【2】描かれたはずの理想
夜の住宅地を自転車で秋の風を押し退ける彼はアパートに着いた。空腹で眠ったクリスピーは家に置いてきた。自転車を塀に立て掛け二階を見上げる。部屋の明かりはついていて、チャイムを鳴らすとしばらくして日南が出て来た。
「話があるんだ」
しばらく来ないうちにまた部屋は荒れ放題になっていた。日南は全く気にする様子もなく机に水彩用紙を広げていた。
「はかどってるの」
「うん」
描くのに夢中で彼女はそっけない。
「また掃除しないとね。やるのはボクだから心配しなくていいよ」
何も答えない。
日南が絵しか目に入らないように開拓にも彼女しか映らなかった。無為な時間は必要ないから切り出した。
「学校で大変なことがあったんだ」
太子がケガをした。予想通り彼女の顔が途端青ざめた。
「どうして」
「殴られて蹴られて……止められなかった」
彼女はパニック状態だった。気ばかり焦って何度もその名を呼び、ドアに足をぶつけなが靴も履かず外に出ようとした。
「行っちゃだめだ」
「離して! 離してよ」
叫ぶ彼女の肩を彼は掴み部屋に押し戻した。まだ日南は暴れていた。
「太子が言ったんだ。誰にも知られたくないって」
「どうしてなの」
「殴ったのは太子の親だからだよ」
日南を座らせ震える両肩をしっかり抑え付ける。
「そんな酷い親がいるなんて」
「ボクだって辛いよ」
キミなら受け入れてくれる。確信してだから彼は抱きついた。腕の中に彼女の体を押し込んだ。
振り解こうとした日南だが構わず開拓はキスをした。肩から胸に掛け手を回した。
「好きだ新村さん。きみが好きだ」
手を滑り込ませた。暴れる彼女に体重を掛けた。彼女は顔を真っ赤にして小さな体をよじった。また強引にキスをした。
でもそこまでだった。突然開拓は彼女から上体を退けた。日南は荒い息で震えていた。シャツのボタンが外れ胸が露になっている。
「こんなことするつもりはなかったんだ。新村さんにボクの辛さを解って欲しくて」
明日は太子の親の家に行くから。そう話すと彼女の震えが止まった。
「太子は友達だから。でもどんな目に逢うかと思うと恐くて恐くて」
彼女は俯き何も答えなかった。
「もう帰るよ」
開拓は去り際にもう一度謝った。
「今日はごめんね。新村さんおやすみ」
――友を助けたい。
親からの暴行に、苦しむ親友に男子は胸を痛めた。平然と暴力を奮う連中を許せなかった。だが戦いの結果がどうなるのか想像すると震えてしまう。
男子は心の救いを求め女子を頼った。女子は優しく男子を受け止めようとした。
だがそこまでだった。親友を気遣う身で自分だけが救われることは許されなかった。男子は決意を固め襟を正した――。
開拓の部屋に残された原稿用紙だった。
――――――――
部室は今日も日南一人だけのものだった。絵の具をパレットに乗せ筆を運び色を混ぜる。紙は白いままだ。筆はパレットに戻され、また絵の具が混ぜられる。線一本、点一つさえも作られないまま時間だけが過ぎてゆく。
ドアの方ばかり気にしていた。チューブの中身は全て絞り出され、溢れた絵の具は彼女の指を汚していた。乱暴にティッシュを引っ張り出した。部屋の隅に脱ぎ捨てたジャンパーが昨日の開拓の話を思い出させる。
「会いたい。会いたいよ」
何度も何度も呟き日南は立ち上がった。
「白浜くん」
「呼んだか」
突然ドアが開き驚いた。やっと会えた人は派手な目出し帽を被っていたからだ。
「俺のことが解るとは立派。さっきは変質者扱いされたからなあ」
マスクの中からくぐもった声を出す太子はジャンパーを手にした。
「これがないと寒くてな」
日南は体を伸ばし目出し帽を剝ぎ取った。思わず顔を隠したが痣は覆えなかった。
「なんであたしに黙ってるの? なんでなんで」
彼女は彼の傷に触れていた。
「痛」
「ごめんなさい」
慌てて手を引っこめた。
「誰から聞いたんだ」
――――――――
ワンマン電車がホームに停まっている。開拓と晶子は向かいの座席に座っていた。暖かな午後なのに二人とも重い表情だった。最初に行こうと言ったのは彼女だった。これから先のことを考え開拓は小さく震えた。
「がんばれ開拓。しかしこのチョコ最高のうまさだね」
緊張をよそにクリスピーは食べ過ぎだった。
大きな川の三角州は松林で囲まれその中に駅がある。昔は支線も貨物ホームもあったらしく、敷地は幾つにもレールが別れている。今はこの電車だけだった。
木造の駅舎。高い天井。手書きで直された時刻表。コンクリートの床。待合のベンチには誰も居ない。売店の人があくびをついている。ロータリーにタクシーが一台だけ。噴水の水は緑色に淀み。鳥のさえずりだけが聞こえる。
――――――――
溜め息をつくと太子は窓際に腰を降ろした。
「あれだけ内緒って言ったのに全く開拓は」
彼はジャンパーをラフに着た。
「新村。ほかの連中には言うなよ」
日南は何も答えなかった。太子は呟いた。
「お前、親に芸大行くの反対されたんだってな」
日南は入口に近い場所に座っていた。
「俺は大学に居ること自体反対されてる。四月はここにいないかもな」
「そんなの嫌」
「新村は本当にいい子だな」
太子は立ち上がり、彼女の肩を軽く叩きドアを開けた。
「今日はもう帰る。レポートまだ仕上がってないし」
閉じられるドアを彼女は見詰めていた。
日南はリュックを背負い部室を出る。彼を追うのではなかった。日南は走った。林を抜け川の方へ。息が切れ足が痛むが走るのを止めなかった。
運転手が変速機を操作した。音を上げ動き出すワンマン電車。開拓はクリスピーと窓から顔を出した。きっと間に合う。
ホームを離れ掛けていた電車が突然止まった。トラブルに運転手が焦りの色をみせる。しばらくしてドアが開きアナウンスが鳴った。
「えー発車の方、遅れております。しばらくお待ちください」
数分。ドアが再び閉じようやく電車が動く。
「岡崎くん! 白浜くんを助けて」
開拓と晶子の目の前に現れた日南は唾を飲み込んだ。だから開拓は頷いた。
窓枠に立つクリスピーのローブがはためく。欄干のない鉄橋の下は河口だ。中州には葦が繁り鳥が羽根を休める。青く輝く海はすぐそこで、せめてもの救いだった。




