和田倉濠2
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「ええ、まぁ」
海外のフットボール関係者とつながりがあれば、自然と中東にもつながりができる時代だ。
「こちらに来ませんか? あなたにとっても得になる話です」
原松は手で上のフロアを指し示して、歩き始めた。それほど興味がない人間でも、エスコートをするそぶりを見せられれば、付いていかざるを得ないというテクニックだ。
だが、優貴は下唇を突き出しただけで動かない。莉愛をコントロールしようとする目線と言い、優貴を強制的に動かそうというテクニックと言い、不愉快極まりない。蜘蛛の巣のように相手の意志を搦めとろうという陋劣さに吐き気がする。
原松は二歩ほど歩いて優貴が動かないことに気づくと、不審な顔をした。いつもこの手の隠微なやり方で、強引に人を自分の思い通りに動かしているのだ。
だが、今回はばかりは相手が悪かった。蜘蛛の巣を引き裂く猛獣も世の中にはいるのだ。
「どうしたんです? 田村さん? お話があるんですが」
「いや、今は時間がなくてね。もうベッドに行かないといけない時間だ。ママに怒られる」
優貴は精一杯嘔吐感を押さえて言った。
「お時間は取らせません。ほんのちょっとです。それに、田村さんに話しかけるために私は小一時間も待ってたんです。少しぐらいはいいでしょう?」
「それは時間の無駄でしたね。でも、無駄は無駄と思わなければ、無駄になりませんよ。おれと話せなくてもそう思えばいい」
原松は言われたことが判らないのだろう。さらに不審そうな顔をする。
「ビックディールなんですよ。これは。今サウジは次の産業として医療を考えている。そこに製薬会社とつなぎを付ければ、大きなビジネスになることぐらい想像つくでしょう。サッカーなんかとは比べ物にならない稼ぎだ。しかも、あなたにとっても成長になる」
優貴はにっこり笑って見せた。そろそろ限界だ。これ以上話すとこの原松という馬鹿を再起不能にするのは間違いない。
「申し訳ない。おれは怠け者なんで、儲けだの、成長だのに興味はないんです」
原松の顔が空白になった。ぽかんと馬鹿面を曝す。まるで優貴の言ったことが理解できないのだ。
「いくぞ」
「うん、行くのだ」
優貴は慎重に莉愛の名前を呼ばずに手を差し出した。原松に莉愛の名前を知られたらどんな後難があるか判らない、いや、後難なんかはいくらでも引き裂いて食い破ってやるが、原松の耳に莉愛の名前が響くことすらおぞましい。
優貴は原松に背を向けて、莉愛をエスコートした。エントランスに向かう。
どうしてこう人をものとしてしか見られない奴が多いのか。人間が欲を満たそう、目標を達成しようというのは当然だ。だが、どうしてこうも違いが出るのか。優貴は久しぶりにぶつかった掣肘への怒りを、思索と茶化しへどう転嫁しようかと考えながら、ビジネスウィングの外へ出た。
濠端を銀座方面に歩く。莉愛はしっかりと優貴の手を握って横を歩いている。
優貴は意識を広げた。考えすぎかもしれないが、原松がCIAの動きの一種でないかと思い至ったのだ。本人が気づいていなくても片棒を担がされている可能性もある。油断の隙もありゃしないのが、諜報の世界だ。みなさんも気を付けた方がいい。はっと気づいたら沼にハマっているなんてことはざらにある。諜報機関というのはその人間の最も弱いところを衝くのだ。
ひとところではなく周囲全体を見る。行き過ぎる車列の向こうや背後の気配が流れ込んでくる。
一月中旬の寒空の下、歩いている人間はほとんどいない。たまに宮城ランナーの姿がちらほら見えるだけだ。尾行の気配はない。
「寒いか?」
優貴は莉愛に尋ねた。
「ううん。あったかいよ」
莉愛は今日はキルト風のダウンコートを着ている。襟にボアがついていて確かに暖かそうだ。
「田村さんは、どんなこと教えるの?」
莉愛は優貴の表の仕事に興味を持ったようだ。
「教えるって程のことじゃないさ。英語を伝えるだけ」
莉愛が小首を傾げる。
「でも、それならほかの人でもいいんでしょ? わざわざああいう人が来るのはなんで?」
莉愛の心づかいの細やかさに優貴は微笑む。周囲に人がいなくても、莉愛は有名人とかそいつの名前とかを口にしないのだ。




