月神の宿る右眼
夜の平原を、無数の影が駆けていた。両眼に赤い燐光を灯すそれらは、人族ではない。矮躯に豚の頭部を持つ、醜いオークの群れだった。五十を超える群れが目指すのは、月光に照らし出されたいくつかの布製の建物だ。そこへ行けば、羊がいる。酒もある。そして人間も。欲望に眼をぎらつかせて、オークたちは猛然と走っていた。
小高い丘の上から、オークの進軍を見つめる者がいた。栗毛の馬の背に乗り、ゆるやかな民族衣装はやわらかな曲線を描いていた。女である。長く艶やかな黒髪が、平原の風に乗ってさらりと揺れた。
女は、オークの行く先に眼をちらりと向ける。白い羊の群れが、怯えるように身を寄せ合っている。かなり離れた場所だったが、女の眼にはそれがはっきりと見えていた。
女は、手にした短弓へ矢をつがえ、引き絞る。左眼を閉じ、右眼だけでオークの群れの先頭へ、狙いをつけた。同時に、女は両股で馬の胴を締め付ける。滑り出すように、馬が丘を駆け下ってゆく。
ひょう、と風が鳴り、オークの群れの先頭に乱れが起きた。横合いから頭を撃ち抜かれて転倒するオークに巻き込まれ、後続のオークたちが何匹か転がった。足を止め、オークたちは周囲を見回す。馬蹄の響きとともに、また風が鳴った。一度に、三本の矢が三匹のオークの眼を貫く。血を噴き出して倒れる同胞の姿は、しかし彼らの誰も顧みることは無い。
ただ一騎の、死神の姿を彼らは見る。月光に照らされ、前髪の間からはほのかに降り注ぐ光と同じいろが煌いている。引き絞られた弓につがえられた矢は、三本。放たれると、また三つの血の花が咲く。
栗毛を駆る美しい姿に、オークたちは一瞬魅了されたように立ち尽くしてしまっていた。だが、矢を放ち終えた女が次の矢をつがえると、弾かれたように彼らは動き出す。手にした武器を、それぞれに女へと投げつけ始めた。放物線を描き、武器が女と馬に迫る。ふわりと、女を乗せた馬が横向きに跳んだ。それだけの動きで、無数の武器は全て地に落ちていた。そして、また三矢。風が鳴った。
武器を失い、オークたちはそれでも戦意は失わない。醜く鋭い手の爪を使い、土を掘って投げつける。しかしそれは、何の脅威にもならない。月の光の下で、オークたちは死骸へと変わってゆくのみだった。
最後まで立っていたオークの眉間に、矢が突き立った。周囲を旋回するように駆けていた馬の足が、ゆっくりと並足になり、停まった。女は短弓を背中へ戻し、栗毛のたてがみを撫でる。土埃が舞い、吹き抜ける風に溶けて消えていった。
平原の白く丸いテントのような建物から炊煙が上がり始めたのは、まだ夜も明けきらぬ暗い時間だった。豊かな牧草地を求め、羊を連れて遊牧を成す民たちの朝は早い。
彼らのテントは同じような素材で作られているため、外見に違いは無い。狩猟などで獲れたものは分け合い、均等に配るためだ。その中で、ひときわ大きなものが中央に建っている。それは、彼らの族長一族の住むテントだった。
小さなテントであれば丸々三つは入る内部の床には、狼の毛皮が敷き詰められていた。中心に置かれた炉の前に、羊の肉が串に刺さって並んでいる。ふわり、と肉の焼ける香ばしい匂いがテントの煙突から逃げきれずに充満していた。
「シズ、いつまで寝ているの?」
肉の焼き具合を見ていた中年の女が、いまだ布団にくるまった女へ声をかける。もぞり、と布団が動いた。
「……あと少し、肉が焼けるまで、寝かせてください」
寝ぼけた声の女、シズの抵抗は中年女によって容易く破られる。布団を、剥ぎ取られたのだ。夏とはいえ早朝の空気は冷たく、シズは両腕で身体を抱きしめるように小さく身を丸めていたが、やがて諦めたのか眼を擦りながら身を起こす。
「おはようございます」
「おはよう。さあ、ご飯の前に顔を洗ってらっしゃい」
中年女に追い払われるように、シズはテントの外へと出されてしまう。薄い寝間着に、長い黒髪が張り付いてくるが防寒には何の役にも立たない。身を震わせながら、シズはテントの脇にある水瓶で顔を洗う。痺れるような水の冷たさに、シズの頭は覚醒した。
「そういえば、今日は出立の日、でしたっけ……」
