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ゆきかのの甘音  作者: 三傘
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彼女の甘い声


「今夜は月が綺麗ね、あきら君」


 電話に出ると、開口一番に風情ある言葉が耳に飛び込んできた。それは、少し色っぽくて、甘い、耳が癒やされる音のようで心地良く。


雪葉(ゆきば) 小夜凜(こより)


 僕の彼女の名前だ。

 不肖『月添(つきぞえ) 秋良(あきら)』が、人として未熟でありながら縁あってお付き合いさせて頂いている。

 彼女は大学ニ年生。随分と大人びた性格をしていて、社会人の僕なんかよりもずっとしっかりしている。

 ちょっと変わった所もあるけれど、ちょっと所では無いかもしれないけれど、それも彼女の魅力の一つだと、僕は思う事にしている。


 今夜も彼女とスマホを通して過ごす。

 遠距離恋愛なんて今日び流行らない言葉だけど、不運にもそういう関係になってしまったのだから仕方ない。彼女の声が聞けるだけでこんなにも嬉しく思える今も、それはそれで大事にしたい──


「それより、さっきはごめんなさい、電話に出れなくて」

「気にしなくていいよ、お風呂でも入ってたの?」

「そうなの。電話に気付いてお風呂から飛び出して来たのだけど、間に合わなかったわ」


 飛び出して来た、と言うことは彼女は今どんな姿をしているのだろうか。なんて邪な妄想が僕の脳裏を過る。

 生まれたままの美しい彼女のプロポーション(お目にかかった事は無いのであくまでもイメージ)を惜しげも無く晒した姿で、今まさに僕と電話をしているのだろうか。


「開脚のポーズ〜」


 彼女の突然の言葉に、僕は思わず吹き出した。妄想の中の彼女も開脚しそうになり、危険領域に達する所だった。危ない、危ない。


「あら、どうしたのあきら君? 何か変な事でも想像したのかしら? いつもの様に」


 この流れで、想像するなという方が無茶だ。


「って、いつもの様にってどういう意味だよっ。まるで僕が常日頃変な事を考えて過ごしているみたいな言い方じゃないかっ」


 だからと言って、社会、政治に目を向けて常にこの国の事を考えているわけでも無い。どちらかと言えば、瞼の裏に彼女の写真が貼り付けられているのではないかと思うぐらいには、僕は彼女の事ばかり考えている。


「あきら君は常日頃私と変な事をして過ごしているわ」


「それだと、僕はこよりさんと常日頃、スマホを持ちながお互い一人で通信対戦の如くツイスターゲームでもしているんじゃないかと、そんな変な誤解を招く言い方に聞こえてしまうのだけど」


 ムフフ要素ゼロである。遠距離恋愛だからってそんな境地に達したくはない。


「じゃあ、あきら君は常日頃私とエッチな事をして過ごしているわ?」


「電話越しに出来る事ですかそれ!?」


 こんな調子で、夜はいつも彼女と他愛も無い会話をして過ごしている。多少、内容が過激だったりする事はあるけど、健全なお付き合いをする事が前提にある事情があり、お互い肌を晒したことはない。

 休日ともなれば遠路はるばる僕の家に遊びに来たり、または僕が行く事はあるけれど、彼女を目の前にして欲情してまう事はあっても、絶対に手を出したりしないと僕自身も心に誓っている。


「んっ……んっ……」


 彼女が唐突に色めく声を漏らした。スマホから聞こえる彼女の吐息は妙に色っぽくて、僕はドキっとした。


「ど、どうしたの?」と慌てて声をかけても、彼女の吐息が聞こえるばかり。僕は気まずさのあまり恥ずかしくなってきた。


 これは、終わるのを待った方がいいのだろうか。

 取り敢えず円座の上に腰掛け、膝を抱えて、スマホを耳に押し当て、そして彼女の行為が終わるのを、視界の先に映る毬藻(まりも)のぬいぐるみをひたすら眺めて待った。彼女がプレゼントしてくれたぬいぐるみだ。


