第5章 最強の武道家を目指して
退院後、弟が習っていた空手道場に入門し、最強の武道家なろうと思った。
もう入院はイヤだから、食事は栄養剤を中心に生活をした。
だが、それでも入退院を繰り返してしまう……
退院してから1年後、僕は当時プラスチック工場でアルバイトをしていたのだが、仕事中、血便が出たため入院となった。
検査の結果、切ってつないだところが、また狭窄していた。
この時は1ヶ月くらいの入院だったが、その間にまた仲間が出来た。
でも僕が退院してから、患者仲間(僕と同じ年の患者さん)のご両親から電話で、彼が空に羽ばたいた事を知らされ、僕はお通夜に参列した。
僕と同じ年だから、19歳という若さで天に羽ばたいてしまったのだ。
その後も入院中に仲良くなったのに、失ってしまった友たち……
後に僕は「祈り」いう曲を作った。「生きたくても生きられない」ということを伝えたかったからだ。
学生時代、バンドを組んでいなかったが、空手に入門してから、師匠である館長が音楽をやっていた人なので、他の兄弟弟子が教えてもらっていて、「バンドを組め」といわれ、何故か僕がヴォーカルになった(だが、ギターは空手の者ではなく、ドラムをやっていた兄弟弟子の友人であったため、練習に来なくなり、ギターも僕がやることになった)
最初に練習したのが、館長の作った曲と、名作映画「スタンド・バイ・ミー」の主題歌を練習していたが、歌いながら弾く事が出来ないため、ベンチャーズの「パイプライン」を練習する事になった。
ベンチャーズは父親が好きだったため、僕自身も小さい時から聞いていたし、15歳の時に、父と一緒にライブも見に行ったこともあり、馴染みやすかった。
でも結局、それぞれ仕事や学校、そして空手があるため、解散となった(でもしばらくして、師範の結婚のお祝いという事で、忘年会の時に、ビーズのオーガールをやろうと練習していましたが、僕は体調が悪くなり、ベースの人が変わりに歌ったらしい)
二十歳の時、僕は3回目の入院をした。
血便が止まらなかったため、緊急入院したのだ。
半年くらい入院し、その間に、バルーン拡張で細いところを太くしようとしましたが、2回目の時に大出血をしたため、結局細いまま退院となった。
当然お腹は痛い。
僕は空手を辞めようか迷っていた。
でも館長自身は僕を辞めさせたくないため、「師範や指導員の下で少年の部の指導をしろ」と言われた。
少年の部の指導といっても僕はまだ修行中の身であるため、なかなかうまく指導出来ない。
だが道場では、型の練習以外、組み手や筋肉トレーニング、サンドバックの練習などは禁止された(しょうがないので、弟が暇な時に相手をしてもらっていた)
でもお腹は相変わらず痛い。
僕はそんな痛みや不安を忘れるため、21歳の時から遊び人となるのであった。