2-9 今度こそ君を守らせてくれ
あれから約一年。花は答えをまだくれない。
ついでに、就職の話はごまかされ続けている。大学三年の時点で花に告白をしたのは、彼女が成人してから、というのもあるが、何より、就職活動をあまり遠くでされたくないから、というのが大きい。さらにいうなら自分が三十代になる前に捕まえておきたかった、というのも少しはある。
が、そう先走って二十歳を過ぎて間もない花を捕まえにいったものの、結局未だ、花がどういう所に就職を考えているか分からないし、俺は今年大台に乗る。
自業自得だが、全て後手後手に回っているのが現状だ。
今更、あのとき捕まえておけば……と思ったところで仕方がない。
とはいえ、最近は花も大分軟化してきた。
休日の約束を難なく受け入れてくれるようになったし、デートも月に何とか2回前後は死守できている。
ただ、「おつきあい」にすら至っていないのが難点なのだが。手をつなぐ以上のことを許す気配が全くない。この年で、中学生のようなデートをする羽目になるとは思わなかった。
けれど、今は、そんなことよりも花の就職先だ。
大学も卒業し、花が家に帰ってきた。けれど、どう見ても、実家暮らしをする様子ではない。
就職先はどこなのか、県内か、県外か、会える距離なのかどうなのか、俺のと関係をどうするつもりなのか、尋ねても「秘密」と笑って答えようとしない。おばさんに聞いても花から口止めをされているようで「ごめんね」と申し訳なさそうに苦笑される始末。
俺のとの関係を悪く思っていないおばさんが、苦笑する程度ということは、おそらくそう最悪の状況ではないと思う、思いたい。
「あの子も思い込んだら一途というか、頑固というか……」
あきれ気味のおばさんだが、それでも娘の秘密をこっそり教える気はないという。「一度ばらしちゃうと、今後の信用をなくすでしょ?」と笑って。
「花にはばれないようにしますよ」と半分本気でさらに押してみれば、「じゃあ、透君、娘の秘密を簡単にばらしちゃうような私を、あなたは信用できるの? 私と花じゃなくて、私と透君の信頼関係よ?」
からかうようなおばさんの言い方に、「確かにそれはまずいですね」と声を上げて笑ってしまう。
「つまり、それは、これから先のおつきあいがある、という意味にとらえても?」
「あら、やだ。しゃべりすぎちゃった」
おばさんはクスクスと笑って、もうそのことに触れるようなことはしなかった。
数日前から花がいない。
引っ越したのだといわれた。どこに、なのかは教えてもらえない。言いたければ花から伝えるだろうと。
ラインで話しかければ、答えも返ってくる。けれど詳しく聞こうとすると、秘密とはぐらかされる。
とことんまで隠すつもりらしい。
このまま逃げられるのか。焦燥感が募る。
こういう逃げ方をされるとは思ってもみなかった。花のことだから、どうしても駄目だと思えばはっきりと伝えてくるだろうと。こんなフェードアウトみたいなやり方は、らしくない。
何か意味があるのか。
意味があってほしいと、願った。
四月に入った。
朝、花からラインで今夜の予定を聞かれた。
入社式も終わり、新人がちらほらいる職場は慌ただしい。が、歓迎会はまだ先で、一応定時に終われるだろう。あいていることを伝えると、すぐさま待ち合わせの約束がされる。
どういうつもりなのかついに宣告を受けるのかと、胸の奥に鉛を落としたような気分になった。
花も悪い気はしてないはずだ……なんていう自信は、就職先すら教えられない、無言で引っ越しをされるといった諸々で、もう皆無に等しくなっている。後次に来るとしたら、想像できるのは、とどめの別れの言葉ぐらいのもんだ。
吐く息も重苦しいものになった。外は若葉芽ぶる春だというのに。
待ち合わせは、俺の会社にほど近い、大通り脇のスーパーだった。
「透くーん!」
うれしげな様子に、おや? と思う。リクルートスーツでパンプスを履いて、いっちょ前に化粧をして、就職活動中と大差ないとはいえ、確かに新社会人のように見える。仕事初日だったのかもしれない、少し浮かれた様子が見て取れる。
そう、花は浮かれている。どう見ても別れを切り出す様子ではない。そもそもつきあってないことはこの際無視するとして。
