第1話 絶望への入口
嘘の匂いがした。
カウンターの向こうでエールを呷る男。笑い声に隠された焦燥。女給のスカートが揺れるたびに香る、安っぽい香水と諦めの匂い。
そして、この酒場に満ちる全ての人間が放つ、死への恐怖の匂い。
俺の鼻は、呪われている。
あらゆる感情、真実、そして嘘が、腐臭を伴う「情報」として脳に流れ込んでくる。だから俺はいつだって、息を殺して生きるしかない。
城塞都市「鉄環」の一角、狩人たちの溜まり場「錆びた斧亭」。
俺はいつものように一番奥の席で背中を丸め、この忌々しい鼻を覆うようにフードを目深に被っていた。存在を消すのは、もはや生存戦略だった。
「――おい、また来てるぜ。あの『灰色の亡霊』が」
低い声が、俺の耳を打った。
カウンターの向こうから聞こえる声に、俺の耳がぴくりと反応する。
「灰色の亡霊だろ?気味悪いよな、いつもあんなフード被っちゃってさ」
「獣臭いしな。人間じゃねえんじゃないか?」
心ない言葉が酒場に響く。俺は黙って手元のエールを傾けた。苦い液体が喉を通り過ぎる間、彼らのぬるい軽蔑の匂いが、粘つくように俺を包み込む。
慣れているはずなのに、胸の奥がちくりと痛んだ。
「新しい依頼が入ったぞ!」
酒場の主人の大声が、俺の意識を現実に引き戻す。ギルドの掲示板に新たな紙が貼られると、狩人たちがぞろぞろと集まり始めた。
「『黒棘の森』における希少鉱石の採取…報酬は金貨五十枚だと!?」
「バカ言うな、あの森だぞ?生還率一割もないって話じゃないか」
「金に目が眩んで死んだ奴を何人見てきたと思ってる」
ざわめきが次第に諦めの溜息に変わっていく。それもそうだろう。黒棘の森は瘴気濃度が異常に高く、凶暴な魔物が跋扈する死地として有名だった。まともな神経をしていれば近づかない。
だが、俺はまともじゃない。
立ち上がった瞬間、酒場の空気が変わった。さっきまでのぬるい軽蔑の匂いが、獲物を見るような鋭い好奇心と、死地へ向かう者への嗜虐的な興奮の匂いへと変質する。その変化が、俺の肌を粟立たせた。
俺はゆっくりと掲示板に歩み寄り、依頼票を剥がし取る。
「お、おいおい、正気かよ…」
誰かの呟きが聞こえたが、振り返りはしない。危険な仕事は俺にとって唯一、まともな金を稼ぐ手段だった。孤独に生きる俺にとって、死と隣り合わせの報酬こそが生きる糧だったから。
酒場を出ようとした時、入口で小さな影がぶつかってきた。
「あ…すみません!」
慌てて身を起こしたのは、歳の頃なら十五、六の少女だった。濡れた髪が頬に張り付き、息を荒げている。走ってきたのだろう。
その瞬間、俺の鼻に奇妙な匂いが届いた。薬草の香り、そして何より強烈だったのは、押し殺された悲しみの匂いだ。深い絶望を必死に覆い隠そうとする、痛々しいほどの意志の匂い。
だが、それだけじゃない。諦めない決意と妹への愛情――それは、あの日の彼女が俺を庇った瞬間に放っていた、血と泥に汚れる前の、雨上がりの若草のような匂いと全く同じだった。
足が、地面に縫い付けられたように動かない。関わってはいけない。この少女を、あの日の悲劇と同じ目に遭わせるわけにはいかない――。
「あの…あなたが依頼を受けた方ですか?」
少女は俺の手にある依頼票を見つめ、真っ直ぐな瞳を向けてくる。その眼差しには、藁をも掴む思いが込められていた。
「関係ない」
俺は素っ気なく答え、彼女を避けて歩こうとした。だが少女は諦めなかった。
「待ってください!お願いします、協力させてください!」
路地裏まで追いかけてきた少女は、息を切らしながらも必死に言葉を紡ぐ。
「私の妹が…瘴気の病に侵されているんです。薬は色々試しましたが、もう効かなくて…」
