最初の面談
野球部やサッカー部の掛け声がこだまし、西陽が差し込み始めた教室で松野傑は担任の久保井と対峙していた。久保井は綺麗な弧を描くように曲がる口角が特徴的な中年で、学年主任を務めている。ポマードで毎朝髪の毛を練り固めているあたりは身嗜みに気を遣っているようにも見えるが、顔中に広がっている皮脂のケアには興味が無いらしい。これからの1年で何度も重ねることになる面談を考えるだけで松野の顔にも嫌な脂が浮かんでくるようだった。
「松野と一度じっくり話がしてみたかった。委員長としてクラスの取りまとめをしてくれるだけでなく、成績の面でもみんなを引っ張ってくれてることに日頃から感謝をしているよ。大学受験はその先の人生の方向付けをする重要な分岐点だから、じっくりと腰を据えて一緒に考えていこう」
クラスの委員長は久保井が指名する形で松野になった。取りまとめといってもやっているのは始業・終業時の号令くらいだ。
「よろしくお願いします。自分にとって悔いの残らない進路選択ができれば、と思います」
「おおいに結構な心掛けだ。早速だが、松野は1年生の頃から東京商業大を志望しているようだな。東京商業は確かに素晴らしい大学だと俺も思う。だが、何度も今まで言われてきているだろうが、君の成績は申し分なく東総大を目指すべき位置だろう。最初から偏差値で劣る大学を志願すると、これからの長い1年のモチベーションにも悪影響だし、もったいない。ここはとりあえずは東総大を書く気合が欲しいところだと俺は思うな」
「アドバイスありがとうございます。しかしながら、僕は志望大学を偏差値だけで決めてはいません。取り扱う学問が将来進みたい道として強く惹かれている商学、経済学であることや、出身OBの就職先が民間企業の経営層が多く、官より民を好む自分の嗜好にも合うこと、キャンパスが比較的地価の安い郊外にあり、貧しい家柄の僕でも暮らせていけそうなこと、そして授業料免除のシステムや学生寮が充実していることなどの要素を加味した上で東京商大を目指しているのです」
新3年生にしては小生意気に将来の進路を考えている様子に多少の戸惑いはあったものの、そんなことはおくびにも見せず、久保井は続けた。
「よく考えていると思うが、折角素晴らしいポテンシャルを持っているのに学びたい学問を絞りすぎやしないか。学部がせいぜい3つ4つの“カレッヂ”よりも文理さまざまな学問を総合的にカバーする“ユニバーシティ”の方が、その先どんな道を選ぶにも結局は潰しが効くというものだよ。それに君が気にしている学費の免除制度なら近々東総大にも導入されるという風に聞いているぞ。狭い視野にとらわれずに今一度考えてみなさい。だが考えがまとまるまではとりあえずは東総大と書いておこうよ」
「頼まれるようなことでは無いかと思いますが、現時点でそう書く方が先生にとって都合がいいならそうします。ただ、地歴科目の履修はどうなるのでしょうか。東総大に行くなら世界史・日本史・地理から二次試験で2科目、京総大ならセンターと二次の科目を分ける必要があり、それ以外ならセンターも二次も1科目ですよね。時間は限られています。商大を志願する身としては1科目に絞ってカリキュラムを組んでほしいところです」
「それも当面は2科目をおすすめするよ。なんせ、3年に進級したばかりの君たちは地歴の勉強を開始してからまだ半年ちょっとだ。科目への相性や適性が測れる段階では無い上、うちのカリキュラムでは、途中で辞めることはできても1科目に絞ると後から他に転じることができないんだ。しかもな、センター試験は使用するのが1科目の場合でも、受験自体は複数科目できるんだ。同じ地歴でも年にとって難易度にはムラがある。平均点が大きくずれれば得点補正が行われることもあるが、結構このムラはリスクなんだ。先輩方の例を見ても、2つ受けて損は無いんだよ」
中学校から高校レベルの内容に取り組んでいるらしい都会の「中高一貫校」と比べ、ただでさえ時間が無い中で、使う機会があるかもわからない地歴科目を全員まずは2科目履修しなければことに松野はかねてから否定的であった。今回の面談こそは方を付けようと思っていたものの、どうも久保井に翻弄されている。久保井は脂ぎった浅黒い顔面を近づけ、小声で更に続けた。
「こんな話をして申し訳ないんだが、委員長で成績も優秀な松野が始めから科目を絞っちゃうとみんな周りは不安になるんだよ。松野を以てしても2科目履修は難しいのか……って。クラスのためにも、委員長として頼む」
「クラスメイトに影響を与えるなどということは、考えたこともなかったです。納得はできませんが、わかりました。2科目履修も当面は維持することにします。」
結局、久保井の主張を通されるような形で松野の高校3年生最初の面談は終わった。
帰り道、大通りから一つ内側に入った路地でいつものように彼女と待ち合わせた。半年前に付き合い始めたこの女性と、彼女の自宅の高台に向かうバスの停留所まで一緒に歩いて帰るのが松野の受験生活のほぼ唯一の気分転換であった。
「なんかこう、俺の言ってることをはぐらかしてくるっていうか、とりあえず上を目指せって言うだけで、安っぽい体育会みたいなんだよな」
「その上を目指せ、ってのも、聞く人によっては大事な指針なんじゃないかな。あなたみたいに自分の進みたい道のイメージが沸いている人ばかりじゃないし」
クラスで人と話しているところはあまり見ないが、仲良くなった相手には自分の考えを堂々と伝えられるのが彼女の好きなところだった。
「それなら生徒に応じた指針ってやつを示してほしいと思うんだよね。判で押したようなやつじゃなくて。学校側のオーダーばかり通してきて、生徒の進路に真摯に向き合ってくれる感じがしないんだ。あんなのが学年主任で大丈夫なのかな」
「そうやってケンカ腰になるのがあなたのいけないところだと思う。去年の野山先生の時だって、大きな騒ぎにはならなかったけど、職員会議で諮られでもしたらどうするつもりだったの」
「あれは明らかに野山がおかしいだろう」
松野は考えたくもない昨年の夏の一悶着を思い出した。