第6章 光り輝いた時代
21歳から遊び人となったため、たいした稼ぎもないくせに遊びまわった。
今思えば何をやっていたんだろうと思うが、当時はこれが僕の青春だった。
仲間と遊び、時に悪さをする。
この頃の僕には楽しい日々だった。
だが22歳の時、激痛のため入院し、検査の結果が良くないため、2度目の手術を決意した。
だが、緊急じゃないため、順番を待つ間、内科で入院した。
この時、最初で最後となったが、祖父と同じ部屋で入院となった(祖父は翌年の元旦に空に羽ばたいた)
僕は患者でもあり、祖父の付き添いでもあったのだが、暇があれば僕は、喫煙所に行って他の患者とお話をしていた。
僕は、もう少し祖父の相手をしてあげればよかったと、祖父が亡くなってから気づいた。
そして、僕の手術日がやってきた。
僕は、前にふられたお気に入りの看護師さんに「次の日にここまで(外科は6階で内科は12階)歩いてくる」と約束した。
最初と同じで、痛み止めは効かなかったが、僕は気合を入れて、看護師さんのとこまで歩いていった。
2回目は気合がかなり入っていた。
三日後には見舞いに来た友人を下まで送り、そのついでにタバコを吸ったが、さすがに調子が悪いためまずかった。
しかも病室に戻ると、付き添いの母親にタバコを吸ったのがばれ、母はそのまま帰宅してしまった。
僕は電話で謝り、二日目くらい経った頃、母は来てくれた。
僕は嬉しかった。
退院すると忘れてしまうが、入院中は家族にすごく感謝していた。
たとえ離婚していても、僕のことを思ってくれる。
だが、退院すると馬鹿なことをし、親に迷惑をかけていた。
約半年の入院生活、もちろん新たな仲間もできたが、失った友もいた。
僕はこの頃から、空に羽ばたいた人たちのために祈りという曲を作った。
詞は何度か書いたが、詞と曲の両方書いたのはこの曲が初めてだ。
だが、今でも納得いく曲にはならない未完成の曲である。
もしかしたら永遠に完成しないのかも……
2度目の手術から1年後……
また、同じところが再発し、一部の腸が狭窄していた。
僕は痛みと恐怖を忘れるために、遊びまわった。
だが、周りのヤンチャ仲間たちが、悪い事をし、逮捕されて、考えが少し変わった。
今まで入退院を繰り返し、アルバイトを転々としてきたが、あるリサイクルショップ(僕は以前にもリサイクルショップでのバイト経験がある)にバイトとして入社してから、生き方を変えようと思った。
そのためにクローン病の病気の会で、役員のボランティアをやることにした。
さらにこの頃は、ほとんど空手の稽古をしていないが、館長が運転代行をやり始めたため、僕や他の兄弟弟子たちは、館長の仕事の手伝いをした。
また当時、同じクローン病同士でバンドも組んでいた。
今のところこの頃が、一番忙しく、一番輝いていたのかもしれない。
ある日、病気の会の会議で、「若い患者さんが来ない」「ご両親だけみえて、本人は来てくれない」など、「どうしたら若い患者にも興味を持ってもらえるのか」と話し合いをしていた。
確かに勉強ばかりじゃ、1度来たらもう来たくないだろう。
そんな時、当時の会長が、「生時くん、余興でライブをやってみたら」と言われた。
この会長(もちろんクローン病患者)とはすごく仲がよく、遊びにもよく行ったほどの仲だ。
僕は断る気はなかった。
病院の中とはいえ、ライブデビュー出来るのが嬉しかった。
僕にはこの時目標があった。
クローン病の患者の間では有名な、クローン病バンドが北海道で活動していたので、僕は彼らを超えるクローン病バンドを作ろうと考えていたのだ。
だが、喜んでいたのは僕だけで、他のメンバーは「自信がない」「忙しい」という返事しか返ってこなかった。
でもすでに引き受けてしまったため、僕は修羅生死と云う名で、ソロライブを行う事にした。
ソロライブをやることが決まり、僕はこの間に、失った友のために作った曲、「祈り」のCD-Rを作った。
レコーディングとアレンジだけは、その時のギターの人に頼んだ。
僕が加入前、他のメンバーが自主制作CD-Rを作成し、別の病気の会の役員の結婚祝い配布したらしい。
今度は僕が一人でやろうと思ったのだ。
僕は以前、「祈り」のデモテープをバイト先で音楽をやっている先輩たちに聴いてもらい、アドバイスをもらって、自分なりにアレンジしたが、でも、納得がいかなかった。
そのためにギターの人にアレンジしてもらったのだが、僕のイメージとはかなり違う曲になっていた。
だが、時間がないため、仕方なく、このメロディーで歌う事にした。
だが、友人や知人達から「生時らしくないな~」「スペインの民謡みたい」などと言ってくれた。
このようなコメントをくれるということは、1度でも聞いたことがあるというのが分かる。
そして病気の会の日が来た。
僕はプログラムを作っている人に、「名前は修羅生死でお願いします」と頼んだ。
この時は気づかなかったし、回りも何も言わなかったが、病院では死という言葉はタブーである。
だが、常識のない僕はその時は分からなかった。
「祈り」のCD-Rも配布、販売した時も、修羅生死と云う名前でした。
僕は病院にいく前に、メイクをして病院に行った。
そしてソロライブを30分くらいやらせていただいた(即興だった事もあり、かなりミスをしてしまったが)
しばらくして僕はその時のバンドを脱退し、新たなメンバーを探した。
だが、僕の光り輝いた時代もすぐに終わる。
狭窄がひどくなり、僕は3回目の手術も近いと思えた。
そしてこんな状況では格闘技をやり続けるのは無理だ。
僕は引退前に、弟がどれだけ強くなったか知りたくて、家でルール無しの喧嘩試合を行った。
結局僕は彼に負けた。
また十代のとき兄貴と喧嘩や組み手をしても、一度も勝てなかったため(兄は関節技がうまい)僕が三兄弟で一番弱いと決定した。
試合のあと、当然体調が悪くなった。
激痛と嘔吐、さすがに救急車を呼ぼうと思ったが、何とかその日に回復した(この年にはじめて救急車に乗り、そして何度乗ったか忘れるくらい乗った)
結局、何度も自宅と病院を通い、3回目の手術をすることにした。
退院後、僕はまた遊び人に戻り、修羅生死と云う名がふさわしい人間となっていった。