縁談
涼しげな風がそよそよと吹く秋の夕暮れだった。
王宮の一室で初老の女が、物書きをしていた。
白銀の髪を首の後ろですっきりとまとめ、翡翠色のドレスに黒いビロードの肩かけを掛けていた女に前皇帝から寵愛を受けていた時の華やかさはないが、年を経たことで上品な美貌を得ていた。
女の名前は、宝生松子。
宝明国の代三十四代皇太后である。
松子の夫であった前皇帝は、既にこの世にはおらず、聡明な女は、自分の人生も黄昏時に差し掛かっていることに気がついていたが、それに抗うつもりはなかった。
また、一つ気掛かりなことがあるとすれば、彼女自身のことではなかった。
筆を止めた女は、ふと、部屋の隅に控えていた女官に視線を向けた。
銀の留め金がついた藍色の女官服を着て、黒髪を頭上で地味な灰色のリボンで結んだ女官の名前は、佐方露子といった。
器量よしではない。
大柄な露子は、色白の丸顔で、目と鼻と口は標準よりずっと小さい顔立ちは、どちらかといえば不細工な方かもしれない。
しかし、松子は、亡き友人の面影を残すこの娘が好きだった。
露子の母親である静子は、以前松子に仕えていた女官であり、信頼できる友人でもあった。
年若い友が十歳の娘を残してこの世を去った後、女官見習いとして露子を宮殿に呼んだのは、他でもない松子だった。
行儀作法を教え込むかたわら、松子は、主従関係が許す限り、露子を可愛がった。
視線に気がついた露子が気遣わしげにこちらを向いたので、松子は、疲れたのでお茶にしましょうと言った。
露子が立てた抹茶は、黒味を帯びた濃緑色をしていた。最近、透き通った黄緑色の茶が流行っているが、松子はすっきりとした緑茶も嫌いではなかったが、昔ながらの抹茶が好きだった。
茶を口に含むと、まろやかな苦味とほんのりとした甘味が口に広がった。
松子は、満足げな微笑を浮かべると、かねてから気掛かりだった事柄について話してみる気になった。
実際、松子は、遠まわしな言い方を好まない女だったので、はっきりと聞いた。
「あなたは、今いくつだったかしら。」
突然、年齢を聞かれた露子は、いささか戸惑った。
露子は、自分の年の話などしたくなかったが、敬愛する主から聞かれれば答えないわけにいかず、渋々答えた。
「先月で二十七になりました。」
松子は、表情こそ変えなかったが、わずかに眉を動かした。
二十を過ぎていることは知っていたが、三十路間近とは。
しかし、松子は、気を取り直したように問いかけてきた。
「良い縁談の話はあるのかしら?」
「良いも悪いも。二十過ぎてからは、縁談のお話一つありません。年を食っている上に不細工な大女を嫁に貰いたいと思う殿方など都中探したって見つからないこと、松子様だってご存知のくせに。」
露子が少し拗ねたように答えたので、松子は、ほほほと高笑いを上げた。
そして、皺だらけの痩せこけた手を娘のふっくらした手に重ねると、あやすように言った。
「お前の選り好みが激しいからではありませんか。文句ばっかり言ってる間に年を食ってしまったことを他人のせいにしてはいけません。良い縁談もあったと思いましたけれどねえ。そういえば、あれはどうなったのかしら。ほら、秋津の次男・・・」
露子の太くて短い眉が、急に吊りあがった。
むっつりと黙ってしまった露子を前に松子の好奇心は募るばかりである。
意地を張る露子をなんとかなだめすかして、やっと口を割らせることに成功した。
「秋津殿は、一度は縁談を承知なさいました。ところが、私が偶然見た陳述書の中に不可解な点を見つけたので指摘したら、激怒した上、婚約解消だと言い出しました。秋津家は、大貴族ですから声を大にして言えませんけど、あまりに横暴だと思いませんか。」
事の次第を知った松子は、なんとか笑いをかみ殺していたが、我慢できなくなって、とうとう吹き出してしまった。
「そりゃ、あなたがいけませんよ。殿方の強い自尊心を守ってあげるのが、女の役目でしょう。」
露子は、納得いかないという表情を作った。
「お言葉ですが、間違いに気づかず、帝の御前で恥を掻くことになったら、その方が困るのではないでしょうか。」
「まるで殿方の意見を聞いているようですね。でも、いいでしょう。やはり、露子が適任ようですね。」
「適任って、一体、何のお話です?」
不思議そうに尋ねる露子に松子はにっこり笑いかけた。
「露子は、もう恥じらうばかりの若い娘ではありませんから、はっきりと申します。露子、お嫁に行きなさい。」
一瞬きょとんとした顔になった露子は、ぷっと吹き出した。
「松子様ったら、御冗談が過ぎます。」
「いいえ、冗談ではありませんよ。」
静かな口調で露子の言葉を否定した松子は、まあお聞きなさいと続けた。
「名前は、高江吉人。私の生家の遠縁にあたる高江家の長男です。利発な子でかねてから彼を宮廷に呼び寄せたいと考えていました。しかし、吉人は波州を離れたがらず、気付けば、もう二十四。優秀な人材をいつまでも放っておくのは惜しいことです。宮廷で私の力になってほしいと思っています。」
露子は、ふってわいたような話に困惑した。
「私ごときが、松子様の遠縁の方のお傍にいてよいのでしょうか。それに年も私の方が上です。」
「世間的には何の問題もないでしょう。 年の差のことも、年上のあなたがしっかりしていれば、上手くいくものですよ。」
露子は、曖昧に頷きながら、どうしたものかと考えた。