「おいしい鉄の作り方・たたら編」―和鋼博物館(島根県)
島根県安来市は、東西に長い島根県の東端に位置します。『出雲国風土記』によると、須佐之男命がこの地を訪れた際「吾が御心は安平けくなりぬ」と仰ったことから、安来の地名が付いたとされています。
同市内には出雲地方に特徴的な四隅突出型墳丘墓が存在し、東部出雲王朝があったと考えられています。『古事記』『日本書紀』で伊弉冉尊が葬られた御陵・比婆山があり、戦国時代の尼子氏の山城・月山富田城や、日本庭園と横山大観コレクションで有名な足立美術館があります。
和鋼博物館は、中海に面した安来港の西岸に建つ、日本唯一の「たたら」総合博物館です。隣には、高級特殊鋼ヤスキハガネを生産している日立金属(株)安来工場があります。
カーナビに従い安来市役所の前を通って港へ向かうと、特徴的な屋根が見えてきます。ジブリ映画『もののけ姫』で登場した「タタラ場」のモデルとなった、高殿をイメージした博物館の建物です。駐車場入り口には、巨大な鋼鉄の塊=D51機関車が…( ゜д゜) 博物館へ入る道のかたわらには、赤く錆びた鉄の塊(鉧)が、どーん!どどーん!と置かれています。
和鋼博物館・外観
D51機関車
巨大な鉧の塊…
博物館自体は、刃物市などのモヨウシがない限り(山陰の観光施設のご多聞にもれず)たいてい閑散としているのですがね(^◇^;)
ガラス張りのエントランスに入ると、高さ三メートルはある天秤吹子に遭遇します。ここではりきって踏んでいると、後の展示を拝見する体力がなくなります……(ダメぢゃん orz)。
天秤吹子(鞴)
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弥生時代、本邦では主として朝鮮半島南部でつくられた銑鉄を輸入し、道具に加工して使っていました。弥生時代後期になると国内でも製鉄が開始され、古墳時代に入った六世紀から各地で盛んに作られるようになりました。原料は輸入した銑鉄や国内産の鉄鉱石、褐鉄鉱(湿原や沼沢に生えた葦・茅などの根元に水中の鉄分が沈殿し、鉄バクテリアの作用で水酸化鉄の塊となったもの)を利用していましたが、次第に砂鉄中心となりました。
和鋼博物館は、弥生時代後期~明治時代初頭まで中国地方で行われた「たたら製鉄法」に関する展示を行っています。
「たたら」の語源には諸説あり、製鉄を発明したヒッタイトから技術を伝えたトルコ系部族「タタール」に由来するなどと言われますが、よく分っていません。『日本書紀』(七二〇年成立)に『踏鞴』という表記があり、皮製の踏みふいごを示したようです。江戸時代には『鑪』や『高殿』と記述し、鉄の原料を溶かす炉や、炉を含む施設全体を示していました。現代では製鉄技術そのものを指しています。
「たたら製鉄法」の原料は砂鉄と木炭です。砂鉄には磁鉄鉱を多く含む真砂砂鉄と、チタン鉄鉱を含む赤目砂鉄があります。真砂砂鉄は融点が高く、鉧を作る「鉧押し法」に向き、赤目砂鉄は融点が低く、銑を作る「銑押し法」に向いています。
「鉧押し法」は砂鉄から直接鋼を製造しますが、銑や製錬が不完全な歩鉧もできてしまいます。「銑押し法」は銑鉄を製造し、歩鉧とともに大鍛冶場で脱炭素・鍛錬して左下鉄や包丁鉄(割鉄・錬鉄ともいう)をつくります。
ところで、私はさっきから簡単に「銑鉄」だの「和鋼」だのと書いていますが、ちゃんと定義があります。
鉄は、含まれる炭素Cの量によって性質が変化します。冶金学では炭素量0.02%以下を「鉄」、1.7%以上を「銑鉄」、その中間を「鋼」と呼びます。炭素をほとんど含まない準鉄は柔らかく、日常の道具には適しません。銑鉄は溶けやすく鋳造しやすいので、一部は鋳物になります。
炭素量1.0〜1.5%の1級玉鋼は日本刀の原料です。一回のたたら操業で得られる鉧は約二. 五トン。うち二分の一〜三分の一が玉鋼で、全国の刀匠二五〇人に分与されています。2級玉鋼は炭素量約0.5〜1.2%、左下鉄は約0.7%、包丁鉄は約0.1%で、他の道具に加工されます。
和鋼博物館展示・鉧の構造