乾いた布で顔と髪を拭いて、シズは呟いた。そして踵を返し、テントの中へ戻ろうと足を踏み出す。ぼすん、とシズの顔が何かにぶつかった。フェルトの生地の中に、しっかりとした骨組みを感じる。ぺたぺたと、シズはそれを触った。どうやら、テントの外壁にぶつかってしまったらしい。シズは手探りで、何とか入口を探り当てて中へと滑り込んだ。
「眼の調子、あまり良くないのかい?」
炉の前で振り返った中年女が、尋ねる。シズはすまなさそうに、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。顔を洗っていたら陽が昇っていて、ちょっと眩しいくらいです」
薄暗いテントの中で、シズは炉の炎に眼を細めながら言った。
「朝ご飯を済ませたら、オグの所で診てもらいな」
中年女が串を一本、炉の前から引き抜いてシズに差し出す。
「オグ様に、ご迷惑ではないですか?」
シズの質問に、中年女はカラカラと笑う。
「迷惑なもんかい。あんたが行けば、オグは喜ぶ。なんなら、オグのテントだけ後で運んだっていいんだよ?」
中年女の言葉に、シズの白い頬がさっと朱に染まる。
「オグ様は、そんなことはしません!」
「どうだか。アレも一応、部族の男だからね。まあ、そっちのことじゃなくても、ゆっくりと調べてもらって来るんだね。シズに何かあったら、大変だもの」
シズの否定を笑い飛ばし、中年女が言った。
「このあたりにも魔物は増えてきましたし、族長様にも、警戒を強めるようにお伝え願えますか?」
シズはうなずき、串の肉に齧りつく。ほどよく焼けた肉の中に、香りの強い野草が練り込まれていた。
「……美味しいです」
シズの言葉に、中年女は満足そうにうなずいた。
「それ食べてたんと精をつけて、オグの所へ行ってきな。シズがオグとひっついてくれりゃ、うちの部族も安泰だよ」
肉を咀嚼していたシズが、咽喉を詰まらせむせた。
「もう、ですからオグ様とは、そういう仲じゃありません……」
「でも、嫌いでは無いんだろう? シズ、あんたがうちの部族で客分になって、もう半年だ。魔物を狩る腕前は、部族の男にも引けを取らない。どころか、短弓を使わせりゃ誰も敵わない。そんなあんたを嫁にしたい男どもが、黙って見てるのは、あんたがオグの奴に惚れてることを、みんな知ってるからだ」
中年女の指摘に、シズは食事の手を止めて俯いた。
「……どうしてみんな知ってるんですか」
「そりゃ、あたしが広めたからね。とはいっても、始めは単なる虫よけのつもりだったんだよ?」
じろり、と上目遣いに視線を向けるシズへ、中年女はにやりと笑って見せる。
「……それなら、どうしてオグ様は何も知らないんですか?」
シズの言葉に返ってきたのは、嘆息だった。
「アレが、変人だからさ。小さい頃町へ行って、学問なんかさせたのがいけなかったのかねえ……すっかり奥手になっちまって」
ずぼり、と中年女は串を引き抜き、反対側の空間に座る男へそれを投げ渡す。
「あんたは、どう思う?」
串を受け取った男は、中年女の質問に首を傾げた。
「なるように、なるしかないんじゃねえか? シズは器量もいいし、俺は別にこのままでもいいんだがよ」
「けっ、役に立たないねえ。ほら、とっとと食べて、家を畳むんだよダメ亭主」
目の前で繰り広げられる中年夫婦の光景に呆れながら、シズは再び肉に口をつけた。少し冷めてしまってはいるものの、じんわりと温かな活力が体の中へと拡がってゆく。
「……頑張ります」
小さなシズの声は、中年夫婦の耳に届くことはなかった。
食事を終えたシズは、族長のテントを出て集落の外れへと向かう。シズの視界は輪郭がぼやけ、白と黒の影がかろうじて見える程度だった。
「……いつもより、酷くなってる気がする」
慎重に足を運びながら、シズは呟く。魔物を狩った次の日は、いつもこうだった。魔物は夜に集落を襲う。月の淡い光の中でなら、シズの眼は普通に、そしてそれ以上に働いた。だが、その翌日になると太陽の光が眩しすぎるように感じ、近くのものを見るのも困難になってしまうのだ。
それでも何とか、シズは小さなテントの前にたどり着く。集落から距離を置いたように、ぽつんと一棟だけ離れて建てられた、テントだ。