「んっ! はぁ……んっ、指っ、届くっ」


 電話越しに聞こえる彼女の息遣いが荒くなってきた。

 彼女が裸のまま脚を拡げ、艶っぽい声を上げている姿が脳裏に過り、僕も息遣いが荒くなってきた。

 気のせいか毬藻のぬいぐるみも高揚しているように見える。大丈夫だろうか、僕は。


「こ、こよりさん そ、その指はまさか……」


 このままでは僕と毬藻のぬいぐるみがどうにかなってしまいそうだったので、堪らず声をかけた。お忙しい所本当にすみません。


「あぁっ、駄目ぇっ!」と、彼女の切ない声が僕の体をビクリとさせ「はいっ!? ご、ごめんなさいっ!!」とうわずった声で、つい謝ってしまった。


「──ん〜しょっと。ええと、なんであきら君が謝っているのかしら?」


「え? いや! な、何でもないよ! こよりさんこそ、何してるの?」


「何って……開脚のポーズよ? お風呂上がりにストレッチは効果的なのよ?」


「あっ。そうだよねー! ストレッチ、うん、実に効果的だよね!?」


 しまった。一人で何を盛り上がっていたのだ。勘違いもここまでくれば、僕だけでも十分カーニバルが開催出来そうじゃないか。僕の馬鹿、阿呆、踊ってやる。


「あっ、て何かしら? もしかするとだけど、あきら君の事だから私がお風呂上がりに脚を拡げてストリップでもしているんじゃないかと思った?」


「そんな事あるわけないって! アハハ……」


 全くその通りでスミマセン。


「……あきら君は期待と妄想に何を膨らませていたのかしら?」


「何も膨らんでないよっ!?」


 敢えて言うなら、妄想がお陰様でだいぶ膨らみました。ほら、こんなに。


「……期待と妄想に何を膨らませていたのかしら?」


「二回も聞かないでよ!!」


「あら、大事な事よ?」


「こよりさん! これ以上は勘弁して!」


 電話越しに、彼女がクスリと笑った。実は、平静を装って吹き出しそうになるのを我慢しているのではないだろうか。


「期待と妄想に何を膨らませていたのかしら?」


「まさかの三回目っ!?」


「あら、大事な所よ?」


「大事な所っ!?」


 彼女の攻めの姿勢に、僕は為す術もない。辛うじてツッコミを入れるだけで精一杯。

 傍からすれば、良い様に遊ばれているんじゃないかと思われるだろう。心配御無用、その通りだ。


「ま、いいわ。寛大な私はそんなあきら君を許してあげる」


「ありがとう、なんだか、腑に落ちないけど」


「寛大な私は、例えあきら君の脳内で欲望のまま汚されたとしても、許してあげるわ」


「ありがとう……ぅぅ」僕は悲しくなってきた。事実、あられもない格好の彼女を妄想してしまったのだから、情け無い限りである。


「好きに膨らませるといいわ」


「止めて! そんな許可もらってもちっとも嬉しくない!」


 膨張許可、頂きました。


「うふふ、あきら君は可愛いわね。いじりがいがあるわ」


 ふと、彼女がこんな僕と付き合ってくれている理由として『SとMの共存関係』があるのではと考えた事がある。Sを証明するにはMが必要になる。

 彼女が僕と付き合う事で、何かバランスを取っているのでは無いだろうか。

 おっと、僕がMだなんて一言も言ってませんけど、誰ですか勝手な事想像した人は──


「こよりさん、御慈悲を」


「今度はあきら君が私をいじったらいいじゃない。出会った頃、いじるのは得意って自己紹介してくれたじゃない」


「そんな性癖じみた自己紹介する人いますか!?」


「違ったかしら? 通信簿に書いてあったんだっけ?」


「先生の評価に悪意があるよねそれ!?」


 特筆事項に『いじり甲斐のある生徒です』なんて書く先生が居てたまるか。


「寝てる私をいじったんだっけ?」


「ちょっと待って! 僕は一体どんな変態にされているんですかっ!?」


 確かに、ソファに座って二人でテレビを見て、そのうち彼女が居眠りした時なんかは、僕の右手だけまるで異界から召喚された悪魔の腕のような禍々しい邪気を纏った事はあるけれども。

 勿論、勇者が目覚めたので平和は守られましたけどね、畜生。


「はい、次は猫のポーズ〜」


「ちょっ、こよりさん! 話し終わってないよ!」


 投げっぱなしにも程がある。が、よくある事である。


「お風呂上がりのストリップは効果的なの」


「ストレッチ! 間違えてますよーっ!」


「あらやだ、私ったらはしたない」


「はしたないとか、そんなレベル超えちゃってますよっ!?」


──お風呂上がり、その言葉だけでも何かが始まるんじゃないかと思わせる程に素晴らしい響きがある。旅の始まりに似た、何か。

 何がと聞かれたら困るけれど、例えばお風呂上がりから始まる、メロドラマ、ラッキースケベ、洋モノのエロと殺人のセットシーン、様々──


「あ、んん。これは……いいかも」


 まただ。僕の耳を犯す甘い吐息が聞こえる度、例え何度聞こうが照れてしまう。

 彼女がお風呂から上がって、その姿で体を柔らかくする為に色んな事をしている。それだけでも、僕には刺激が強過ぎて逆上せてしまうのに、さらには猫のポーズと聞いてしまっては、四つん這いの姿を想像するのは安易でそれでいて高レベル危険領域に達する。