彼女の声に込められた苦痛が、俺の胸を締め付ける。
「医者に聞いたんです。黒棘の森の奥に『星輝石』という鉱石があって、それがあれば特効薬が作れるって」
星輝石。確かに瘴気を中和する力を持つ希少な石だと聞いたことがある。だがそれは、森の最奥部、魔物たちの巣窟にしか存在しない。
「足手まといだ」
冷たく言い放って立ち去ろうとする俺に、少女はさらに食い下がってきた。
「私には錬金術の心得があります!採取した素材をその場で調合できます。きっとあなたの助けになれるはずです!」
彼女の真剣な表情を見つめていると、後ろから軽やかな声が響いた。
「面白そうな話だね」
振り返ると、十四、五歳ぐらいの少年が物陰から現れた。小柄な体格に似合わない、計算高い瞳をしている。
「僕はカイ。情報屋をやってるんだ。黒棘の森の最新地図なら持ってるよ」
少年は人懐っこい笑顔を浮かべながら、懐から丁寧に折りたたまれた地図を取り出した。
「僕の情報は正確だよ。命に関わることだから、嘘はつかない」
カイは人懐っこい笑顔を浮かべた。だが、その言葉とは裏腹に、彼の匂いには一瞬だけ、古い羊皮紙が焦げたような、取り返しのつかない失敗の後悔の匂いが混じった。こいつは過去、その「正確な情報」で何かを失っている。
「ただし、タダじゃない。分け前を頂戴。それと僕の安全も保証してもらう。どうかな?」
「胡散臭い」
率直な感想を口にすると、カイは苦笑いを浮かべた。
「手厳しいな。でも僕の情報は本当に正確だよ」
そこへ、酒場から長身の男が現れた。剣を腰に帯びた、二十代前半の男性。整った顔立ちだが、その表情には深い陰りがある。
「素人の少女と、得体の知れない半獣、それに胡散臭い情報屋」
男は俺たちを順番に見回し、呆れたように首を振った。だがその瞳が、一瞬だけ俺――フードの下の半獣の俺――を捉え、揺らいだのを俺は見逃さなかった。彼の深い絶望の匂いの奥底から、守れなかった誰かへの罪悪感の匂いが、微かに立ち上る。
「自殺しに行くようなものだ」
エリオ、と男は簡潔に名乗った。
「…チッ。お前たちが無様に死ぬのを、ただ見過ごすのは寝覚めが悪い。それだけだ」
皮肉な言葉とは裏腹に、エリオの瞳には仲間を見捨てられない何かが宿っていた。
「護衛として同行する。報酬は要らない」
少女がおずおずと俺を見上げる。
「あの…あなたの名前は?」
名前。俺にとってそれは、忌み嫌われる半獣という出自に繋がる、ただの記号だった。名乗るのを一瞬ためらう。
「……アッシュ」
口から出たその名前は、まるで灰のようにザラついて、舌の上で味気なく消えた。
「私はヨナです。錬金術師の娘として育ちました」
こうして、目的も出自もバラバラの四人による即席パーティが結成された。互いに疑念と不安を抱えながら、それでも何かに導かれるように。
酒場を出る時、俺たちに向けられる視線は同情と好奇心が入り混じったものだった。
「あいつら、本当に行くのか?」
「十中八九、帰ってこないな」
「まあ、あの化け物なら案外…」
最後の言葉は俺に向けられたものだった。化け物、か。間違ってはいない。
城塞都市の巨大な門が軋みながら開かれる。外の世界から流れ込む瘴気の匂いに、俺は思わず顔を顰めた。湿った土の匂い、腐敗した植物、そして遠くから聞こえる獣の咆哮。
「初めて外に出るんです」
ヨナが緊張した面持ちで呟いた。彼女の匂いから、期待と不安が入り混じった複雑な感情が読み取れる。
「大丈夫だ」
エリオが彼女の肩に手を置く。騎士としての習慣なのだろう、自然に仲間を気遣う仕草だった。
「でも油断はするなよ。外の世界は城塞とは違う」
カイが地図を広げ、コンパスと照らし合わせながら進路を確認している。地図を握りしめた彼の指先が、白く色を変えているのを俺は見逃さなかった。
