1-9 私だけを見ていてほしい、なんてわがままは言えない
私が成人するのを待っていた、と、透君は言った。
「じゃあ、他に好きな男はいるか?」
透君のいった言葉が思いもよらないこと過ぎて、頭が働かない。
だから、問われるまま、私はいないと首を横に振った。
「そうか」
少しだけほっとした様子に、本気で言っているらしいことだけは、何となく理解する。
「今更だと言われそうだが……俺は、花のことが好きだ。おまえと、付き合いたい」
久しぶりの再会で動揺していたところに、唐突にそんな言葉を言われたところで、一体どんな反応が返せるだろう。
私の頭の中は、真っ白だった。
「そんなこと、突然言われても……」
「……そうだな、花にしてみれば、突然だよな」
透君が自嘲気味に笑う。
「今日、返事しなくてもいい。あのとき花を突き放したのは俺だ。だから今度は俺が待つ」
透君の手が伸びてきて、長くて骨張った指先が私の頬をくすぐるように撫でた。
目を細めて、優しい顔をして、優しく優しく触れてくる。
「花が俺を口説いてきたように、今度は俺が花を口説くから、覚悟しておけよ」
「……考え、られないよっ」
小さな悲鳴を上げた私を、透君が少し切なげに見つめて笑った。
「立場逆転だな。なぁ、花。大人の本気を見せてやろうか?」
少しかがんで、耳もとでそうささやいた透君は、チュッと耳たぶの辺りに音を立ててキスをした。
「……なっ」
「じゃあな、覚悟しとけよ」
「必死であきらめたのに、なんで今更こんなことするの!!」
出て行く背中に叫ぶ。
ヒドイよ。透君、ひどいよ。あきらめなきゃって、がんばったのに。忘れられなくても、やっと、透君のいない日常になれてきたのに。なんで、今更。
「今更じゃなくて、今になったから、だ。花。長かったよ。おまえが俺の前から消えてから、今まで」
「……意味、わかんないよっ」
「……花」
「帰って! 帰ってよ……!!」
叫ぶ私に、透君は「またな」と言ってあっさりと帰って行った。そのあっけなさに物足りなさを感じてしまう自分は、一体、彼にどうして欲しかったんだろう。
その日から、透君はほんとに私を口説きだした。
「春休みは短いからな」なんていいながら、仕事が終わると早々に私の所にやってきて、予定のない日は俺に寄こせと私の家族まで巻き込んで。晩ご飯に誘われたり、ドライブしたり。
なんだかんだと断れないのは、惚れた弱みだと思う。
やっぱり、私は透君が好きだ。こんな事されると、尚更気持ちは強くなるばかりで。
付き合ってしまえば良いと思う気持ちもある。はいって頷くだけで良い。私も好きって伝えるだけで良い。
でも私は透君が本気というのが信じられなかった。冗談でこんな事やるとは思ってないし、本気だと思う。でもそこに、私への気持ちが本当にあるというのが信じられない。
気持ちがないのにこんな事する理由がない、理性はそんな風に訴えるけど、感覚的に信用出来ない。
透君が、私のこと、好きなわけない。恋愛感情のわけがない。
その気持ちは私の中に、強く、強く、根付いていた。
だから逃げた。
透君に口説かれるのが怖くて。そんな風にささやかれたら、好きでたまらない気持ちが疼いてしまう。好きな気持ちが後から後から溢れてしまう。これ以上好きにさせないで。好きで好きでたまらなくて、なのに受け入れてもらえなかったあの頃の気持ちが、怖いと疼く。
だから、必死で拒絶していたのに。
久しぶりに地元の友達と遊んだ帰り、透君から電話があった。
『駅まで迎えに行くよ』
「いいよ」
『ちょうど駅に行く用事があるんだ。それにまだ日が落ちるのも早いし、歩いて帰ってくるとか、心配になるだろ。……花、駅で待ってるから』
そう言われて断れなかったのは、駅から家まで三キロぐらいあるからだ。
ついでだし……。
私は自分にそう言い訳をする。
透君が私を口説いてくる。その事が嬉しくないわけじゃない。ずっと好きだった人だ。忘れたくても忘れられなかった人だ。でも、ふられ続けた……対象外にされた時間が長すぎて、こみ上げるのは不安ばかりだ。口説かれて嬉しくなる度に、他に真意があるんじゃないかという考えがよぎって、うれしさが疑念と取って代わる。
理性ではそんなわけないって思うのに、不安な気持ちが、ばかばかしいまでの妄想を、次から次へと思い浮かばせて、そのどれもが真実のように思えてくる。冷静であれば、どの想像もばかばかしいのに、でも、思いつくそのばかばかしい想像はなぜかひどくリアリティを持って私を不信感の海に沈めてしまう。