「ごめんください、シズです。オグ様、いらっしゃいますか?」
入口の前に立ち、シズは呼びかける。
「ああ、シズか。入ってくれ」
すぐさま応じる声が上がり、シズがテントの入口をめくって中へと入った。狭い室内の中央には小さな炉が置かれており、その前に一人の若者が狼の毛皮に座っていた。つるりと髭を剃った口元は真一文字に結ばれ、じっと見返す眼は鋭い。
「おはようございます、オグ様」
軽く頭を下げて、シズは微笑みかけた。
「こちらへ来て、座ってくれ。眼を診る」
言われるままに、シズは指し示された毛皮の上、オグの正面へと正座する。すっと、オグの指がシズの顔に伸びた。ぴくん、とシズの身体が揺れる。
「大丈夫だ。痛くはしない……まだ、慣れないか?」
「ご、ごめんなさい……」
オグに触れられた頬が、熱い。シズはそっと目を伏せる。そんなシズの右眼の下まぶたを、オグの指が軽く下げる。
「シズ、眼を開けろ」
言われて目を開いたシズは、はっと息を呑んだ。オグの顔が、間近にある。吐息がかかりそうな距離で、オグはシズの眼を観察していた。
「昨夜も、魔物と戦ったんだな」
くすぐったい吐息と一緒に、オグの低い声がシズの心を揺さぶる。
「ひゃい……あ、はい。昨夜は、オークの群れを」
「そうか」
シズの答えに、オグは身をすっと引いた。近かった体温が離れてゆくことに、シズは少しの寂しさを覚える。
「薬を出そう。上を向け」
薬の入った小瓶を片手に、オグが言ってシズの顎に指を添える。シズは、そっと目を閉じる。
「……眼を開けろ。薬が入らん」
呆れたようなオグの声に、シズはぱっと目を開く。右眼に、ひとつの滴が落ちてきた。
「何度か、瞬きをするんだ」
オグの言葉に従い、シズは目を瞬かせる。ひんやりと、目の奥に爽やかな感覚が拡がってゆく。
「……よし、もういいぞ」
オグに言われ、シズは顔を戻した。閉じたシズの右眼から、一筋の涙が流れ落ちる。
「あ……」
「擦るな。そのままにしていろ」
目元にやったシズの手を、オグが取って言う。こくり、とシズはうなずき、その手を握り返してじっとオグを見つめた。
「……左眼も診る。手を離せ」
オグの言葉に、シズの手がするりと下りた。オグは両手の親指で、シズの左眼のまぶたをこじ開ける。じっと見つめてくるオグの瞳を、シズは黙って見返していた。やがてオグはシズの顔から手を離し、深く息を吐く。
「シズ、左眼だけを開けて、これを見ろ。何色に見える?」
オグが、一枚の布を持ち上げて言った。
「白い、布です」
シズの答えに、オグは首を横へ振る。
「右眼を開けて、見てみろ」
言われて両眼で布を見て、シズは息を呑んだ。鮮やかなそれは、黄色い布だった。
「花を使って染めた布だ。お前にくれてやる」
差し出された布で、シズは髪を結んだ。ふり、と頭を傾け、オグを見る。
「似合いますか?」
問いかけに、オグは顎に手をやりふむと唸った。
「悪くは無いな。そうやって、娘のように身を飾るお前は」
ぶっきらぼうな言葉に、シズはぱっと笑顔になる。
「本当ですか? お世辞でも、嬉しいですけど」
「ああ。悪くは無い。だから、魔物と戦うのはもうやめろ」
返された言葉に、シズの顔が固まり、笑顔が消える。
「……ダメ、ですか」
しゅん、と肩を落としたシズに、オグはうなずく。
「魔物の流す血は、毒だ。戦場の空気は、お前の眼には優しくない。いずれ近いうちに、お前の左眼は見えなくなるだろう」
もたらされた言葉に、シズは愕然となってオグを見返す。オグの瞳は、真剣そのものだった。
「でも……」
「族長には……親父には、俺から言っておく。戦えなくなったからといって、平原の民はお前を追い出したりはしない」
「でも、夜に動けるのは、私だけです」
「夜の平原には悪霊が住まい、呪いをもって人を殺す。そんなのは、くだらない迷信だ。親父にはよく言い聞かせて、皆で周辺を回らせるさ。もともと、お前が一人で戦うことに、俺たちが甘えていただけだ」
「でも……!」
食い下がるシズの肩を、オグが掴んだ。真っすぐに射抜くような視線に、シズの心臓がどきりと鳴った。
「お前は怖く無いのか? 魔物と戦い続けることが。そして、光を失うことが」
