【1】この世界のはじまり
閉じたカーテンの内側で空気が黒く淀む。PCの画面の灯りに有名ブランドのバッグや腕時計が乱雑に照らされる。弁当の殻やペットボトルに混り散乱するのは、まるでゴミのようだ。そして本の束が積み上げられ埃を被っていた。
一心不乱にデスクトップのキーを叩くのは、ブランドで身を固めたのに薄汚い中年の男だった。溢れる財力は幸せの象徴なのにその顔は怒りに満ちていた。
巷で高い評価を受ける小説は、自分の本の十分の一も売れないものばかりだと中年は憤慨した。奴ら泡沫の作家が社会問題を鋭く抉り取ったとか、人生の美しさ儚さを伝えるとか。評価され作者と作品が影響力を持つことに怒りを露わにした。
一方、この中年の小説に数万集まるネットの高評価は狂信的なファンのものばかりだった。一般の読者からはご都合主義、矛盾の塊、コンプレックスとルサンチマンを抱えた強欲の暴走だと嘲笑されていた。ファンはニートや薄給の底辺ばかりだと。社会保障を掠め取るゴミクズばかりだと蔑まれた。
年金暮らしの親から奪った小銭で小説やファングッズを買い漁り、アニメや映画を無限にリピートして莫大な収入を作者にもたらす読者。彼らが社会の澱だという事実は目を閉じ耳を塞いでも変わらなかった。
――あいつが底辺相手にくだらない本を書いてるゴミクズだ。
――小説どころかあれ文章じゃないよ。
――こんなものが売れるなんて底辺は頭悪いんだな。
――自己満足のために現実を捨てた連中なんて気持ち悪い。
――読者も作者もこっちの世界に来るなよ。
――モラルを破壊する銭ゲバが。
名が売れた故に後ろ指をさされる日々。
「ボクは稀代の天才だ! 社会の歯車で奴隷の鎖自慢ばかりのお前らとは違う」
そう叫び中年は立ち上がった。部屋の中だけでしか響かない言葉だと知っているから、腹立ち紛れに高級ブランドを蹴飛ばし文庫本を掴み取った。本の山は全て中年の著書だった。PCに投げつけると液晶が割れ、悪評が埋め尽くすネット掲示板が乱れた。
「努力なしで手に入る最強の力。無条件で女の子に好かれる主人公。ブラック労働を強要する上級国民を粉砕する爽快感こそが最高なんだ」
それなのに。中年は壊れんばかりにキーを叩き、液晶の向こうの全ての悪意と戦おうと文字の羅列をぶつけていた。
「誰だ」
振り返るとずっと若い、十代と思しき男子がいた。否や中年は男子に飛び掛かり床に組み伏せた。しかし男子は中年を足で蹴り飛ばした。お互いに立ち上がり睨み合う。中年は唾を飛ばし叫んだ。
「お前にボクの何が解る」
「解るよ。積み重ねを捨てたことが。最低のクズだということが」
「それが作者に向かって言うことか」
激昂する中年に男子は冷たく言い放った。
「こんな情けない作者なんていらないよ」
男子が持っていたのは先の尖った鉛筆だった。
「それをなぜお前が」
奪おうとする中年の眼前で男子はメモ帳に鉛筆をはしらせた。
「今からお前を変える。お前の全てを」
襲う中年に男子は書き終えたメモを見せ付けた。途端、二人の間に見えない壁が生まれた。弾き飛ばされる中年。天井も壁も床も砕け視界が真っ白になる。
顔を覆う中年。
目を開くとそこは一面の青空。空の只中だった。優しい顔に戻った男子が青に同化してゆく。納得したように中年もそこから消えていった。