【1】両立する日常
雛段に机が並ぶ講堂で、教授は巨大な黒板にチョークを叩きつけていた。いつもとは違う態度で隠れるように最後列に開拓は居た。黒板の内容をは残さずノートにつけ、その教授の著したテキストにもアンダーラインを引く。彼は同時にもう一冊のノートにも文字を綴っていた。
九十分授業の間、鉛筆は二冊のノートを行き来していた。黒いローブに黒い帽子の妖精クリスピーはノートの傍であぐらを掻き、あくびで開拓を眺めていた。
チャイムが鳴った。教授は語り足りない顔をしたが開拓はバッグを提げいそいそ外に出る。自転車に跨るとクリスピーは前カゴに入った。学校のメインストリートで上着のフードを上げた。
「しまった」
いつもの調子で部室棟の前を帰り道に選んでいた。引き返す時間はなく素早く過ぎることにした。太子の姿が建物の前に見えた。傍にいるのは晶子だろう。日南の姿は……確認しなかった。林に入りようやくペダルを緩める。赤や黄色だった葉も朽ちていた。
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スーパーの通用口でタイムカードを差し込む。ゴム長靴とエプロンを着て惣菜の調理場で社員やパートのおばさんに挨拶した。指示を受けコロッケやフライを冷凍庫から出しフライヤーで揚げる。形が崩れないよう油の中で混ぜることや、引き上げるタイミングも慣れたものだった。
「岡崎くん。これ食べなさい」
ベテランのパートさんが、黒こげで売り物にならないクリームコロッケをくれた。
「おいしいです」
「ぼくもぼくも」
クリスピーはコロッケを奪うと口に放り込んだ。
「水みず……」
「食い意地張り過ぎだよ」
「最近開拓ロクなご飯作らないから」
彼女は彼の肩でのびていた。
揚げ物を金網の上に並べていると社員も声を掛けてきた。
「岡崎くんは真面目だねえ」
「きみのような子が社員になってくれたら嬉しいなあ」
「そりゃ無理だよ。岡崎くんは学者さんの卵だよ。こんな潰れかけのスーパーなんか」
パートさんが冗談混じりに言った。社員も自虐的に納得している。開拓はいい気分になっていた。
「誰が学者だって」
しかし穏やかな空気掻き消すように男が裏口に現れた。
「大したもんだな岡崎」
Yシャツにネクタイの男、スーパーの常務は開拓に嫌味に言った。
「昨日の夕方のフライ、お前が揚げたんだってなあ」
「それがどうかしたんですか」
「どうしたじゃないだろ」
突然怒鳴られ開拓の顔が強張った。
「髪の毛が入っていたとクレームがあったんだよ」
「ごめんなさい」
「謝れば済む問題じゃない! お前はこのスーパーの信用を落としたんだ」
「でも知らなくて」
「言い訳するな」
パートのおばさんが口を挟んだ。
「岡崎くんも気を付けてるわけだし、許してくれないかね」
「パートごときが口出しするな」
男は鼻息を荒げた。
「たるんだ奴だ。学者になっても常識の一つも知らないんじゃ社会で何の役にも立たない。お前ら。アルバイトの教育が出来てないのは、お前ら社員の責任でもあるんだぞ」
「すいません」
社員は上司である常務に平謝りするばかりだ。
「解ったら仕事に戻れ」
男はネクタイを締め直すと睨みを効かせ店に消えた。張り詰めた空気が残っている。パートさんが声をくれなければ開拓は動けなかっただろう。
「あの人もお店のために一生懸命なんだよ」
「岡崎くんはよくやってるよ」
開拓は感情をしまい込み俯いた。
「エラそうにしやがって。気にすんなって開拓」
「クリスピーは気楽でいいよね」
いつも襟を正しいつも真っすぐ歩き礼儀と挨拶を欠かさない。なのに。
「あいつはボクが小説を書いてるの知らない。デビューしたらどう自慢してやろう。どう見下してやろう」
そう自信を深めても、いざ店内のフロアに出ると顔が強張る。揚げ物を並べるときも、どこかであいつの視線を意識し息が詰まる。反撃出来ない自分自身が情けなかった。
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時間通りに彼は夜闇に出た。ペダルを強く踏み通り過ぎるのは明かりの消えた商店街。車の減った国道。静まった住宅地。
アパートのドアを開き明かりを灯すが、そこは外と変わらない冷たい部屋。コタツに火を入れ炊飯器のご飯を混ぜた。おかずは作らずわざわざ他のスーパーで買った。電子レンジで暖めコタツに足を入れ、クリスピーと二人でいそいそ食べた。
これからが本番だ。
気力を振り絞り、原稿用紙とバッグの中のノートを机に広げた。文字を書き入れるのは魔法の鉛筆だ。思いついたままの場面が物語が次々と完成されてゆく。たった一時間で十枚が埋まったことに開拓は驚いた。テレビも点けず時計の針だけが響く部屋で開拓は全能の笑みを浮かべた。寝転がるばかりで手伝うことはないクリスピーに言った。
「この鉛筆を使えばすぐに夢が叶うんだ」
短くなったそれが温もりを与えてくれる。
「今まで何を悩んでいたんだろう。どうして何十回も推敲し続けたんだろう。考えたことをそのまま文章にすれば、それだけでボクの想いは現実になる」
開拓の脳裏に日南の顔が浮かんだ。
想像の中のきみは太子と抱き合っていた。ボクは一人ぼっちで闇にうなだれていた。一歩でも近付こうものなら激しく非難された。
岡崎くんは人間じゃない!
「早くしないとそれが固定されてしまう。ボクには小説しかないんだ」
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開拓はあくびで白衣を羽織った。新しい実験室棟は窓も広く冷暖房も完備している。楽して書けることで、もっと書きたいという願いが寝不足に追い込んでいた。
「よう開拓」
太子め。
「目が死んでるぞ。えっちなビデオでも見てたのか」
「きみじゃあるまいし」
「小説を書いてたのか」
実験の講義は高校の理科室のように作業机ごとに班を作る。違うのは今まで見たことない機材が揃っていることだ。太子は背中の班の開拓に真剣に向いていた。
「俺、自分で自分が解らなくなってる」
「どうして」
「晶子のこと、どうしてもためらってしまう。お前ならどうする?」
日南とうまくいってるお前なら。
「解るわけないよ」
なんて身勝手なんだ。こいつはみんな持っていってしまう。
「そうか」
太子は溜息で終わらせた。
「あんまり根詰めてると体がもたないぞ。今日は部活来てくれよ」
「太子。こっちも始めるぞ」
彼は呼ばれ開拓とまた背中合わせになった。開拓は一人ぼっちだ。ペトリ皿を並べ白金線をガスバーナーで滅菌した。青白い炎が綺麗だった。




