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九重  作者: 井出 鞠
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立つ鳥

木張りの廊下がみしみしと軋む音が聞こえる。足音は、露子の部屋の前で止まったと思うと、襖が勢いよく開け放たれた。



「姉ちゃん!」



飛び込んできたのは、弟の颯士だった。



武官を目指している颯士は、がっしりとした体つきをしていて、身長も姉より頭一つ分高い。



戸棚の整理をしていた手を止めた露子は、来年で二十を迎えるというのに落ち着きのない弟をげんなりした顔で見上げた。



「家の中を走らないでちょうだい。全くいつも同じことを言わせないでよ。うちはあちこち傷んでいるんだから、図体の大きなあんたが走り回ったら、ひとたまりもないわ。それから、姉ちゃんではなく、姉上と呼びなさい。」



しかし、颯士の方は、姉のお小言になど耳を貸す気はないらしく、露子が話し終わらない内に口を開いた。



「姉ちゃん、結婚するって正気かよ。」



「それを言うなら、「本当か」でしょう。」



露子は、咳払いをすると訂正した。



颯士は、どっちだって同じさと呟きながら、姉の前にどっかりと腰を下ろした。



「それより、結婚は?」



「まだ、婚約だけよ。相手は波州の方だから、簡単には会えないし、相性が合わなかった時のことも考えて、いきなり結婚ではなく、花嫁修業のために波州へ行くことになったのよ。何、その顔は。三十路前といえども、結婚を諦めたなんて言ってないでしょう。」



「言葉にはしないけど、諦めてると思ってた。」



露子は、悪びれなく言った颯士の頭を思いっきり叩いた。颯士は痛えと呻いた。



ふんと鼻を鳴らした露子は、戸棚の整理を再開した。



花嫁修業となれば、半年は家に帰ることすらできないだろう。



露子は、立つ鳥は後を濁すべきではないと考えていた。



颯士は、てきぱきと動く姉の姿を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。



「波州なんて遠い所に行くなよ。」



「まあ、ひどい。それが行き遅れの姉に言う台詞かしら。」



露子は、軽い口調でたしなめたが、振り向くことは出来なかった。



「姉ちゃんがいなくなったら、父上が悲しむよ。俺だって淋しい。」



露子は、手を止めて、下を向いた。



しかし、それも一瞬のことだった。



振り向くと、背筋を正し、弟を真っ直ぐ見据えた。



「甘えたことを言ってはいけないわ。あなただって、来年は二十になるでしょう。そうしたら、お嫁をもらって、奥方と子供達を守るのよ。父上とこの家もあなたが守らなければならないのよ。それができるのは、私ではなくて、あなたよ。そのことをしかと胸に刻んでおきなさい。」