「お尻を突き上げるの、少し恥ずかしいわね」


 その台詞、とても危険なので是非録音していいですか。出来れば録画がいいのですが安全の為にも。

 なんならVRセットも用意させて頂きますし。


「こんな感じ、かな?」


 あぁ、主よ。なんで僕に電話の相手が見える力が無いのですか。こんなの、悲しいじゃないですか。僕の目は何の為にあるのですか。


「あきら君、どうしたの?」


 いや、待てよ? 確かスマホには相手の姿を見ながら話す事が出来る神のような機能があったはずだ。

 あぁ、神よ。なんで僕の頭の回転を早くしてくれなかったのですか。僕の頭は何の為にあるのですか。


「おーい」


 かと言って、いきなり「月が綺麗だしビデオ通話にしようか」なんて不自然極まりない。

 あぁ、ご先祖様。なんで僕の遺伝子には語彙力が──


「あきら君!」


「えっ!?」


 しまった、真剣に煩悩に耽って我を見失っていた。


「ねぇ、あきら君。私、左手にスマホを持ってストレッチをしているのだけど、あきら君はどちらの手でスマホを持っているのかしら?」


「え? 僕も左手だよ?」


「やっぱり、そうなのね。何か様子がおかしいから、私の事考えながら右手で」


「してないよっ!? 断じてっ!! してないからねっ!?」


 変な妄想しかしてないよ、とは言えない。あらぬ誤解をされてしまったが、どう弁解したらいいかも思いつかない。


「あきら君の右手さんに嫉妬しちゃうわ」


「右手さんって誰ですかっ!!」


「あきら君! 右手さんと私、どっちを選ぶのよっ」


「ちょっ! なんで自分の右手と修羅場になってんのっ!?」


「両手に花とはこの事かしら?」


「うまくないからね!? 言っとくけどー!?」


 今度から右手さんと気まずい関係になりそうだ。


「きゃっ!?」


「こよりさんっ!?」


「大丈夫、体制崩しただけだから」


 彼女はスマホを持ちながら、さらにストレッチまでしている。片手で体を支えるのは女の子にはつらい事だろう。

 そして、僕がこの機を逃すわけも無く──


「こよりさん、スマホを置きながらビデオ通話にしたら? その方が安全だよ」


 安全とは名ばかりの僕の提案に、彼女が「そうするわ」と言った瞬間。僕は戦いに勝利した。思わず、右腕を突き上げる様に天高く掲げてしまった。


「……この辺に置こうかな。よしっと、ビデオ通話に切り替えたよ」


「オッケー」と気さくな返事をするよりも遥かに早く、僕は左の耳に添えていたスマホを瞬時に自分の目の前に移動させていた。脊髄反射、体の神秘的な能力に感謝。

 そしてついに、湯上がり美女、ここに降臨である。


「にゃおぉ〜ん」


 スマホの画面に映し出された彼女の顔。可愛い。

 じゃなかった。その体に視線を移すと、期待していた絶景ではなく──パジャマだった。パジャマ可愛い。

 予想をやや裏切る形で、そのパジャマ姿で、猫の真似をして微笑む彼女が僕のスマホに映っていた。


「馬鹿なっ、裸じゃないだとぅっ!?」


 僕はあまりの事に本音をぽろりと言ってしまう。高まる感情に、我を忘れて冷静さを欠いていた。とんでもない失態である。


「うにゃ?」


 彼女は猫の手を作ったまま首を傾げた。まだお風呂上がりで乾ききっていない艶めく髪と、その可愛らしい仕草は僕の劣情を煽り立てる。勿論、これは男の急所を攻撃するのと同様に反則である。