「透君、大人になったよ、私」
知ってる、ずっと前から、おまえは大人だったよ。
その言葉は飲み込んで「ああ」とだけ返す。
俺には、花が何を考えているのか、まったく分からない。
戸惑っている俺に気付いてもいないのだろう。花は何がそんなにうれしいのか、浮かれた様子で俺を「買い物しよう」とスーパーへと引っ張る。
今までにない素直な様子は、高校時代の、一途に想いをぶつけていた頃の花を思い出させた。
「ねぇ、透君、なんか食べたいもの、ある?」
「いや」
「じゃあ、私の得意料理ね」
は? と問いかけるまもなく、花の勢いで別の話に転換され、気がつけばスーパーを出ていた。
「透君がいるから、助かっちゃった」
トイレットペーパーは荷がかさばるからと笑っているが、もう、全く意味がわからない。
「じゃあ、次はうちに案内するね。ナビするから、運転よろしく」
完全に花のペースだ。
「……近いのか?」
「うん、南町四丁目」
「……は?」
それは、俺の職場と家との間ぐらいに位置する。
「そんな近くなのに一人暮らしするのか?」
「うん。だって、今更親と同居はいやだよ。めんどくさい。男の人はっていうか、透君ちはどうか知らないけど、女の子はなんだかんだ言っても、親が心配して、監視されてる気分になるもん」
「よくおじさんとおばさんが許したな」
「見えなかったら気にならないんだって。子供元気で留守が良いって言ってた」
あはははと花が軽やかに笑う。
確かに、心配をしなければいけないようなタイプではない。しっかりしているし、一人だからと言って道を外すタイプでもない。
「それに近いから、気になった時はすぐに呼び出せるし、お互い気楽な距離感なんだよね。スープが冷めない距離っていうか」
「いや、スープは冷めるだろ」
車で30分かかる距離だ。思わず突っこむと、花が大うけする。
気楽なもんだ、と思う。こっちはいつふられるかと悩んでいたというのに、なんなんだこの軽さは。恨みがましい目になってしまうのも仕方ないだろう。
「なるほどな……で」
「……で?」
「何で俺に黙っていた」
声が責めるようになっている自覚はあった。けれど花は小さく肩をすくめるだけで、笑顔で首をかしげていった。
「……驚かせたかったから?」
「俺を胃潰瘍にする気か」
「おおげさ」
花が笑う。大げさなものか。秘密主義を通されたあいだ、ずっとギリギリと胃が痛んでいた。年度末の仕事と合わさって、ひどい思いをした。
「それで、おまえの部屋に招待してくれんの?」
「うん! 透君が招待客第一号だよ」
朗らかすぎるのが逆に不安になる。こっちは結婚も視野に入れて付き合いを申し込んでいる男だと言うことを、花は本当に自覚しているのだろうか、と。
未だほどいていない荷物が残る部屋に案内されて、ざっくりと中を見る。
「悪くないな」
「うん、会社も近いし、割と広いでしょ」
「会社、近いのか」
「歩いて行ける距離」
座ってて、と促されて、ラグの上にとりあえずあぐらをかいてみる。
花がぱたぱたと動き回って買ってきた物を片付けている。
「なんか手伝おうか?」
手持ち無沙汰で立ち上がれば、花が首をかしげた。
「料理、出来る?」
「あんまり」
肩をすくめれば、クスクスと笑う軽やかな声が耳をくすぐる。
「じゃあ、タマネギはいでよ」
隣に並んで言われたとおりにタマネギの皮をはぐ。自分より小さな体が隣で手際よくちょこまかと動く。うどの大木にでもなった気分で棒立ちでちまちまとタマネギをはぐ。
こっちは花の意図を気にしてばかりいるのに、料理に意識がいっている花が小憎たらしく、ふといたずら心が沸いた。もし、その言葉を言えば、花は、どんな反応を示すだろう、と。
恨みがましく、自分を意識すらしてない花を見つめてから、わざと軽い口調で言ってみる。
「新婚みたいだよな」
ぴたりと、花が止まった。
けれどすぐ料理の手をぎこちなく動かし始める花はこちらを見ない。代わりに、頬が、耳が、赤く染まっている。
無言のまま、少しぎこちなくなった動きで花が料理を続ける。
「……透君は、さ。私が信用できるまでまつっていってくれたけどさ」
「うん?」
「その……どのくらい……」
言ってから口をつぐむ。
どのくらい?
