3
寝着を着用し、髪を乾かす。
寝室に入るなり、リーナが彼の入室を許可しても良いか聞いてきた。
予想通り。いつもよりゆっくりめにしたのに、何の抵抗にもならなかったようだ。
私に断る権限はない。リーナに許可する旨を伝え、大人しくベッドサイドに座って待つ。
すぐに私と彼の部屋を繋ぐ扉のノック音が響いた。
私は小さく息を吐いた後、その扉を開こうと立ち上がろうとした瞬間
「ローズ!!」
彼がまた勝手に扉を開けて入室してきた。
そしてベッドサイドに座っている私の前に来て膝を折り、肩を掴んで私の顔を覗き込む。
「どうした?何で泣いていたんだ?」
そう言いながら私の頬に手を当て、目尻の辺りを親指で撫でる。私が泣いていないか確認しているのだろうか。
一方私は突然の連続で、呆気に取られていた。
目は開いたまま、されるがままだ。
彼は散々私の顔をあちこち触った後、泣いていない事に安心したのか、息を吐きながら私の膝に顔を埋めた。
もっとクールな人だと思っていたのに、私が泣いていたくらいでこんなに大騒ぎするなんて。
私は堪らなくなって、目の前にある綺麗な銀の髪に触れた。
柔らかく、まるで動物の様。優しく、優しく撫でる。
だめだ、愛おしい。
私、この人の事が愛おしいわ。
「私が泣いていたのが、そんなに驚きでした?」
「……心臓が止まるかと思った」
「大袈裟すぎます」
彼は心地いいのか、私にされるままだ。
顔の向きを変え、横向きになる。
私はサイドに流れた髪を耳にかけてあげた。
「なぜ泣いていたのか分かりますか?」
「誰かに、ひどい事を言われた?」
「いいえ」
「家に帰りたくなった?」
「いいえ」
「俺の、せい?」
しばしの沈黙。
私はその間も、黙って彼の頭を撫でる。
やがて彼はゆっくりと体を起こした。
深紅の瞳が、私を捉える。
なんて綺麗な瞳なんだろう、と思いながら私は口を開いた。
「…はい」
ぽたり、と涙が頬を伝う。
「あなたに…懇意な女性が、いらっしゃるのではないかと、不安でした」
彼の手が、そっと私に伸びる。
髪をすき込む様に頭を捉えると、優しく引き寄せて私を抱きしめた。
「…不安にさせてごめん」
彼の暖かな体温が私を包む。
心地良くて、気持ちがいい。
一気に涙が流れた。
「君は俺に興味がないと思っていたから、全て終わってから説明しようと思っていたんだ。
君を、驚かせたくて。喜ばせたくて。
でも、こんなんじゃ意味がない。
君を傷つけてしまった。ただの自己満足だった」
体をそっと離す。
彼が親指で私の涙を拭う。
「本当に、ごめん。
君は、俺を愛してくれていたんだね」
本当にこの男という奴は。
衝撃の言葉に、一気に涙が引っ込む。
自分が言う前に、私に認めさせる気か。
確かにそうではあるが…なんだか素直に認めたくない。
私は自分で涙を拭いて、一度落ち着いてから口を開いた。
「…調子に乗らないでください。
あなただって、私を愛しているのでしょう?」
少し睨みながら言うと、彼が薄く笑う。
「そうだよ。
君を愛してる。他の人に目がいく訳ないだろ」
もっと言い淀むかと思ったのに。
意外にあっさり認められて、慌てて話題を変える事にした。
「…私だって、あなたに愛されている事にさっき気付いたんです。
さあ、早く教えて下さい。
私を不安にさせた、あなたの驚かせたかったものとやらを」
「その前に、キスしていい?」
唐突な提案に、顔を顰める。
もしやはぐらかされた?
「…なぜですか?」
「両思いになった記念に」
「…調子に乗らないで」
「あ、喋り方変わった。照れてる?」
「て、照れてません!