颯士は、しばらく黙っていたが、やがて観念したように頭を掻いた。



「姉ちゃんには敵わないな。」



露子は、残念そうにぼやく颯士に笑いかけた。



「でも、嬉しかったわ。行かないでくれと言ってくれる家族がいるって、幸せなことね。」



「本当のことだもの。姉ちゃんがいなくなったら、父上と俺だけになってしまうんだから。」



「まだ、分からないわよ。すぐに結婚するんじゃないもの。」



なんだか、自分自身に言い聞かせるために言っているような気がした。






高江家から縁談を承諾するという正式な返事を受けた露子は、宮中学問所を訪れた。


二十から学問所で子供達に読み書きそろばんを教えていた露子だったが、波州に行くとなれば、教師の職を辞さなければならない。



婚約の報告を聞いた学問所学長、武藤栄次郎は、喜び半分淋しさ半分といった反応だった。



「とうとうお嫁に行くのじゃな。喜ばしいことだが、お前さんのように優秀な教師を失うのは惜しいのう。」



幼い時分から世話になっている恩師の思いやりの込められた言葉にいたく感動した露子は、頭を深々と下げた。



「先生には長いことお世話になってしましたのに急なご報告になってしまい申し訳ありません。 」



「よいよい。ほれ、婚約したての娘がそのような顔をしてはいかんよ。」



栄次郎は、優しい声を掛けながら、露子の顔を上げさせた。



「幸せになりなされ。」



栄次郎の口元は、真っ白なひげに覆われていたが、笑っているは目を見れば分かった。



温かい感情で胸がいっぱいになった露子が、何も言えず、栄次郎を見つめていると、部屋の扉を叩く音がした。



「師匠、入ってよろしいでしょうか。」



声だけで扉の向こうにいる人物が誰なのか分かった露子は、なんだか感動の気持ちが吹き飛んでしまった。



栄次郎は、仏頂面になった露子を愉快そうに見ると、入ってよいぞと扉に声を掛けた。



部屋に入ってきた背の高い青年は、先客を見留めると、露子と同様面白くなさそうな顔をしたが、一応礼儀上、慇懃な態度で会釈をした。



露子も腰をかがめて、軽くお辞儀をした後、ちらりと青年を見上げた。



秋津文義は、高い襟のついた上着を喉元まできちんと留めて着ていた。



癖のない髪は武官のように短く切られ、王宮の娘達に騒がれる端正な顔は、眼鏡に隠れていたが、久しぶりに会った幼馴染は、相変わらず見栄えがする青年だった。



「師匠、いいかげん古いだるまを買い換えたらいかがですか。顔に皺なんかできた日には、見苦しいばかりですよ。」



栄次郎の前までやってきた文義は、眼鏡越しに冷笑を浮かべた。



「わしは、このだるまに愛着があるんじゃよ。むくれた顔など、ほれ、めんこいじゃろう。」



そう言いながら栄次郎は、憮然としている露子を見た。



だるまというのは、露子の幼い時のあだ名である。



太っていて、よく転ぶ露子を文義がからかって、だるまと呼び始めた。



露子は、そのあだ名が大嫌いであった。



「私は、だるまじゃありません。もう、昔みたいに太っていないんですから。」



栄次郎は、ふむと相槌をうちながら、少し淋しそうな顔をした。



「もう、わしのだるまではなくなるんじゃ。お嫁に行って、旦那のだるまになるんじゃろう。」



文義は、栄次郎の言葉に驚いて、露子を振り返った。



「嫁? 」



「そうよ。私、婚約したの。」



露子は、つんと顔をそらすと、すまして答えた



「お前、熱でもあるのか。 」



「おあいにく様。見ての通り、ぴんぴんしていますよ。」



背の高い二人は、小柄な栄次郎を間に挟んで睨み合った後、ふんと顔をそむけた。



「売れ残り女と結婚したいだんて、どうせ、とんだ醜男に決まってる。」



「宮殿の百合の花と謳われる松子様の遠縁の方なのだから、見目麗しいはずだわ。」



口ではそう言いながらも、相手の容姿に関しては露子も自信がなかった。



松子は、不細工な自分をかわいがってくれるくらいなのだから、あまり容姿に頓着はしないのだろう。



松子がかわいがっているからといって、美男子だとは断定できない。



露子としては、贅沢はいわないから、身長だけは自分よりも高いといいのだがと思っていた。



悔しいことに秋津文義は露子よりも背が高かったが、たとえ国中の男が露子よりも背が低くても、文義とだけは結婚したくなかった。



「花嫁修業をしている間に愛想尽かされるのが、関の山だな。」



文義が過去の一件を思い出させる言葉を事もなげに言ったので、露子の顔にさっと赤味が差した。



「吉人殿は、あなたみたいな無責任な方ではありませんから。」



怒りで頬を真っ赤に染めた露子は、栄次郎に頭を下げると、踵を返して部屋を出ていった。



露子がいなくなると、栄次郎は、呆れたように文義を見た。



「馬鹿じゃ馬鹿じゃと思っていたが、お前さんほどの大馬鹿はそういないな。いっそ、哀れな奴じゃ。」



文義は、恩師から叱責を聞いてもの口元に微かな笑みを浮かべているだけだった。



「俺はちっとも哀れではありませんよ。再来年は、二八です。そしたら、試験を合格すれば、一等書記官です。秋津の名などなくとも、俺はどこまでも上ることができる。」



栄次郎は、ふんと鼻を鳴らした。



「呆れた奴だ。慢れる者は久しからずという言葉をしらんのか。」



「知ってますよ。ただ、俺には必要ない言葉です。落ちたら、はい上がればいい。それだけ覚えておけば、何だって出来るんです。」



文義は、ゆったりとした口調で答えた。



「かわいくない奴じゃ。よいよい。爺は口を挟むまい。ただ一つ忠告しておこう。人間、最後の瞬間はひとりだが、それまでの長い時間は他人と共に生きていくのじゃ。わしは、最近気付いたが、まだ手遅れだと思っておらぬ。お前も眼鏡の曇ったレンズを拭いてみるといい。それでも、何も変わらなければ、それまでだがな。」



心配していただかなくともと、文義は言った。



「俺の眼鏡は、いつも透明ですよ。布津州の人口統計は、ここに置いときます。授業で使い終わったら、ちゃんと返してくださいよ。」



文義が一礼を立ち去ると、栄次郎はため息をついた。



「落ちたら、はい上がればいいか。転んでも起き上がるだるまと似ていると思うのじゃが。」



老人の言葉は、誰が聞かれるわけもなく、静かに消えていった。

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