ため息交じりにとぼとぼと駅を出ると、ロータリーの端に見慣れた車を見つけた。
透君、もう来てたんだ。
到着して間もないのか、まだエンジンがかかっているその車に向かって足を速めた。
なのにその足がすぐさま止まる。助手席から誰か降りてきたのだ。それは私の知らないとてもきれいな大人の女性だった。
すぐに透君も降りてきて後ろから荷物を下ろして彼女に渡している。
なに、その人。
なんでそんなにこやかに隣にいるの? なんで助手席に乗せているの。
女性が、手を伸ばして透君の耳の後ろの髪をそっと撫でた。透君が照れたように笑って、女性も楽しそうに笑っている。
私のこと好きって言ったくせに、どうして。……どうして。
頭では分かっている。透君にだって付き合いはある。何より、私にはそんなことで責める権利なんてない。だって、付き合おうって言ってきてる透君を拒絶しているのは私自身だから。
拒絶しているくせに。私だけを見ていてほしい、なんてわがままは言えない。分かっているくせに、ほんとのほんとは、願っている。
だって、ほんとは嬉しかった。怖かったけど、でも透君が私を好きだって言って追いかけてくれて、嬉しかった。好きだと言われる度に怖くてたまらなくて、でも安心してた。どういう意味であれ、確かに私のことが好きなんだって。拒絶しても追いかけてくれることに安心していた。
でも、私は、こんなにも不安で。
その人と透君がどういう関係かなんて、きっとそんなことはどうでも良いことだ。誰であれ、その人が無関係の人でも、私は透君にお似合いの女の人が二人で話しているだけで不安になる。苦しくなる。私では彼に釣り合わないのだと辛くなる。
歩いて帰ろう。
透君の車に背を向ける。距離はある。駅に人は少ないが、それでもそれなりに人の行き交いはあって、女性の相手をしている透君が、私に気付く事はないないだろう。
こつこつと、ブーツのかかとの音が響く。
バカみたいに好き好きって言ってた頃が、ひどく遠い日々に思えた。思う気持ちは変わらないのに、以前みたいに単純に物事をとらえることが出来ない。
透君が好きって言ってくれてるんだから、嬉しい、私もずっと好きだったって応えれば良いだけに思えるのに。それが、ひどく難しい。
みっともなく取り乱して、責めてしまわないように。
帰り道を、コツン、コツンと音を立てながら歩いて行く。
あと、一週間もすれば春休みは終わって、私はアパートに戻らないといけない。
透君は、どこまで本気なんだろう。
今みたいな時間は長く続かない。後、たった一週間で終わる。
一週間という時間はとても短くて、とても長い。
透君の気持ちにも、私の想いにも、これから先どうしたいのかも、何もかもが先行きが見えなくて、惨めさや不安で塗りつぶされる。
足下ばかり見て私は歩く。薄汚れたアスファルトの色と、コツンコツンと音を立てるかかとの音だけが鮮明だ。
私を追い越した車の一台が、すぐ先で止まった。何気なく目をやって、思わず足が止まる。
透君の車だ。
「花、迎えに行くって言っただろ」
ほっとした様子の表情と、優しい声。置いていったのに、怒っている様子はない。
私はむっつりと黙って目をそらした。
「ほら、乗って」
無視して歩くか、それとも……。
考えて、結局透君の車に歩み寄る。さっき女性が助手席から降りてきたのを思い出して後ろに乗ろうとすると、「横に乗って」と、助手席のドアが開けられた。
「……ヤダ」
「やっぱり俺が送ってきた人、みてた?」
その声がとても穏やかで、しゃくに障る。透君を睨み付ければ、透君は嬉しそうに笑った。
「嫉妬してくれたのなら、脈ありだな」
「……っ」
言葉に詰まる私に、透君が再度助手席を勧めてきた。
「おばさんに言ったら喜びそうだな」
おばさん、という言葉をわざと強調したみたいな言い方だ、と思ったのは、私がそれに反応しすぎているせいだろうか。
「さっきのは母方の叔母だから。年が一回りしか離れてないから姉貴みたいな感じの人。滅多にこっちに来ることのない人だから、花はたぶんまともに会ったこともないんじゃないかな」
そう言って、透君は私をじっと見つめてくる。
もう一度「乗って」と促されて、結局私は助手席に乗り込んだ。
「嫉妬する花も可愛いな。そんなに俺を自惚れさせてどうするの?」
嬉しそうなその声は、何の疑問も挟まないくらい、私を好きだと伝えてくる。
嬉しくて、悔しくて、やっぱり嬉しくて、もやもやしていた気持ちは、簡単に透君を好きな気持ちで埋め尽くされる。
でも、好きだけじゃ、乗りこえられない何かが、確かにあった。