それより早く説明を」
「まあまあまあ」
そう言って彼は私の顎をぐいと引き寄せると、半ば強引に唇を合わせた。
嘘でしょ、本当にしてきたこの男!と思って最初は抵抗していたが、何回もしていた筈のキスが、今までと全然違う感覚に気付いて、すぐに翻弄されてしまった。
想いが通じ合ったキスは、こんなに気持ちの良いものなのかと、しばし没頭する。
彼もどんどん深く、激しくなる。
私の寝着に手をかけ、腰の辺りに彼の手が触れる。
思わず声が出た瞬間、彼がぱっと体を離した。
そして急に部屋の隅に行き、壁に頭を打ちつけた。
「な、なにやってるの!?」
またもや丁寧な言葉遣いも忘れて、慌てて彼に駆け寄る。
彼は小さく何かを呟いていた。
“だから我慢してたのに”、そう聞こえる気がする。
そして私の方へ突然向いたかと思うと、
「取り乱しちゃってごめん。
大人しく説明するよ。戻ろう」
と言って私をベッドの方へエスコートする。
もしかしてこの人、かなりおかしな人?
私、先走りすぎた?と、一抹の不安を抱えながら再びベッドサイドに座った。
「ふーー…いやあ、危なかった。
こんなに気持ちの良いものだとは」
「…あの、あなた先程から何を言ってらっしゃるの?」
突然の奇行を未だに受け入れられない私は、早急に説明を求める。
なぜこの説明だけは、言い淀んでいるのだろう。
「君の事を避けてた理由は、ただ一つ」
思わず、生唾を飲み込む。
「君に手を出さないためだよ」
「…はい?」
むしろ手を出さなければいけない期間なのに?
やっぱりこの人、何を考えているのか分からない。
頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになる中、彼は説明を続ける。
「君に、仕事を見つけてきたんだ」
そういえば、と思い出す。
湯浴み中に乱入してきた第一声がそれだった。
「私に、仕事ですか?」
「そうだよ。
君にとってここの暮らしは退屈だろうと思って。
もっと楽しく過ごしてもらうために、いろいろな情報を集めて見つけてきた」
驚いた。
彼が私のために動いてくれていたなんて。
「君のセンスを、うちの母がとても絶賛していたのを思い出してね。
君はお家柄、色々な品を見て目も肥えてる。
そこでとある衣装屋に、卸屋と取引をする際にちゃんと目利きができる人材が欲しくはないかと聞いたら、ぜひお願いしたいと言ってくれてね」
「それを、私に、と?」
「そうだよ。面白そうだろう?」
確かに、家の事業を手伝っていた際、父の取引現場は何度も見ていたし、私も真似事の様な事もしていた。
それがもう一度出来る事、しかも今度は父の監視下ではなく、私自身が責任を持って請け負うという事だ。
話を聞くだけでもワクワクする。
ぜひやりたい。しかし。
「良い、のでしょうか?
