【八】水の時計塔
帰宅した俺が自室のソファでアイスティーを飲んでいると、乱暴に扉が開け放たれた。ストローを思わず噛んで振り返ると、そこには険しい顔をした兄上の姿があった。またか……と、憂鬱になる。
「ジェイス!! あれほど関わるなと言っただろうが!!」
「……」
「ヴァレンから聞いた。今日黒のアトリエに行ったそうだな!? 一体何をしていた!?」
乱暴な足取りで歩み寄ってきたグレイグ兄上は、俺の肩を掴むと、無理矢理自分の方を向かせた。慌てて俺は、グラスを置く。
「離せよ!」
「答えてからだ」
「別に。俺がどこに行こうと勝手だろ」
「お前はこのナイトワース公爵家の人間なんだぞ!? なにかあったら――」
俺は兄の言葉にかぶせるように口を開く。
「俺次男だし。公爵様の兄上とは全然違う。危険なんかない」
「っ」
すると兄上が、凍り付いたような顔になり、目を見開いた。
――?
なにか、衝撃を受けたような、非常に悲しいことがあった時のような、悲愴が宿る瞳をしている。どうしたんだろう? どうしてこんなに傷ついたような顔をしているんだ? 言い過ぎたか? そうだろうか?
「……っ」
グレイグ兄上が、唇を噛みながら、顔を背けた。俺の肩を掴んでいる手から力が抜けている。俺は困惑しながら兄上を見上げた。
「……とにかく、すぐに手を引け」
兄上はそう言うと、俺とは目を合わせないままで、部屋を出て行った。
帰りは静かに閉まった扉。
暫しの間それを見守っていると、キルトが俺の膝の上に珍しくのってきた。
「どうするの? 手を引くの?」
「……そんなこと、出来るわけがないだろ」
俺は片眉を顰めて、アルマ殿下のことを思いだす。弱味を握られている以上、断れない。
「じゃあこれからどうするの?」
「明日は、他の被害者が出た、『水の時計塔』に行ってみよう」
「分かった。ボクもついていくよ!」
こうして、俺達は、兄上には構わず調査を続行することにした。
ただ俺は、兄上の傷ついたような顔が脳裏に焼き付き、ズキンと時々胸が痛くなった。
なんなんだろう、あの顔は。
しかし考えても分からない。俺は大きく生きを吐いて、必死に忘れようと試みた。
だがその成果は芳しくないままで、本日も俺は気まずい夕食の席を乗り切った。
――翌日。
本日は、よく晴れている。
俺とキルトは、兄上が王宮に向かってから、ひっそりと家を出た。兄上から言いつけられているのだろうエヴァンスは、俺に対して、非常に何か言いたそうだったが、俺は無言の圧力で勝利し、無事に家を抜け出した。
水の時計塔は、王都はずれにそびえ立っている。
中に入ると、まるで海中に入り込んだかのような視界が広がるし、魔術魚が実際に泳いでいる。それらは魚や深海生物の他、時計が泳いでいるように見えるものなど、様々な見た目をしている。
俺は無人の魔術ゲートで魔力認証をし、時計塔の中に入って、キルトを抱きながら歩く。そして人がいる二階を目指した。この時計塔の職員は、全員がぜんまい族で、職員の中に被害者も出た。俺はその話を聞くのと、注意喚起が目的でここへと来た。
「こんにちは」
今日の俺は、きちんと貴族らしい貴族の服を着ている。すると職員控え室にいたぜんまい族のバルトさんが顔を上げて、俺に対して深々と頭を下げた。
「ご無沙汰致しております、ジェイス様」
彼は過去に何度か王立学院に特別講師としてやってきたので、俺は顔見知りだ。バルトさんは、左目に当たる部分が魔導具でいうところの写真機のレンズに似ている。それ以外は、人間らしいぜんまい族だ。
「こちらこそ、ご無沙汰してます。あの、聞きたいことがあるんです」
「なんですか?」
「最近、こちらの職員の方がぜんまい狩りにあわれたと新聞で読んで。心配なのでお会いできたらと思いまして」
「ああ、ミックでしたら、奥の七階の廊下にいますよ」
それを聞いて、俺は頷いた。この時計塔の内部は、巨大な歯車が回っている合間に、螺旋階段がある。それが各階に繋がっている。
「ありがとうございます」
会釈をしてから、俺はミックさんに会いに行くことにした。新聞に出ていた被害者の名前もミックさんだった。七階の廊下に行くと、右足がモップであるミックさんが、掃除をしていた。
「こんにちは、ミックさんですか?」
「え? ああ、はい。ええと……あっ! そのスペードの紋章は……ナイトワース公爵家の……」
俺の服の刺繍を見て、ハッとしたようにミックさんが頭を下げたので、俺は慌てて手を振る。
「お構いなく。ジェイスと言います。少し、ぜんまい狩りに遭われた事件について伺いたくて……」
「ああ。幸い足もこの通り、元通りなんですけどね。いやぁ、怖かったなぁ」
「犯人は見ましたか?」
「アイスグリーンのローブを着ていて、目深にフードを被っていたんで、顔は見えなかったんですよ。オレに襲いかかってきた時は、鎌を背負ってましてね。まるで死神みたいでしたよ」
死神というのは、王家と公爵家の家紋のモデルになったトランプというカードゲームの二種類のジョーカーの内の片方のマークだ。もう片方はピエロのマークだ。
「ご無事でなによりです」
「ありがとうございます」