「最短ルートは獣道を通ることになる。ただし危険度は高い。安全なのは旧街道だが、大幅に遠回りになる」
データと経験の対立。カイの科学的なアプローチと、エリオの実戦経験がぶつかり合う。
その時、俺の鼻に血と鉄の匂いが届いた。獣道の向こうから漂う、明らかに異常な匂い。
「獣道はダメだ」
俺が呟くと、三人の視線が一斉に向けられる。
「理由は?」
カイが疑わしげに問いかけてくる。
「匂いだ。血と鉄の匂いがする。罠がある」
「匂いなんて非科学的だ」
カイは即座に反論した。その声は冷静だったが、地図を握りしめた彼の指先が、さらに白く色を変えている。彼の匂いから、判断を誤ったギャンブラーが全てを失った時のような、焼けるような恐怖が感じ取れた。こいつは直感を信じて、地獄を見たことがあるんだ。
「データに基づかない判断は危険だ。統計的に見れば…」
「お前の統計より、そいつの鼻の方が信頼できる」
意外にも、エリオが俺の言葉を支持した。
「戦場では、直感が命を救うことがある。旧街道を行こう」
結果的に、俺たちは旧街道を選択した。カイは納得していない様子だったが、多数決には従った。
森の入口に差し掛かった時、ヨナが立ち止まった。
「大丈夫か?」
エリオが心配そうに声をかける。
「はい…ただ、妹のことを考えていました」
ヨナの横顔に、決意と不安が入り混じった表情が浮かぶ。
「きっと帰れる。その石を持って」
俺が珍しく口を開くと、ヨナは驚いたような顔をした。そして、小さく微笑む。
「ありがとうございます、アッシュさん」
その笑顔に、胸の奥で何かがくすぐったく動いた。久しく忘れていた感情。誰かを守りたいという想い。
だが同時に、暗い予感も胸をよぎる。この力は、大切なものを守ろうとすればするほど、その牙を向ける呪いなのだ。
旧街道を歩き始めて三十分ほど経った頃、前方の茂みがざわめいた。
「止まれ」
エリオが剣の柄に手をかけ、警戒の姿勢を取る。
茂みから姿を現したのは、瘴気狼の群れだった。灰色の毛に瘴気の紫色が混じった、この森の代表的な捕食者。通常なら単独行動を好む獣だが、群れで現れるということは相当飢えているのだろう。
「数は六匹…いや七匹」
カイが冷静に敵を数えている。
「多すぎる」
エリオが剣を抜く。刃が夕日を反射してきらめいた。
「ヨナは下がっていろ」
だが瘴気狼たちは既に包囲陣を敷いている。逃げ道はない。
最初に動いたのは、群れのリーダーらしい大柄な個体だった。エリオに向かって跳びかかる。元騎士の剣技は見事で、狼の攻撃をかわしながら反撃を加える。だが、他の個体が次々と襲いかかってくる。
「エリオ!」
ヨナの悲鳴が響く。エリオが一匹の牙に腕を噛まれ、血が流れ出した。
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
守らなければ。
仲間を守らなければならない。
理性のタガが外れていく感覚。全身の血管を駆け巡る、得体の知れない力。
俺はフードを脱ぎ捨てた。
現れたのは、人のものではない灰色の耳と、鋭く尖った爪。そして獣のように光る瞳。
瘴気狼たちが、明らかに動揺した。同類の匂いを察知したのだろう。だが、俺は彼らよりもずっと危険な存在だった。
最初の一匹に爪を振り下ろす。硬い毛皮が紙のように裂け、鮮血が宙に舞った。
二匹目、三匹目と次々に倒していく。それは戦闘というより、一方的な蹂躙だった。だが獣の興奮に身を委ねそうになった瞬間、エリオが助けようと近づいてくるのを感じ取った。
危険だ。このまま暴走すれば――
俺は必死に自分を制御しようとした。牙を向けそうになる衝動を押さえ込み、残りの瘴気狼を仕留める。