由緒ある公爵家なのに、妻が自ら働くなんて…」
「もちろんだよ。
父も母も納得してる」
「お義父様とお義母さまも…?」
「君のおかげだよ。
君が父と母の信頼を大いに得てくれてたおかげで、二つ返事でOKしてくれた」
「まあ…」
確かに、お二人とも私に優しくしてくれて、気に入ってくださっているとは思っていたけど、ここまでとは。
お二人に、近い内に絶対会いに行こう。
「どう?こんな話、断る筈もないと思うけど」
「…ええ、喜んでお受けします。
ありがとうございます。あなた」
その衣装屋は、この3日後には取引を控えているらしく、明日にでもきて欲しいとの事。
突然で驚きだが、せっかく彼が見つけてきてくれたのだ。頑張らなくては。
「…なるほど。
だからあなたは、私に手を出してはならないと、思われたのですね」
今子どもが出来てしまうと、せっかく見つけたのにすぐに働けなくなってしまう。
それで、さっきその雰囲気になった瞬間、頭を打ち付けて己を律していた様だった。
意味は分かったが、やはり奇行は奇行だ。
本当に驚いた。
「そうだよ。
ちなみにその衣装屋は女性が多いから、子育てしながら働いている人がほとんどなんだ。
だから出産した後も働けるから安心して。
でも、さすがに働いてすぐなのは申し訳なかったから、仕事が終わった後に飲み屋で時間を潰して、帰ってた、という訳」
全ての真相を知って、やっと心が楽になった。
しかもまさかの働かせて貰える事にまでなって、明日から楽しみだ。
「こうやって君を驚かせて喜ばせて、どんどんアプローチしていくつもりだったのにな。
まさかもう両思いになっていたとは、想定外だったよ」
ぽっと頬が熱くなる。
さりげなく話を元に戻された。
「わ、私はまだ何も言ってません」
「ふ〜ん?さっきあんなに夢中になってたのに?」
「…だって、今言ってしまったら、あなた我慢出来ます?」
「…無理かも」
即答で返ってきて、思わず吹き出してしまった。
いつの間に、この人は私の事がこんなにも好きだったんだろう。
「もう一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ?」
「いつから、私の事を…?」
「自分は言わないくせに、人の事ばかり聞いてくるんだな。卑怯者め」
「…教えてくれたら、言います」
疑いの目でこちらをちらりと見た後、彼は諦めた様にため息を吐いた。
「今考えたら、最初からかな。
前も言ったろう?俺に全然興味がない女の子なんて初めてだって」
そういえばそうだったと、あの突然彼に話しかけられた場面を思い出す。
あの時は本当に彼の事が苦手だったなと、そんなに遠い過去でもないのに、懐かしく思う。
「むしろ明らかに警戒してて、面白いなって思ったのが君に興味を持ったきっかけかな」
「…おかしな人ですね」
「そう?まあよく言われるけど。
あとは、正直商家の娘さんって紹介された時、高飛車な子が来るのかなって思ってたら、洗練されたドレスを着た美しい女性が立っていたから驚いたよ。
君、本当に努力したんだね」
まさかの褒め言葉に、少し涙腺が緩む。
上流階級に馴染みたくて、私なりに努力していたからだ。それが無駄じゃなかったと知って嬉しくなる。
「だからあんなにじろじろと見てきたのですね?」
「そんな事してた?
ああ、だから君に嫌われてしまったんだな〜。
そうだ。今一度聞くけど、君、俺のこと嫌いだったでしょ?」
「…嫌い、というか苦手、でした。
全てを見透かす様な目で、私の付け焼き刃のマナーや身のこなしを馬鹿にされている様な気がして…」
「ひどいなあ。そんな事一度も思った事ないのに。
むしろよくやってるなって感心してるよ」
彼の言葉で胸がじん、と熱くなる。
私は、少し自分を卑下しすぎるのかもしれない。
彼も、彼のご両親も私を認めてくれているのだ。
もういい加減、家の出自にこだわるのはやめよう。
1番囚われているのは、私自身だ。
「まあそういう訳で、君が予想以上に完璧だったものだから、つい揶揄ってみたくなったのさ。
そうしたらどんどん君の新しい一面が見られて、俺は楽しくなった。
そして、君を怒らせてしまった」
「あの夕食の事ですか」
「そう。君に大嫌い、と言われた時、まるで崖に落とされた気分だったよ。
すごく後悔して、気付いた。
君が好きなんだって」
いきなり最後の部分で目を合わせられて、ドキッとする。
慌てて目を逸らすと、彼が薄く笑った気がした。
「それで?君は?いつから俺の事を?」
「…さっきです」
「はい?」
「あなたの、頭を撫でてる時に、愛おしいな、って…」
しどろもどろになりながら答える。
「おいおい嘘だろ。
本当にさっきすぎるじゃないか」
「あなたが不安にさせるからです!