「本当に物騒ですよね。どうぞ気をつけて下さい」
「公爵家の方にそんな風に仰ってもらえるなんて……ありがたいことですよ」
にこやかに笑ったミックさんに苦笑してから、俺はキルトを抱き上げた。話も聞いたし、注意喚起もしたとしていいだろう。
「それでは、失礼します」
俺はそう告げて、外に向かった。時計塔の中はひんやりとしていたけれど、外に出ると一気に暑くなった。既に本格的な夏が迫っている。
「近道しよう」
俺はキルトを抱いたままで、時計塔を出てすぐ、裏路地に入った。
ここは建物と建物の裏にある細い路で、迷路のように幾度も角がある。だが、路を覚えてしまえば、王都の好きな場所に最も到達しやすい。俺は今日こそは一人で食事をするつもりなので、街中への近道をすると決めた。
「キャァアアアア!!」
すると、二つ角を曲がったところで、悲鳴が聞こえてきた。何事だろうかと立ち止まり、顔を険しくする。キルトを地に下ろして、俺は足音を消した。恐る恐る、悲鳴のした方にゆっくりと近づく。
嫌な音と水音がする。
次の角を曲がると、細い路地の突き当たりが見え、その前でアイスグリーンのローブを着た人物が、剣を手に、何度も振り下ろしていた。それを突き刺されているぜんまい族が悲鳴を上げている。胴体が戸棚がバタバタと手足を動かしながら叫んでいる。
「そこにいる人、助けてくれ!!」
俺に気づいた被害者の青年が、泣きながら俺を見た。
するとビクリとしてローブの人物が動きを止めた。ゆっくりとその人物が振り返り、俺に気づいた。俺を見ると、剣を構え直した。そして地を蹴ると、俺の方へと突進してくる。咄嗟のことに、俺は後ずさりながら、両腕で自分の体を保護しようとした。
ぜんまい狩りが人間を襲うことは、基本的にない。
だけど目撃者となってしまった俺の命を奪うことには、抵抗はなさそうだ。
なんとかしなければと焦ったその時――俺の腰が抱き寄せられ、俺は黒い片マントで庇うようにされていた。
「キルト!」
もう一方の手を正面に突き出し、風属性魔術で空気の膜を作っているキルトは、突進してきた人物を見据えている。直後、ガクンと力が抜けたようにして、相手は地面に頽れた。
「大丈夫? ジェイス」
殺されるかと思って恐怖で凍り付いていた俺は、その声を聞いて、肩から力が抜けた。
「あ、ああ。ありがとう」
人型になったキルトは、俺よりもずっと背が高く、黒い髪に一房だけ白いメッシュの前髪、緑の目をしている。とてもぜんまいつきのハチワレ猫だったようには見えない、美丈夫である。シルクハットを被っていて、ベストの上には夏でも片マントを身につけている。彫りの深い顔立ちで、長い黒髪は後ろで束ねている。
「なにをしたんだ?」
「ああ、不審者の周囲の酸素を奪ったんだよ。気絶させただけだよ」
「そ、そっか。キルト、被害者を――」
「うん。治癒魔術を使うこととするよ。ジェイスは心配しなくていいよ」
心得たと言うばかりに、俺をしっかりと立たせてから、キルトが気絶している不審者を踏んづけて先に歩き、驚いたように目を丸くしている戸棚胴体の青年へと歩みよった。そしてパチンと右手をならして、水晶から削り出した幾何学の模様が尖端についている杖を手にすると、それを動かし治癒魔術を発動させた。みるみる、壊れていた戸棚の部分が修繕されていく。
「あ、ありがとうございます!」
「いいよ。これはジェイスが望んだことだから、礼ならジェイスに。ボクはジェイスの相棒だから、その気持ちを汲んだだけだからね」
そういうと、キルトが俺に振り返った。俺は苦笑する。
「いやいや、キルトのおかげだろ?」
「ううん。ジェイスがいなかったら、ボクは興味すら持たないからね」
「そ、そっか……」
キルトはそう言うとこちらへと歩いてきて、倒れている不審者のそばで杖を振った。すると不審者が縄でぐるぐる巻きになった。
「騎士団に突き出しに行こう。被害者も連れて」
「ああ」
俺が頷くと、被害者の青年が立ち上がり、こちらに来た。
「本当にありがとうございます、俺はナナマと言って、家具店をしています。今は曾孫夫婦がほとんど見てくれているんですが」
……青年だと思ったが、外見年齢だったようで、やはりぜんまい族は見た目からでは年齢が不明だと思った。
「俺はジェイスです。行きましょう」
「ええ。ええと、ここから王宮の騎士団の本部だと、路は――」
「ボクが連れて行くよ」
キルトが言うが早いか杖を振った。その時には、俺達は王宮にある第二師団詰め所の家屋の受付前にいた。受付の騎士が驚いた顔をする。
「実は――」
俺が事情を話すと、驚いたようにしながら歩みよった騎士が二人で不審者を捕らえ、ナナマは事情を聞くためとして、別室に連れて行かれた。俺とキルトは少し待つように言われたので、ロビーの椅子に座る。既にキルトは猫の姿にもどっている。杖も魔術で消失させている。俺の膝の上で丸くなっているキルトの頭を撫でていると、歩みよってくる足音がした。
「ジェイス!」
そこには声の主であるヴァレンさんと、昨日送ってもらったキースの姿があった。他にギロチン頭をしたぜんまい族がいる。噂の処刑人だろう。