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旅立ちの日

 見慣れた通学路。ポプラ並木。

 春のそよ風が葉を揺らし、緑のさざ波が卒業生を追い越していく。

 下級生にボタンをねだられたり、カラオケに行こうなんて話したり、皆浮かれ気分だ。

 今日は色々あって疲れていた。早く帰ってゆっくり休もう。

「誰か! 助けて!」

 突然湧いた声に振り返ると、女生徒が黒いスーツの男たちに囲まれていた。

「一宮さん!」

 彼女の名前を呼ぶ。一宮さんは俺に気付くと、必死に助けを求めて叫ぶ。

「助けて須田くん!」

 俺は状況が理解出来ないまま走り出した。男たちが振り返り、懐から黒い塊を取り出した。

 拳銃……?

 そう思った瞬間、幾重にも重なる破裂音が響き、俺の体が突然踊り狂った。

 壊れたマリオネットのように四肢が跳ね、地面が迫る。

 赤い液体が広がる。冷え冷えとした五感に、血の流れる音だけが響き、やがて何も見えなくなった。


 気がつくと、俺は商店街に立っていた。

 通いなれた通学路。大森商店街。

 春のそよ風が、どこかで焼いている焼き鳥の匂いを運んでくる。

 家の近い同級生たちが、グループごとの塊を作って俺を追い越していく。

 すると、焼き鳥に混ざって、焦げた匂いが鼻をついた。

 誰かの悲鳴が上がる。

 呉服屋が、燃えている。家の後ろ半分を炎がごうごうと音を立てながらなめ回し、出入り口から黒い煙を吐き出す。

「健太! 健太!」

 呉服屋の女主人が周囲に押さえつけられながら息子の名前を呼んでいる。

「駄目だ奥さん! 今入ったら死ぬぞ!」

「健太がまだ中に! 誰か健太を!」

 俺は咄嗟に走り出していた。

 周りから制止の声が上がるが、構わず煙の中へ飛び込む。

 体を低くして、奥へと進む。どこかで子供の泣き声が聞こえる。

 見つけた階段を這いずる様に上るが、二階は隙間無く煙で充満していて何も見えない。

 呼吸をする度に、肺が空気を拒絶して大きく咳き込む。瞼が開かず、止め処なく涙が溢れる。

 声を頼りに進み、扉を見つける。

 遠ざかる意識の中で、俺はドアノブを捻って部屋に転がり込み、大きな爆発音を聞いた。


 限界まで絞った肺が際限なく空気を貪る。

 春のそよ風が運ぶ緑の匂いが、鼻腔を通り抜ける。


 見慣れた通学路。ポプラ並木。

 周りでは俺と同じ卒業生達が下級生にボタンをねだられたり、カラオケに行こうなんて話したり、皆浮かれ気分だ。

 俺と言えば。

 ……俺と言えば?

 荒れた呼吸を懸命に整えながら、俺は自問する。

 俺は、何だ? ここで何をしている? いや、しようとしている? 何かを、待っている?

 何故か体中から汗が吹き出る。激しい耳鳴りがして、思わずしゃがみ込む。


――力が欲しいか……


 また声が聞こえた。学校の渡り廊下で聞こえた声。

「誰だ……、あんた?」

 

――我は模倣……


 耳鳴りは苦痛となって俺の頭を締め上げる。

「なんだ!? 何を言っているんだ!」


――我は、模倣…… 我は模倣……


 突然。音が止んだ。

 耳鳴りも、頭の痛みも、何もかもが消え失せた。

 立ち上がり周囲を見ると、誰もが動きを止めていた。

 缶ジュースを飲もうとする者。引きちぎったボタンを掲げる者。楽しげに談笑する者。悪趣味な彫像展のように、誰もが制止していた。

 目の前にポプラの葉っぱが浮いている。

……違う、止まっているんだ。時間ごと。

 携帯電話の時計を見ようとポケットに手を入れると、紙の感触を見つけた。

 取り出すと、一宮さんからの手紙だった。

 開け方が分からず、所々破きながら広げる。

「うわぁ!」

 俺は悲鳴を上げて紙を投げ捨てた。

 白い紙片は真っ赤に塗られていた。絵の具ではでないような、血のように赤い色。

 足音が聞こえた。やたらと慌しく、こちらに近づいてくる。

 肉の彫像の間から、男子生徒が駆けてきた。胸にリボンがついていて、卒業生だと分かる。

 恐怖に歪む表情は、どこかで見た事があるものだった。どのクラスだろうか?