「いつまでも待つけど」
「……そうじゃなくって、その……新婚って言ったけどさ、透君は……」
言いにくそうな様子に、ようやく花の聞きたかったことに気付く。
「……それ、この状態で言った方が良い?」
「え?」
「プロポーズするときは、もうちょっとそれっぽい場を整えるぐらいの甲斐性はあるつもりだけど。ていうか、それが大前提なのは、分かってると思ってた」
「わ、分かるわけないよ!!」
「俺は最初からそのつもりだったし……言ったことなかったっけ?」
「ないよ!!」
「……じゃあ、そのつもりだから、つきあって」
「お、重いよ!!」
「……だよなあ」
無駄な動きが増えながらぎこちなく動く花を見ながら、はぎ終わったタマネギを手の中でころころと転がし、苦笑いをする。
確かにようやく社会人になったばかりの花には重いだろう。こっちはもうすぐ三十路でそろそろ本気で決めたいぐらいだが。
ため息をつけば、慌てた様子で花が俺を振り返った。
ようやくこっちを見た。
「俺は、待つよ」
何とか笑みを浮かべて見せたが、花はとても困った顔をして俺を見上げてくる。
笑みは保っていたつもりだが、俺はその表情のままひどく動揺した。
結婚を意図する言葉をいえば、帰ってきたのは花の困った表情。そして今まで就職や引っ越しを教えようとしなかったこと。
全て、遅かったのだろうかと、胸の奥に鉛を落とし込む。あの日、高校生の花を手放したとき、二人の未来を切ってしまったのだろうかと。あの日の決断を後悔したことは何度もあったが、間違っていたと思ったことは一度もない。
けれど、完全にふられるかもしれないこの状況を前にして、初めて俺は間違っていたのかもしれないと思った。
あの日花の気持ちに応えて、それからの四年を花と一緒に悩んだり苦しんだり後悔したりしながら過ごすべきだったのだろうかと。その結果、別れることになったとしても、今ここでふられるよりかはよかったかもしれない。
一瞬の間に、そんな後悔や不安がどっと胸に押し寄せる。笑顔を保っているのは、花の前でかっこつけたい、なけなしのプライドだ。
「もう、待たなくて、良いよ」
躊躇ったように、泣きそうな顔で花が言った。
「……そうか」
「……うん」
「……悪かったな、振り回して」
花が困った表情のまま首をかしげる。
「いいよ」
笑顔は保てているだろうか。静かに呼吸を数回繰り返し、手の中で転がしていたタマネギを、調理台に静かに置く。
「……悪い、帰るわ」
花が驚いたように顔を上げた。
「なん、でっ」
「……さすがに、完全にふられてまで一緒にいられるほど図太くないから」
迷いがあるうちは勝算があると思っていた。でも待たなくていいと花はいった。その言葉は今までの戸惑いながらも俺の強引さに流されてきた曖昧さとは違う、覚悟のような意志があったように思えた。
もう、花はどうするか決めていたように見える。
いつまでも待つつもりだった。手に入れるまで口説くつもりだった。けれど、それが花にとってただの迷惑行為になった、その時は……。
自分の浮かべている笑みが、こわばっているのが分かる。けれど、今は無理にでもそうしていないと、身勝手な言動をしてしまいそうだった。
「……じゃあな」
花の顔を見ることすら出来ず、うつむいて背を向けた。
「……ちが……っ」