むしろ先程乱入してきた時、一発殴ってやろうかと思いました!」
「物騒な事を言うなあ。
そういえば久しぶりに裸見たけど、何だか胸大きくなった?」
「…〜あなたって人は!」
もうこれは一発殴ってやろうと思って手を振りかざしたが、その手は止められ引っ張られ、また唇を塞がれていた。
何度か啄まれ、最後にチュッとリップ音を立てて離れる。
「今、本当に殴ろうとした?」
「…殴らせる様な事を言うからです」
「やっぱり君を揶揄うのは楽しいよ。
こんな俺の事、嫌い?好き?」
少し囁く様に言う声が、何ともいやらしい。
早く吐いてしまえと、追い詰められている気分だ。
そうだ、私はとっくに追い詰められてる。
「揶揄うあなたは嫌いだけど、子どもみたいに甘えるあなたは…好き」
「…ま、君にしては上出来かな。
ご褒美あげなきゃね」
そう言って、また深く激しいキスが始まった。
気持ちが良い。脳が痺れる、そんな感覚だ。
私もついつい彼の首に手を回して、精一杯応えた。
こうなってくると、もっと欲しくなってしまう。
「…本当に、我慢、するの?」
私の言葉を聞いて、彼はまたぱっと体を離した。
「今、自分が何言ってるか理解してる?」
「…ええ。
でも、リーナが、そろそろと言った時期からはもう大分経っているし…その、両思い、記念に…」
「…はあ〜〜〜〜」
しばしの長いため息の後、彼が突然上の服を勢いよく脱いだ。
いきなりの裸体に思わず目を覆う。
「せっかくの君からの誘いを断るなんて、出来ないしね」
「っ!さ、誘ってなんか!」
「まあまあまあ」
またそうやって宥める様に言いながら、私をベッドに押し倒す。
「君の言葉を信じるよ?
まあ運良く出来ちゃっても、俺が何とかする。
両思い記念、だもんね」
「…うん」
彼の手が、私の寝着の中に入り込む。
私はキスよりももっと、気持ちいい事を知った。
結局その日、燃え上がってしまった私達は少々緊張していたが、私の予想通り時期がずれていた様で妊娠はしなかった。
残念な様な、何だか複雑な気持ち。
今までと違って、やっぱり愛する人の子どもを、この手に抱きたいと思うから。
そして私は無事?デールメイル衣装屋で働く事となった。
従業員の皆もいい人達ばかりで、毎日が楽しい。
今の所、私の目利きも役に立っている様で、私の交渉でずっと渋って値段を変えなかった業者から、安く仕入れる事が出来た時は、みんなでハイタッチして喜んだ。
ただ一つ、不満があるとしたら
「ローズマリー!旦那様のお迎えよ〜!」
今日の仕入れ分を書類にまとめていると、階下にいる同僚の声が響く。
「きたきた!もうあがっていいから、早く行ってあげて」
「今日もお熱いわね、ローズマリー」
「…揶揄わないで」
色んな同僚に囃し立てられながら階下に行くと、満面の笑みの我が夫が立っていた。
「それでは皆様、ご機嫌麗しゅう」
そして私の肩を抱いて、店を後にする。
「…みんなに揶揄われますから、毎日はおやめ下さいと言いましたよね?」
「うん。だから、明日はやめとくよ」
そう言って早出と残業以外の日は、結局毎日私を送り迎えするため、すっかりみんなからお熱い認定されてしまった。
ちなみに自分が行けない時は、リーナを寄越す徹底ぶり。
「どこの馬の骨に持っていかれるか心配だからさ」
「これだけアピールしていたら、そんな度胸のある馬の骨はいませんよ」
そう言いながらも、こうして毎日彼と歩くのは実は楽しい。
一体私はいつになったら素直になれるだろう。
すると突然、何かにぐいと引っ張られた。
何事かと驚愕していたら、頬に何か柔らかい物が触れる。それが何か理解するのに数秒を要した。
その引っ張られた方を見ると、予想通り笑顔の彼が。
この人!頬にキスした!
公衆の面前で!信じられない!!
「じゃあ、もっとアピールしないとね?」
「…〜〜〜っ!」
私が素直になれるのは、まだまだ先の様だ。
最後まで読んでいただきありがとうございました!