「須田!」

 男子生徒は俺の名前を呼んだ。その声も、どこかで聞いた事がある……。

 彼は俺の両肩を掴んだ。鬼気迫ると言った表情に、一歩下がってその手から離れた。

「俺だ! 浩二……、中村浩二だ!」

「なか……、むら」

 名前を反復しようとすると、ズキンを頭が痛んだ。

「そうだ! 俺だ! 思い出してくれ! お前だけは思い出してくれ!」

 脳を針で刺されるような激痛がして、俺は彼を振り払った。

 だが、思考は痛みの間隙を縫って、記憶の奥へ奥へと進んでいく。

「こう、じ……。コウジ……? 浩……」

「そう、浩二だよ! 中学校から一緒だったんだ! 忘れないでくれ!」

 記憶の海に、魚の鱗が反射するような煌きが生まれる。

 その一つ一つに、過去の光景が浮かんでいる。

 中学の教室。その帰り道。良く遊んだゲームセンター。親友の家。漫画やゲームが散らばる、あいつの部屋。

 ……そうだ。なんで忘れていたんだ!

「思い出した、浩二!」

 浩二の笑顔が弾けた。両目から滝のように涙が流れる。

「良かった……。お前だけは覚えているって……、それだけが頼りで……」

「どうして俺は……?」

 そう自問すると、浩二の顔に焦りが生まれた。

「い、今は説明している暇がないんだ! 一緒に逃げてくれ! お前と一緒なら俺は消えない!」

 意味不明な事を言いながら浩二が俺の袖を引っ張る。

「どこへ行くんだよ!?」

「分からねーよ! もう始まっている。とっくに世界は崩れ始めている!」

 浩二が叫んだ。

 途端に、ピシっと何かが割れる音がした。

 上を見ると、空にひびが入っていた。何もない筈の空間に亀裂が走り、一部が崩れ落ちた。

 歪に空いた穴には何もない。ただ真っ白な、白いと言うだけの空間が覗いている。

「遅かった!」

 浩二が悲鳴を上げる。

 ポプラの木から葉が落ちた。

 ひらひらと、ではない。どさっと、一気にすべての葉が落ちる。

「須田……。もう駄目だ。お前だけは逃げろ。お前なら大丈夫な筈だ」

 真剣な表情で言う浩二に、俺は怒りが沸いた。

「てか、なんなんだよ? 何がどうなっているのか教えてくれよ!」

「時間がねぇんだよ! 早く行け! 走れ!」

 あまりにも真に迫る表情で言い返され、俺は不承不承振り返った。

 そこには、もはや何もなかった。

 門も、壁も、校舎もない。ただ白いと言うだけの空間。

 もう一度振り返ると、浩二の隣に男が立っていた。

 黒いTシャツにジーパンというラフな格好で、浩二の頭を掴んでいる。

「あああ……、見つかった……」

 浩二はされるがまま棒立ちし、嗚咽交じりに言った。

「僕から逃げられる筈ないだろう? 手間をかけさせるな」

 男は落ち着いた様子で、口端に笑みを浮かべて囁いた。

「須田、逃げろ。この世界が消える……。何もかも、消えてしまう」

「黙れ。余計な事を喋るな」

 もう限界だった。何もかもが俺を置き去りにして進行していく。

「訳分かんねーよ! なんでも良いから教えてくれよ!」

「須田……、聞け……」

 浩二を見た。足が消えている。膝から下が砂時計のように崩れ落ちていく。

 足から腰へ。腰から胴体へ。

「この世界は……」

 首だけになった浩二は、

「本だ……」

 それだけを言うと、完全に消滅した。

 何もない空間を掴む男の手だけが残されている。

「お前、浩二に何したんだ」

「消した。存在ごとね」

 現実感のない答えだったが、俺はどこか頭の奥で納得していた。

 酷く悲しい思いに締め付けられる胸が、あっという間に何も感じなくなっていくからだ。

 まるで、浩二の存在が僕から居なくなるように。

 気が付くと、周囲には何もなくなっていた。

 並木道だけが、空間に浮かび、俺たちはそこに立っている。

 男が近づいてくる。逃げたくても、どこにも逃げる場所はなく、あっさりと頭を掴まれる。

「さて、やり直そうか?」

