表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第三話

 俺はまたその門を開ける。さしたる抵抗もせず開いた門をすり抜け、薄気味悪い前庭を越えて、たどり着く中庭。そこには、地上の月がいた。

 相変わらず美しい艶髪。深緑の瞳を不愉快そうに歪めるのが遠目からでも分かる。

「また来たんですか? あなた、暇なのかしら?」

「……来ちゃ悪いか?」

「えぇ、悪いです」

 日課のごとく、この屋敷に現れる俺に、綺羅はうんざりした様子で答える。言葉は冷たいけれど、けして追い出すことはしない綺羅は、この時間を散歩の時間にしているらしい。本人から無理やり聞きだしたのだから間違いはないはずだ。

 今日の散歩を終えて、さびれたベンチに座る綺羅の隣には、お散歩セットが置いてあった。大きなバスケット、小さな水筒、寒さ対策のブランケットにカーディガン。袴がお気に入りのはずの綺羅は、珍しく着物を着込んでいた。その傍には、どう見ても焼きたてのクッキーとしなびれていないサンドウィッチ。お茶会の準備は万端だった。

 それを見て、思わず頬が緩む。

「でも、俺が来るかもって思って用意してくれたんだ?」

「……自惚れるのも大概にしなさい。自分のために用意したに決まっているでしょう?」

 少なくともそれは、マグカップを俺に差し出しながら言う言葉じゃなかった。逸らした目が何よりもその思いを語ってくれていることに、賢い綺羅が気づかないはずはないのに。照れているのかと、少しだけ嬉しくなる。

「……あんたさ、素直じゃないよな」

 マグカップをもらって、同じくベンチに座る。この位置からは、秋の月がよく見えた。

「そんなことありませんよ。気のせいです」

 受け取ったマグカップには、淹れたてのしょうが紅茶。一口飲んでみると、辛いような甘いような味が広がる。どうやら蜂蜜入りのようだった。時間が経つにつれて、ポカポカと身体が芯から温まっていく。

 初めて飲んだとき、緑茶じゃないのかと聞いた俺に、綺羅は紅茶に比べて緑茶は身体を冷やすから、秋は良くないと教えてくれた。それはほんの十日前の出来事で、その時はまだ優しかった。扱いがぞんざいになったのは、ここ数日のことだった。

「この前は優しくしてくれたのに……」

「……あの時は特別です」

 コツと音を立てて、マグカップを置く。強い風を受けて、キンモクセイがざわざわと騒ぐ。ちらりと見た綺羅は、マグカップに視線を落とし、何かを考え込んでいた。

「どうして?」

「何だかあなたが泣きそうに見えたから」

 すっと、俺と視線を合わせた綺羅の方が泣きそうで、内心狼狽する。けれど、そう見えたのは一瞬で、すぐいつも通りの綺羅に戻る。淋しそうに瞳を震わせていたのは、見間違いだったのだろうか。

 さりげなさを装って身じろぎをする。拳一つ分、綺羅が近くなる。あと三十センチあれば触れることが出来た。

「今日も優しくしてくれないか?」

「……ねぇ。あなたは勘違いをしているようですけど、誰かが優しくしてくれるのは当たり前ではありませんよ?」

 近づこうとした俺を拒絶するかのように、綺羅はその瞳の鋭さを変える。それに触れるのをためらう。今接触したらきっと、これからずっと優しくしてもらえないに違いない。

 持ち上げた手が、重力に従ってだらりと垂れる。それを一瞥して、綺羅はまたマグカップに目を落とした。

「前は……泣きそうだったから、優しくしただけです」

「……だから、優しくしないって言うのか?」

「えぇ、そうですよ」

 今は泣きそうじゃないでしょうと言って、隣に置いたバスケットの中を探す。小さな水筒を取り出して、その中身をマグカップに注いだ。立ち込める湯気。しょうがのいい匂いとキンモクセイが混ざる。

 こちらに差し出された手にマグカップを渡す。その時、少しだけ手が触れる。ひんやりとした感触と共に離れていった手は、俺のマグカップに新しい紅茶を淹れた。戻されたマグカップには、綺羅の優しさがまんべんなく溶け込んでいて、ひどく複雑な気分だ。

「……やっぱりあんた、意地悪だよ」

「あら、そうですか? そう思うなら来なければ良いでしょう?」

 言葉はまた冷たい。けれど、口ではそう言っていても、綺羅はそこまで俺を嫌っていない。本気で来て欲しくないなら、俺はもうとっくに追い払われているはずだった。俺がそう思い込みたいだけなのかもしれない。