腕を捕まれて、焦った様子の花の様子に戸惑う。
泣きそうな顔が俺を見上げていた。
「待たなくていいって言ったのは!! そうじゃなくってっっ」
泣きそうな顔をして、俺の腕をつかむ手が震えている。
「そういう意味じゃなくって……」
声が震えている。言葉の途切れた唇も、少し色を落として震えながら言葉を途切れさせた。
「……花?」
ひどく動揺した様子の花を、空いた手で落ち着かせるように頭をなでる。
「無理しなくていい。そんな気ぃ使うな」
「……っ、だからっ」
引き留められているのは分かる。だからといって、どうしてダメか説明されるのも、ふる言い訳を聞くのも、今はきつい。
「……聞いてやる余裕がなくてごめんな。落ち着いたらちゃんと聞くから……」
今は帰るわ……と、続けようとした。
「逆だから!!」
叫んだ花に首をかしげる。
何が逆。
「待たなくていいっていうの、待っても無駄って言うんじゃなくて、お待たせしましたって事だから!!」
なんだそれは。意味が分からん。
花がおかしいのか、俺がおかしいのか、しばらく見つめ合う形で、お互いを探り合う。
「……つまり?」
「つまり……!!!」
呆然となっている俺を、花が顔を真っ赤にしてにらんでくる。
「……透君、改めて私に付き合いを申し込んでくる気はある?!」
真っ赤になって、えらくけんか腰な花に、ようやく、頭が働き始める。
花の言いたかったことがようやく分かった。
「……逆って、そういう、事……」
うれしいよりも安堵でどっと力が抜けた。体が震える。
吐いた息が、小刻みに震えて、情けないほどに心臓が胸を打つ。
やばい、泣いてしまいそうだ。感情の箍が外れかけて、顔を隠すように手を目元に当てる。
ははは……と、力ない笑いが漏れてしまうと、花が困った声で「透君?」と俺を呼ぶ。
「……花」
名前を呼ぶと、だらりと下がったあいた片手を握りなおされる。受け入れられた気がして、感情むき出しの言葉が漏れる。
「……好きだよ」
つぶやいて、何とか感情を落ち着かせると、指の隙間から花を見た。
頼りない顔をした花が、じっと俺を見つめていた。
花が両手で俺の手を包むように握っていて、それが、泣きたいほどうれしいと感じる。
顔を隠していたもう片方の手を花に伸ばして、問答無用で抱き寄せる。
花の細い体は首から肩に向けて回した手で簡単に包み込める。
花は、抵抗をしなかった。
俺の肩口に花の額を押しつけるように抱きしめた。花のうなじに顔をすり寄せて「花」ともう一度呼んだ。
花は、やはり抵抗することなく、代わりに応えるように俺の手をきゅっと優しく握り返してきた。
「……俺は、いっぱいおまえを傷つけてきたよな。……泣かせもした。でも、おまえが許してくれるというのなら、……そばにいても良いと言ってくれるのなら、今度は傷つけるんじゃなく、守るから。おまえを傷つけることからも、泣かせてしまうことからも守りたい。傷ついた時、泣きたい時にそばにいて支えたい」
「……とおる、くん……」
花の声がうるんで聞こえる。花の握る手に力がこもっている。それに俺は勇気をもらう。
「花、どうか。何度も君を傷つけた俺だけど、許してくれるなら、ずっとそばにいると約束するから。今度こそ君を守らせてくれ」
抱き寄せる手に力を込めれば、体を寄せた花が、何度もうなずいた。