 そう言うと、俺の体に電流が流れた。いや、電気ではない、もっと、強力な。

 否定。存在を認めない。消去。

 痛みはなく、ひたすら哀切に体が引き裂かれていく。

 五感が薄れるのを感じる。

 明度を下げる視界の中で、男の顔が微かに歪んだ。

「駄目か」

 男が手を離し、俺は地面に倒れた。

「余計なイメージが入りすぎた。もうお前は使えない」

 再度頭を掴もうとした手を、振り払う。男が意外そうに目を開き、苛立たしげに眉間にしわを寄せた。

「やめろ。余計な事をするな。勝手に動くんじゃない」

「違う。勝手に動いているんじゃない。お前が動かしているんだ。そうだろ?」

 立ち上がりながら、俺はなんとなく理解し始めていた。

 この世界。この男。そして、俺自身。

「うるさい! お前たちは僕の思う通りにしていればいいんだ!」

「ならやってみろよ! 思い通りにしてみろ!」

 男は血の気が失せたように顔を蒼白にし、次は怒りに赤く頬を染めた。

「消してやる! 削除だ!」

 俺に掴みかかろうとした男の手を、誰かが掴む。

 それは、俺の幼馴染だった少女。栗色の髪をお下げにした、ちょっと舌足らずだったかつての想い人。

「お前は……、なんで居る……?」

 男が呆然と彼女を見つめた。その肩をまた誰かが掴む。俺とライバル関係だったサッカー部の主将。

「嘘だ……。消えた筈だ! お前たちは消えたんだ!」

 喚く男の腕を、脚を、複数の手が掴む。

 黒い服のエージェント。リーゼント頭の不良。弁髪の格闘家。やたら胸の大きな保険医。そして、太った教頭。

「お前か! お前が呼んでいるのか!」

 男が俺に憎悪の瞳を向ける。

「違うって言っているだろ……」

 俺はもうすべてを理解した。その上で、はっきりと言ってやる。

「お前が覚えているんだ。三流作家!」

「やめろぉぉぉおおおお!」

 男が絶叫した。頭を掻き毟り、その度に周囲を囲む人間が消えていく。

「どいつもこいつも自分勝手な事ばかり! だから話が進まない! 書いても書いても書いても書いても駄作ばかり! 誰かの模倣ばかり! 全部お前たちのせいだ!」

 哀れな作者は喚くだけ喚くと、肩で呼吸した後、途端に静かな声で言った。

「5ユニーク、5PV。これが分かるか?」

 分からない。俺は素直に頭を横に振った。

「5人が来て、1話だけを見たって事だよ。みんなそれだけで帰るんだ」

 男の声が震えている。

「真っ白な空間を文字で埋める事の大変さがどんな物か知っているか……? 書けなくて、苦しんで、それでも書けなくて、ようやく生まれた世界は、誰の目にも届かない……」

 顔を抑える両手の隙間から悲しみが零れ、地面を、点々と濡らしていく。

「だから消すんだ。こんな世界に意味はない。すべて消すんだ」

「無理だよ」俺は言った。「そんな事出来やしない。だから苦しんでいる」

 男が両手を下げた。迷い子のような空ろな瞳を向けて来る。

「俺を消すって事は、お前自身が消えるって事だ。俺は、僕なんだから」

 そう言うと、男は頷いた。泣き濡れながら、一歩近づく。

「そうだ。それでも消す。一緒に」

 俺は、僕を理解した。

 そこまで苦しんでいたのか。そんなにも寂しかったのか。

 雑踏の中の一人ぼっち。俺は、酷くやつれた僕の頬に手を当てた。その上に、僕の手が重なる。

「解ったよ。消える時は一緒だもんな」

 俺が笑うと、僕が微笑む。

 消えていく。何もかもが、失われていく。

 情景も、姿も、心も、風にさらわれる砂のように。

 やがて、何も


 最初に生まれたのは音だった。

 カチリ。

 そう響いた瞬間、俺と僕はそこに立っていた。

 そこ。そう思う間もなく、踏み固められた地面が伸びていき、ポプラの木が、学校が、空が、雲が、人間が生まれた。

 カチリ。

 最後は風だった。

 春のそよ風が葉を揺らし、緑のさざ波が俺と僕を追い越していく。