問いかけに、シズは顔を俯かせ、すぐに上げる。
「怖く、ありません……」
じっと、オグはシズの眼を見つめる。
「俺の前で、嘘はやめろ」
厳しい声音に、シズの視線はオグの胸へと落ちた。
「……怖い、です。今でも、眩しくって、ここまで来るのに苦労はしましたし、魔物と、命のやり取りをするのは、とても怖いです」
「だったら……」
言いかけたオグの言葉を、今度はシズが切った。顔を上げて、真正面にオグを見据える。
「でも! 私はここを、皆を守りたい! 行き倒れになった私を、拾ってくれたここの人たちを、手のかかる可愛い羊たちを、それから、大好きな……」
オグの両腕が、シズの細い身体に回される。ぐっと引き寄せられ、強い力に抱きしめられてシズは声を止めた。
「言うな、それ以上は……」
耳元を、オグの熱い吐息がくすぐった。そっと、シズはオグの背に手を回す。
「はい……オグ様」
「お前の、俺への気持ちは知っている。俺も、お前のことは嫌いじゃない……いや」
オグの両手が、シズの肩に乗せられる。そうして、間近でオグはシズを見つめた。
「一度しか、言わない。俺は、お前が好きだ、シズ」
さっと、オグの顔がさらに近づいた。目を閉じる暇もなく、目と目を合わせたまま唇が重なった。
「……お前の、その満月のような瞳の色が、俺は好きだ」
「一度しか、言わないんじゃ……んっ」
ぼう、となった口を、また塞がれた。
「細かいことを、言うな。俺が、お前の気持ちに応えれば、お前を部族に縛り付けることになる。そう思っていたから、俺は……」
「つれなくすれば、諦めると思いました? 私は、片思いならそれでもいい、と思ってました……」
そうして、しばらく無言のままの応酬が続いた。
「……シズ、お前、どうしても戦いをやめるつもりは無いのか?」
息を整えながら、オグがシズを見つめながら聞いた。
「……はい。私が、お世話になった皆にできる、たったひとつの恩返しですから」
シズの答えに、オグは少しの間、考えるように顔を伏せた。
「それなら、こうしよう。シズ、戦いをやめたら、一緒になってやる」
オグの言葉に、シズは目をまん丸に見開いた。
「え? で、でも、私はこうして、オグ様と一緒にいられれば……」
すっと身を寄せようとするシズから、オグは身を離す。
「じゃなきゃ、無しだ。全部」
「えと、キスも、ですか?」
「ああ。全部って言ったろ?」
「……意地悪です、オグ様」
頬を膨らませて見せると、オグは苦笑した。
「別に、今すぐやめろというわけじゃない。だが……これ以上続けるのは、本当に危険なんだ、シズ。惚れた女が戦いで身を削るのを、黙って見ていられるほど俺は冷たくはない」
じっと見つめてくるオグの瞳には、真摯な思いが込められていた。
「……オグ様は、私の目が好きだって、言いましたよね?」
「ああ」
「私も、オグ様の目、好きです。厳しいけれど、どこかに慈しみを感じさせてくれる、優しい目が。ですから……」
「戦いを、やめる気になったか?」
オグの言葉に、シズは首を横へ振る。
「今は、まだ、です。戦士の皆に、夜の闇の中での動き方とか、教えなくちゃいけませんから。でも、いつか……私の目が、見えなくなる前に……私を、オグ様の奥さんにしてもらえますか?」
オグの瞳を、シズは見つめ続ける。しばらくの沈黙のあと、オグは小さくうなずいた。
「一緒になったら、治療に専念してもらう。必ず、元のように見えるようになる。俺はそのために、一生を使ってやろう」
「……はい!」
笑顔でうなずいたシズの右瞼に、オグが顔を寄せて軽くキスを落とした。
「そうなるまでは、お預けだな」
ふっとシズに笑いかけて、オグはそう言った。
緑成す豊かな草原を、羊を連れた遊牧の民が通り過ぎてゆく。馬や羊に草を食ませ、彼らは広大な平原をどこまでも渡り歩いてゆく。群れ集う人の列の中に、長い黒髪に黄色の髪飾りをつけた女の姿があった。その隣には、身綺麗な長身の男の姿もある。寄り添うように、二人は群れの中を歩き続けてゆくのであった。
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