「ヤダよ。だって俺、あんたが好きだから」

「……優しくされたから好きになっただけでしょう?」

 前に向けていた視線を綺羅に移す。優しくされたから好きになったなんて、かなり心外だ。自然睨みつけるように、目が据わる。

「あなたは、あの時に優しくしてくれた女性なら、誰でもよかったのではないですか?」

「……」

「弱ってるときに、優しくされたから、好きな気分になっているだけですよ」

 睨みつける俺を平然と見つめ返して、綺羅は俺の気持ちを否定した。綺羅の言うとおりなら、俺は弱っているときに優しくされたら、誰でも好きになってしまうではないか。弱っていたのは事実だし、惚れっぽいのも否めないけれど、さすがにそこまでひどくない。

 大体、綺羅に俺の気持ちの何が分かるというのか。そんな頭ごなしに否定されるような安っぽい気持ちで『好き』と言ってるわけじゃないのに。

 第一、こんなに好きで好きで仕方なくなったのは綺羅が初めてだ。もしかしたら、これが初恋なのかもしれないと思うくらい。今までの恋が幼稚に見えるくらいに、綺羅に惚れているのだ。

 それなのに、綺羅はやっぱり否定して、俺を拒絶する。何か事情があるのかもしれないと頭の端に過ぎるが、それすらも無視できるほどに腹が立った。

「俺に好かれて迷惑か?」

「……えぇ、もう恋愛はこりごりです」

「それは……その指輪の痕と関係あるのか?」

 左手の薬指。うっすらと残った赤い痕は、どう考えても指輪の痕だった。しまったという顔をして、今さら隠しても遅い。マグカップを渡されたときに、この目でばっちりと見た。

「……何のことです?」

 とぼけるように、にこりと完璧な笑顔で綺羅は笑う。誤魔化そうとしている綺羅には申し訳ないが、俺は多分真実を知っている。言葉で追い詰めることがいいとは思わないけど、綺羅の口から本当のことが知りたかった。

「その痕、何年もしていたからなったんだろう?」

「……」

「もしかして、あんたが話した恋人って――」

「言うなっ!!!」

 つらつらと憶測を語ると、突然怒鳴られた。そのあまりの音量に持っていたカップを落としそうになる。けれどどうにか持ちこたえ、ちらりと綺羅を見た。口元に手を当て呆然とした綺羅は、自分が大声を上げたことが信じられないみたいだった。敬語が崩れた綺羅を初めて見た俺も、相当に驚いた。終始落ち着いた綺羅が怒鳴ることなんて、天と地がひっくり返るくらいにあり得ないと思っていたのに。

 冷静な綺羅を怒鳴らせるだけ、いま俺が指摘しようとした事実は、綺羅にとって心を占めているのだろう。不愉快だった。自分以外の誰かが綺羅の心に住みついているだなんて、考えただけでゾッとする。

 ふるふると頭を左右に振って、綺羅は面をあげた。その顔は平然としていて、怒りを露にしていたさっきとは違い、えらく静かだった。

「失礼しました」

「綺羅?」

「この事とあなたには、なんの関係もないでしょう」

 言う事はないとぴしりと言い放ち、綺羅はカップの紅茶を含んだ。そのとり付くしまもない様子にあっけに取られる。関係ないと言われてしまえば、確かにその通りで反論の余地もない。そして、その言葉は、俺にとってひどく都合が良かった。

「そうだな。関係ねーや」

「え?」

 綺羅が関係ないと言ったのだ。『俺と綺羅の関係』には、指輪の痕など何の障害にもならないと。少なくとも、俺はそういう意味でその言葉を取った。たとえ綺羅が追求されたくなくてそう言ったのだとしても、俺は俺の都合の良いように解釈してしまおう。そもそもこの恋は、俺が断然不利なのだから、それぐらい傲慢でもいいはずだった。

「あんたが既婚者だろうが、恋人がもう死んでいようが関係ない」

「……」

「だって、好きだからな。しょうがない」

 綺羅は俺を見る気がなくて、それでいて綺羅は未亡人で。どう考えても勝ち目のない恋だけど、それでも俺は綺羅が好きだ。たとえ見てくれなくても、この気持ちを知っていてくれるだけでもいい。叶えたいとは思わないから、せめて俺を拒絶しないでくれると嬉しい。もう何でもいいから傍にいたい。迷惑でも、うっとおしくても、それでも好きだった。

 苦笑しながらそう言った俺に、綺羅は呆れたように笑う。

「……あなた、物好きですね」

「よく言われる」

 ふぅーとため息をついて、綺羅はまた紅茶を飲んだ。その雰囲気は、さっきと違い、俺を否定していない。それに安心して、俺もカップに口をつけた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