 下級生にボタンをねだられたり、カラオケに行こうなんて話したり、皆浮かれ気分だ。

 俺と僕はと言うと、愕然としたまま世界を眺めている。

「読者……?」

 僕が始めて覚えた単語のように呟いた。

「読んでいるのか? 僕の話を……?」

 俺は頷いた。作者以外に世界を作れるのは、彼らしか居ないからだ。

 僕の隣に女性が立っている。

 ぼさぼさの髪に、分厚いメガネ。短パンとタンクトップ姿の彼女は、周囲をキョロキョロと眺めた。

「あら? ここで終わり?」

 僕はまだショックから立ち直って居ない様子で、何度か口をパクパクとさせた後、呻くように言った。

「まだ……、書いていないんだ」

 その声が聞こえているのかいないのか、彼女はしばらく空を眺めて、僕に言った。

「文章はまぁ、及第点ね。ちょっと情景描写が足りないけど。ストーリーはまだ何も起きてない訳だし、これからに期待かな? ただ……」

 彼女は俺に視線を移して、腕を組みながら顎に手を添える。

「主人公はもうちょっと特徴欲しいわねー。いくら一人称のストーリーテラーでも、全くの無個性はよくないわよ」

 一人で喋ってはうんうんと頷いて、くるりと踵を返す。

「お気に入りにしとくから、続き頑張ってねー」

 呑気にそういうと、彼女は一歩を踏み出し、世界から出て行った。

 俺と僕は立ちすくみ、雲と卒業生の群れが流れていく。

「……どうする?」

 俺が尋ねると、僕は盛大なため息を吐いた。

 だるそうに頭を振り、肩をすくめる。

「……書きゃいいんだろ」

 俺は笑った。僕が忌々しげに言った。

「笑っていろ。とんでもない目に合わせてやるからな」

「構わないさ。気に入らなければ、俺が変えてやる」

 僕は苦笑して、俺に背を向ける。

「なぁ……」

 僕が言う。

「僕は何で書くのかな?」

 俺は答えた。

「一つじゃ足りないからだよ」

 僕が肩をすくめて一歩を踏み出し、世界から姿を消した。

 そう。

 今日もまたどこかで世界が生まれる。

 果てしない宇宙の海で、君が想像の帆を広げた時。

 僕らは動き出す。


「おい、須田。何ぼーっとしてんだよ?」

 声に振り向くと、隣に浩二が立っていた。

「卒業したからってぼんやりしてちゃ駄目だろ。これからが大変なんだから」

 同じ大学に進学する浩二は心配そうに俺を見つめる。

「お前は成績良かったからな。いつも一緒に遊んでいて、なんでこう差があるかね?」

 俺がそう言うと、浩二は鼻を鳴らした。

「そもそも頭の出来が違うの。俺って1を聞いて10知るタイプだから」

 嘘付け。いつも美人のお姉さんに教えて貰っている癖に。

「あれ? なんか落ちてるぞ」

 浩二が地面から何かを拾い上げた。

「これ、お前の?」

 差し出された紙を受け取ると、11桁の番号と名前が書かれている。

「げっ!? 一宮さん!? マジ!? ラブレもがっ」

 驚愕する浩二の口を慌てて塞ぐ。周囲の視線を思いっきり集めてしまったが、皆それぞれ忙しいようで、すぐに興味を無くしてくれた。

「大きい声で言うな。一宮さんに迷惑だろ」

「うわ、マジだこいつ。とうとうやりやがった。信じらんねぇ。うっわ、信じらんねぇ」

 うるさい浩二を無視して進もうとすると、いきなり突風が吹いた。

 女生徒のスカートが巻き上がり、そちらに意識が向いてしまった為に、手から紙片が離れた。

「紙が!」

 そう叫ぶと、紙片はひらひらと舞い、どこからか現れたトラックの荷台に乗って去って言った。

「追いかけよう! 丁度バイクが置いてある!」

 浩二が傍に止めてあったバイクに跨る。

 え、ちょっと。

「早く!」

 急かされ、仕方なく後部座席に腰を下ろす。

 グングンと加速していくバイクから空に向かって俺は呟いた。

「このやろう」


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