気がつくと、すべての瘴気狼が地面に伏していた。俺は荒い息を吐きながら、返り血を浴びた自分の手を見つめる。
振り返ると、三人の仲間たちが俺を見つめている。エリオは剣を握りしめ、警戒を解いていない。カイは興味深そうな表情を浮かべているが、やはり距離を置いている。そしてヨナは、恐怖と困惑が入り混じった表情で立ちすくんでいた。
ああ、やっぱりか。
俺は静かにフードを被り直した。
いつものことだ。俺の正体を知った者は、みんなこんな目で俺を見る。恐怖、嫌悪、そして時には憎悪。
「使える力だな」
カイだけが、実用的な観点から呟いた。だがその言葉も、俺を仲間として見てのものではない。単なる道具として評価しているだけだ。
沈黙が降りる。夕暮れの森で、四人の距離は決定的に開いてしまった。
その夜、俺たちは近くの洞窟で野営した。雰囲気は最悪だった。
エリオは傷の手当てをしながら、時折俺を警戒する視線を向けてくる。ヨナは俺にどう接していいか分からず、困惑している。カイだけは地図を睨みながら、何かを計算していた。
「計画の見直しが必要だ」
カイが口火を切った。
「最初の戦闘で、想定以上にポーションとエリオの体力を消耗した。このままでは森の奥へ進むのは無謀だ」
確かにその通りだった。エリオの腕の傷は思ったより深く、治癒ポーションも残り少ない。
「探索の中止と撤退を提案する」
カイの冷徹な判断に、ヨナが顔を青ざめた。
「そんな…妹が待ってるんです!」
「感情論では生き残れない」
カイの言葉は正論だった。だが、ヨナの絶望的な表情を見ていると、胸が痛んだ。
「近くに放棄された狩人のキャンプがある」
カイが新たな情報を提供した。
「そこなら資材が残っているかもしれない。ただし、主が戻ってくるリスクもある」
議論の末、俺たちはリスクを承知でキャンプへ向かうことにした。背に腹は代えられない。
翌朝、カイの案内で辿り着いたキャンプは、確かに無人だった。天幕は破れ、装備は散乱している。だが、幸いにも薬品の材料や保存食が残されていた。
「ラッキーだな」
カイが安堵の表情を浮かべる。
「これなら何とかなりそうだ」
ヨナも希望を取り戻したような笑顔を見せた。
だが、俺の鼻には奇妙な匂いが届いていた。罠の匂い。金属と火薬の匂い。
「待て」
俺が制止した瞬間、轟音が響いた。
仕掛けられていたワイヤートラップが作動し、俺たちが来た道を岩が塞いだのだ。退路を断たれた。
「罠だったのか…」
エリオが呟く。
岩陰から、別の狩人パーティが姿を現した。五人組で、全員が最新の装備に身を包んでいる。
「悪いな、その資材は俺たちがいただく」
リーダー格の男が下卑た笑みを浮かべる。
「お前らはここで魔物の餌にでもなれ」
岩陰から現れた男の顔には、全てが書いてあった。
腹の底で渦巻く、粘つくような欲望の匂い。こいつら、俺たちを嵌めたんだ。資材を奪い、魔物の餌にする――そのための罠だったのだ。
クソッ、と心の中で悪態をつく。
退路は岩で塞がれ、目の前にはギラつく刃。背後からは獣の咆哮が、すぐそこまで迫っていることを告げている。
完全に、詰みだ。
敵の一人が、ニヤニヤしながら剣の切っ先をヨナに向けた。
やめろ、と声にならない叫びが喉につかえる。
彼女から匂い立っていた、あの必死な決意の香りが、恐怖に押し潰されていくのがわかった。雨上がりの若草が、無慈悲な霜に焼かれていくように。
「……うそ……」
か細い呟きが、やけに大きく耳に響いた。
希望が、目の前で音を立てて砕け散る瞬間だった。
ちくしょうめ。
これが、外の世界だってのか。
甘い夢を見ていたのは、俺の方だったのかもしれない。
本当の地獄は、ここからだった。