【5】復活
タイヤがアスファルトに一本の筋を跳ねる。歩行者を大回りで避け信号を無視した。アパートの外で日南はパニックに陥っていた。腕を引かれレインコートを脱ぐ暇なく部屋で詰め寄られた。
「白浜くんが退学した」
開拓はまるで知らなかったと。それでも思い当たると黙って頷いた。
「多分あの両親に連れて行かれたんだ」
「そんな」
窓の外で黒い空が静かに水を落としていた。あのときもっと探さなかったのかと開拓は悔やんだ。冷や汗が首筋を流れ息が苦しくなる。
だが気持ちをぶつけてくる彼女には背を向けた。
「岡崎くん! 白浜くんを助けに」
「きみ一人で行けばいい」
日南ははっとして聞き直した。
「どうしてキミといっしょに行かないといけないんだ」
「友達だから」
「友達じゃなくて好きなんだろ」
「太子を助けて、川島さんを蹴落として独り占めにするのかい」
「そんな」
「素直になってよ日南さん」
彼女を侮蔑の視線に晒した。
「ボクはきみにとっての何なの。きみがボクに何を言ったのか、はっきり覚えてるよ」
「そんな」
「今度は助けてくれだって」
日南の絶望の表情はむしろ嬉しかった。
「そんな奴に好かれた太子も可哀そうだ」
笑ってみせた。
「いくら絵が描けたって、真っ直ぐ生きてない人に価値はないね」
重く沈む。
それを打ち消すようにチャイムが鳴った。乱暴にドアが開き、ずかずか上がって来たのは見たことない二人の大人だった。
「日南。お父さんだ」
「日南ちゃん」
彼女の両親らしい。着たきりスズメの日南と違い二人ともフォーマルな装いだ。しかし男は彼女を見るなり張り倒した。
「これは一体どういうことなんだ」
「あなたはいつから嘘つきになったの? お父さんに謝りなさい」
母親は父親の味方だ。驚くばかりの彼女に父親は新聞の切り抜きを翳した。彼女が絵画展で入選した記事が写真入りで載っていた。
「遊びまくった挙句絵などに執心して。このままだと留年すると学校から通知があった」
「あなたは絵で受験に失敗したことを忘れたの? こんな三流の大学にしか行けなかったことを忘れたの」
母親は彼女の肩を揺すって言い聞かせようとした。父親は呆然とした開拓の横を抜け床に散らばる無数のスケッチを手に取った。
「こんなもの」
鈍い音で引き裂かれるスケッチ。日南は声を上げ拘束する母親を突き飛ばし、絵を取り戻すと胸に抱えた。
「お父さんにこんなことする権利があるの? 絵はあたしを何度も助けてくれた。辛いときも悲しいときも絵を描けば楽になれた。それなのに」
言葉は届かず彼女は二人掛かりで引き摺られた。
「帰りの船は夜には出るから。日南ちゃん」
「お前は世間の厳しさを知らない。いい学校に行けなかった連中がどれだけ悲惨な生活を送っているのかを」
彼女は暴れてもがいた。
「岡崎くん助けて」
日南の叫びを無視し開拓は玄関で靴を履いた。
「待って岡崎くん」
どれだけ助けを求めたことだろう。自転車を押しているとドアが閉まる音がした。暴れる日南はあの両親にタクシーに押し込められていた。静かな町にエンジン音が響き水のスクリーンにタクシーは消えていった。
――――――――
レインコートは前カゴの中。体を濡らす雨。行くあてなく自転車を押す。日南さんは今頃は電車の中か。嫌がってそれでも両親に逆らえないのか。
太子はあの親に酷い目に逢っているのか。
開拓は自転車を抱えるように電柱にもたれた。服の奥まで冷たさが浸透し感覚が麻痺して。
――ボクの小説の主人公は必ず成功する。主人公の傍にはいつも可愛い女の子がいた。困ったとき悩んだとき、いつも彼女が励ました。主人公が危機を乗り切れるのも、ひいては主人公で居られるのも全てはその子のおかげなんだ。
「そんな嘘をいくら書いても納得できないよね」
小説は作者の現実を映す鏡。無視しても成功するわけがない。ボクが書きたいのは。ボクが読みたいのは――。
「ずぶ濡れじゃない」
開拓は顔を上げた。傘を差した晶子が旅行に行くような大きなバッグを肩から抱えていた。
「風邪ひいちゃうよ」
俯いた開拓に晶子は強引にレインコートを被せた。それから瞳を近付けた。
「帰ったらちゃんとお風呂入って体拭くんだよ」
好きだったときのことを思い出してしまう。
「川島さんは太子のこと」
「知ってる。美術部の部員さんもみんな心配してた」
「やっぱり太子は」
「わたし太子くんを助けに行く」
彼女は開拓の言葉を先回りするように答えた。
「太子の親たちまともじゃないのに」
「そんなの関係ない」
彼女は開拓に手を差し出した。
「岡崎くん行こう」
――――――――
二人乗りの自転車は閑散としたロータリーを回り、駅舎の庇でレインコートを吊るし立て置かれた。晶子は傘を巻き取り待合室の真ん中のストーブを指差した。
「あったかいよ」
売店も閉まり誰も居ない待合室。ストーブの傍でしゃがむ開拓と晶子がいる。
「やっぱりボク、いっしょに太子を助けに行くよ」
晶子は高い天井に首を傾けていた。
「ねえ川島さん」
「だめ」
もう一度尋ねた開拓を晶子はきっぱり拒否した。
「岡崎くんには待ってる人がいるでしょ」
「太子だって待ってる」
「わたしの役目だよ」
「川島さん一人で行かせられないよ」
ストーブから離れ晶子はベンチに腰掛けた。彼女の脇にはバッグと、それから布で巻いた長い棒のようなものがあった。
「川島さんは知らないんだ。ボクが日南さんにどんな酷いこと言われたか」
開拓は晶子の横にふんぞり返った。
「でも好きなんでしょ」
「違うよ」
唾を飛ばし開拓は怒鳴った。
「あんな最低の奴、助ける理由なんてあるもんか」
「辛いよね。お互い」
晶子は膝を抱え唇を噛んだ。
「誰が何言ってもわたしは一人で行く。今度こそわたしが助けないと」
「そんなの」
「だからさ、岡崎くんも突き進んでみたら」
沈黙が波紋を広げた。ふとポケットに手を遣った。そこには冷たくなった鉛筆だけ。削ることも叶わないそれが転がった。開拓はぎゅっと握り締めた。
「戻ってきてくれ。お願いだよ」
願いを信じた。
さあ。出番かな。
キラキラ輝き新品のような長さに戻った鉛筆を携えた存在。掌に浮かび上がるのは黒づくめの服でニヤリと笑む生意気な女の子の妖精だった。
「クリスピー」
ふわり舞うローブに開拓は顔を綻ばせた。
「お前の死に様を直に見たくなってな」
「そんなに簡単に死んだりしないよ」
憎まれ口を叩きながらも彼女は得意だった。
いたずらな瞳でクリスピーは開拓の口元に耳を立てた。
「お願いって何? 言ってみて? ほらほら」




