序章:海上の追跡
新暦108年7月13日、午前3時14分。
黒い海面を引き裂くように、波しぶきを蹴立てて1隻の漁船型船舶が進んでいた。曇天の夜空は星ひとつ見えず、海と空の境界はすでに判然としない。強い南風が海を煽り、波高は2メートルを超える。それでも不審船は速度を落とさず、時折蛇行しながら、必死に何かから逃れようとしていた。
その背後には、国防海軍所属の高速巡視艇〈隼-03〉が食らいついていた。船体長は不審船とほぼ同等、だが装備は比べ物にならない。昼夜兼用の高感度カメラ、赤外線センサー、そして機関砲。夜間追跡に最適化された軍仕様の高速艇だ。追跡を開始してすでに3時間が経過していた。乗員の顔には疲労の色が滲んでいるが、艦橋に漂う空気は鋭く張り詰めたままだ。波に揺れる艦体、計器の電子音、断続的な報告。それだけが、この深夜の海に存在する音だった。
「距離、2200メートル。目標、進路を北北東へ変更……蛇行を続けています」
〈隼-03〉の艦橋で、センサー担当の士官が報告する。機器に表示される白黒の映像には、不審船の甲板に固定された漁具と見られる影が映っていたが、その配置は不自然だった。明らかに偽装。通常の漁船ならば使い勝手を考慮し、もっと均等に道具を置くはずだ。甲板に残る乗員は5名。うち1名が操舵、残りは銃を構え、追跡艇に向けて小銃を断続的に発砲していた。
「反撃許可を──」
「既に出ている。機関砲、撃て」
艦長の簡潔な命令が下されると、船体前部の機関砲が動作を始めた。自動照準により、目標船の後尾を狙い定める。間もなく、曳光弾を含む非炸裂の徹甲弾が次々に放たれ、闇夜を貫いて光の軌跡を描いた。
直後、不審船の左舷後方に着弾。火花が散り、金属片が飛び散るのが遠目にも分かる。それでもなお、逃走を止める気配はなかった。
「奴ら、死ぬ気か……?」
副長が思わず呟く。だが、それはあり得る話だった。相手が自らの正体を知られれば、それは国家間の問題に発展する。国防軍は既にその可能性を考慮し、追跡開始からすでに3時間以上を経過していた。乗員の誰もが、この追跡が単純に終わらないことを、薄々感じ始めていた。
「このままでは、あと1時間で領海外に出られる」
艦長がモニターを見ながら唸るように言った。年配の男で、日焼けした顔には深い皺が刻まれていた。この海域での追跡は初めてではないが、こんな結末を迎えたことは記憶にない。すでに駆逐艦〈くろかみ〉、〈たつなみ〉、〈やまぎり〉の三隻が周辺海域に布陣していた。だが、相手が小銃以上の火器、あるいは対艦兵器を持っている場合、駆逐艦といえども不用意に近づけない。
「参謀本部から指令。対象の『強制停止』が許可された。弾種変更、徹甲榴弾。標的は中央部」
その言葉に、艦内が一瞬だけ静まり返った。徹甲榴弾──炸裂弾だ。人的被害を最小限に抑えるため、これまでは船首か後尾のみを撃っていた。それを中央部、すなわちエンジンや制御機器のある機関部を破壊するとなれば、不審船は大破する可能性がある。最悪、乗員が死ぬ。誰もがそれを理解した上で、誰も口を開かなかった。
「命令は命令だ。撃て」
再び機関砲が唸りを上げ、数発の徹甲榴弾が海を横断する。着弾。今度は船体中央、ちょうど甲板中央の漁具の下あたりに命中。大きな破裂音が深夜の海に響き、黒煙が上がる。
数秒後、明らかに不審船の速度が落ちた。
「減速確認! 目標、時速12ノット以下に低下!」
駆逐艦〈くろかみ〉と〈たつなみ〉が同時に動き出す。両舷から挟み込むようにして不審船へ接近。拿捕の好機だ。
「よし、接舷準備──」
その瞬間だった。不審船の甲板中央から突如として火柱が上がり、立て続けに複数の爆発音が響いた。白熱光を放ちながら、炎は船全体を包み込んでいく。瞬く間に炎上。駆逐艦は爆風と飛び散る破片を避けるため、回頭して距離を取った。
「熱源急上昇! 船体、爆発の兆候あり!」
誰かが叫ぶと同時に、不審船の中央部が膨張し、次の瞬間、轟音と共に船体が真っ二つに割れた。高温のガスと破片が四散し、炎が夜空を焼く。爆発は一度きりではなく、断続的に続いた。積載されていた弾薬なのか、それとも燃料なのか──理由はわからない。ただ、爆発が終息したときには、そこにはもはや何も残っていなかった。
煙と炎が晴れた海面には、焦げた木片や金属の破片、そして無数の油膜だけが漂っていた。船体は完全に消滅。乗員の姿もない。
「……目標、沈没を確認。乗員の生存反応、なし」
センサー担当の士官が、抑揚のない声で報告した。それが答えだった。拿捕は、失敗だ。
艦長は何も言わなかった。艦橋の中に、しばらく沈黙が満ちた。計器の電子音だけが鳴り続けている。だが、それが失敗であったとしても、最悪の結果ではなかった。不審船の上陸を許せば、国家の中枢にまで侵食されかねない──それを防げたことは、一定の成果だと誰もが理解していた。理解していても、割り切れない重さが艦内に漂っていた。
ただ、ひとつだけ気がかりなことがあった。
──なぜ、彼らは自爆したのか。
逃げ切れなかったにしても、降伏という選択肢がなかったわけではない。にもかかわらず、彼らはそれを選ばなかった。むしろ、自爆の準備を最初からしていたかのようだった。捕まることを、初めから想定していなかったのだ。それはつまり、この任務が失敗しても構わないと判断されていたということだ。囮か、それとも別の意図があるのか。艦長は腕を組み、目を細めた。答えは出ない。出るはずもない。
「艦長、参謀本部から通達です。不審船の発見地点が本土沿岸から15海里以内だったことを踏まえ、上陸した可能性があるとして、諜報部執行課の派遣を決定したとのことです」
「……それが正解だろうな。すべてが終わったわけじゃない」
艦長は、曇天の向こう、陸地の方角を静かに見つめていた。油膜が広がる海面を照らすように、消えかけた炎の残滓がゆらゆらと揺れている。その光に、艦橋の中が淡く染まった。
不審船は消えた。しかし、彼らが何者で、なぜここに来たのか。その問いは、まだ海の底で眠ったままだ。煙の匂いだけが、波に乗って流れていく。やがて、国家を揺るがす真実が、闇の中から浮かび上がることになるとは、この時点では誰も知らなかった。




