器官。
半透明をしたクラゲ状の幻覚が、女の脚やら黒髪やらを虫の動作でぞろつくのだった。
自身の狂気に笑う。
唐突な哄笑発作に、当然だが、女は不気味そうにした。
私が幻視を話すと、しかし貌は一変するのだった。
さながら菩薩の笑顔を見せるのだ。
―此の子が見えるのね、お客さんも長くないかしら。
と。聖母子像めいた姿勢をとり、空気の塊をいだいた。
其処には幽かながら、寒天の凝りみたいな結像が、―幻視えた。
目鼻がある。
ちんまりと手足もあった。
其れは彼女の死児なのだと微笑む。
宙に頬を擦りあてながら。
花の様にだ。
彼女の生まれた漁村では、魂をよせる為に髪を伸ばすのだと笑った。
病花の様に。
今、思うと、やっぱり女は病的に痩せていた。
―女の髪は、霊力を宿すと俗言に聞く。
だが、そんなものが視える私も黄泉に近づいているのだろうか。
少し経った或る日、私は血を吐いた。
―彼女が長い髪を短くする事はない。