「私が裸でいるにゃんて、一言も言ってないにゃん」


 にゃんてこった。男のサガを逆手に取る彼女の策略だったにゃ……だったなんて。反則に反則を重ねるプレイヤーがこんなに可愛いなんて反則じゃないか。


「あ、いや、ええと、その……」


 僕の妄想なんて最初から彼女には見抜かれている。今更、どう言い逃れ出来るというのか。

 教えてくれ、大地よ。

 教えてくれ、太陽よ。

 教えてください、髭の立派なおじいさん。


「あきら君 、残念でした」


「ごめんなさい!! 僕はスケベで間抜けな社会人です!!」


 自分で言ってて悲しかった。

 社会人とは、学生さんのお手本にならねばいけない存在だ。

 せめて、僕のような人間もいるのだと、油断しては駄目なんだと悟ってくれ。それが、僕の願いだ。


「一体、あきら君の妄想の中で、私はどんな事になっていたのか聞いてみたいわね?」


「そ、そんな事聞かないでよ」


「あぁ、あきら君の妄想で私はものすごい事をされているんだわ!」


「そこまで酷い事になってないってば!」


「あきら君の妄想の中で、私は裸になってストリップを強要されているのね。可哀想に、あきら君の妄想の中の私」


「そんな事妄想してませんってば!」


「私はスマホを太ももで挟み、そしてカメラレンズに映る舞台はあきら君だけのショー」


「なにその変態極まるプレイはっ!? 僕より酷い妄想ですけど!?」


 流石に、エキサイトし過ぎである。おかげで、僕というキャラが最悪な形で崩壊を起こしている。

 彼女は小悪魔のように、僕に微笑みかけ、そして何か企んでいるような唇がスマホに映る。


「あぁっ! あきら君! 私恥ずかしくて死にそうですぅぅ。……おやおやこよりさん、そんな事を言っても画面にはこんな」


「やめてーーーーーーーーーっ!!!」


「あきら君のえっち」


「ド変態だよ! それはもうド変態だよ!」


「ふふふ、暖まってきた?」


「汗びっしょりだよ! 冬なのに部屋の中が蒸し暑いよ!」


「えへへ。じゃぁ、外に出て続きしましょっか」


「このまま外に出たら危険です! 家の中でお願いします!」


 お巡りさんに見られたら不審がられるのは目に見えている。


「え? 外?」


「中で! 中でお願いします!!」


「あらあらぁ。殿方に中でと懇願されるなんて、女の私はどうしたらいいのかしら?」


「何の話しですかぁぁーっ!?」


「あはははは」


 スマホに映る彼女は、楽しそうにお腹を抱えて笑っていた。


「はぁ……なんか疲れたよ」


 こんな汗を掻いてまで、僕は一体何をやっているんだか。


「さぁて、すっかり前戯が長くなっちゃったけど」


「それを言うなら前座ですよ?」


「うふふ。ねぇ、今日何かあったんでしょ? 会社で嫌な事でもあった?」


「え? あ、うん。そうなんだ」


 急に彼女がそんな事を言うものだから、僕はなんだか拍子抜けしてしまった。彼女が見抜いた通り、僕は彼女と話しをしたかった。聞いてほしい事があった。

 それにしても、さっきまであんなに馬鹿騒ぎしてたのに、本当に唐突だ。彼女らしい。


「いつもより電話が来るの早かったから、なんとなく」


「そういう事か」


「もちろん、声や顔も見てから、はっきりといつもと違うなぁって思うんだけどね」


「女の人って変化には敏感だと聞いた事あるよ。それを体験した気分だ」


「そうよ、敏感なのよ」


「アハハ。じゃぁ、こより先生に僕の悩みでも聞いてもらおうかな」


「もちろん。その代わり、今度こっちに来た時には色々奢ってもらうけどね〜」


「流石こよりさん、しっかりしていらっしゃる」


 去年は僕が飛行機でこよりさんに会いに行った。その時も色々と奢るはめになってしまったけど、あれからまた彼女は僕と何を食べるかをリストに書いてあるらしい。新しいノートを買ってきたと聞いた時は食が細くなった。


「何にしようかしら! フロマージュケーキと、ホッキカレーとぉ……」


「まだ僕の悩みすら聞いてないのに!?」


「ラーメンとぉ、チョコとぉ、あ! 牧場アイスも!」


「まだ食べるの!?」


 そんな目を輝かせている彼女を見ていたら、僕の悩みなんてどうでも良くなってきた。

 悩みを聞いてもらうより、彼女と楽しく会話をしている時間の方がずっと有意義だと気付く。

 まぁ、既に僕は何を悩んでいたのかすら忘れてしまったのだから、彼女の前では些細な事だったのだろう。僕に気付いてくれただけで、それだけでもう十分だった。


「あと、ラーメン!」


「シメもラーメンなの!?」


──そして今夜も、誰も居ない部屋で彼女と眠くなるまで。



 【次回予告!】 


『彼女とお父さんごっこ』


「ねぇ、あきら君。唐突だけどお父さんになってほしいの」


「唐突以前の問題発言ですけどぉ!?」


 【お楽しみに! 更新未定だけど!】

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