伝統的なたたら製鉄法で得られる鉄産物を、西洋式製鉄法に対し「和鉄」と呼ぶことがあります。銑を「和銑」、玉鋼と左下鉄を「和鋼」と呼び、包丁鉄を「和鉄」と呼ぶ場合もあります。
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中国山地、特に出雲地方では良質な真砂砂鉄が採れ、江戸時代後半には国内の鉄鋼の約八割を生産していました。山で鉄穴流しによって採れる砂鉄を山砂鉄、川に流れ出たものを川砂鉄、海まで流され浜辺に堆積したものを浜砂鉄と呼びます。鋼を造るには山砂鉄の品質が最良で、川砂鉄はそれに継ぎ、浜砂鉄は不純物が多いためあまり使われませんでした。
砂鉄を多く含む(0.5~2.0%)花崗岩の採石場を鉄穴場と言います。山を崩して土砂を水路(井出)に流し、大池→中池→乙池→樋の順で洗い池へ流し、比重の差を利用して砂鉄を集める方法が「鉄穴流し」です。農業用水を汚さないよう冬場の農閑期に行われました。危険を伴う過酷な作業で、土砂の下敷きになる者も多く、犠牲者を弔う石碑が各地に建っています。鉄穴流しの行われた場所は、のちに美しい棚田となりました。
たたら製鉄では、炉のなかに砂鉄と炭を交互に入れて鉄を還元させます。一回のたたら操業で必要な炭の量は一〇〜一三トン、森林面積で一ヘクタールほどです。ナラ、クヌギなどの樹齢三〇〜五〇年程度の雑木を、完全に炭化しない程度に焼いて使いました。江戸時代後期には年間六〇回ほど操業したため、たたら一箇所当たり一八〇〇〜三〇〇〇ヘクタールの森林が必要でした。
江戸時代、松江藩から保護をうけた鉄山師御三家は、広大な山林を所有し管理していました。
築炉は、もっとも重要な作業です。「一釜、二土、三村下」と言い、鋼づくりの成否は第一に釜づくり、第二に土の選定、第三に村下(総監督)にかかっているという意味です。実際は釜づくりと土の選定も村下の判断ですので、村下の技術が第一と言えます。
湿気を防ぎ熱を逃がさない特殊な構造の炉は、十五世紀頃から造られ、十八世紀に現在の形となりました。本床と小舟(地下構造)を造り、本床の甲(天井)をたたき締め、真砂土と粘土を練った土で元釜という土台部分を築き、その上に中釜・上釜を築きます。長さ三メートル、幅一メートル、高さ一. 二メートル、壁の厚さは下ほど厚く四〇センチメートル程になります。この炉と天秤吹子をつなぐ四十本の総風管の挿す位置と角度に、微妙な調節が必要です。
和鋼博物館・築炉のジオラマ
古代の製鉄では、風通しのよい山の中腹などに小型の炉を設置し、自然風を利用していました。炉が大きくなるにつれ、炉の温度を上げるための装置が必要になり、吹子が発明されました。
『日本書紀』に天羽鞴という皮袋の吹子が登場するのが、最古の記録です。「天香山の金を採り、日矛を作るのに、真名鹿の皮を全剥にして作った」と書かれています。
『倭名類聚抄』(九三四年)では皮鞴を吹子とし、踏鞴を「たたら」としています。十二世紀の『東大寺再興絵巻』には、大仏鋳造の銅を溶かすために踏吹子を使ったと書かれています。『日本山海名物図絵』(一七五四年)鉄たたらの図では、六人の番子(労働者)が吹子を踏む様子が描かれています(映画『もののけ姫』のタタラ場で女性たちが踏んでいたものと同じです。あの作品の時代設定が分かりますね)。「たたらを踏む」という表現は踏吹子から産まれました。
大きな木から真っすぐな板を削り出す大鋸や台鉋が渡来した鎌倉時代中期以降、箱型の吹差吹子が普及しました。大きさに制限があり、たたらで使うには、炉の左右に何挺も並べる必要がありました。
出雲地方の記録では、天秤吹子の考案は元禄四年(一六九一年)とされています。一人踏と二人踏があり、明治期にほぼ一人踏となりました。炉の左右に二台接続すればよく、番子を省力できました。二人の番子が交代で踏むことから「替わり番子」の語が産まれたと言われています。明治時代に水車吹子が現れるまで使われていました。
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和鋼博物館には、前述した天秤吹子、安来市荒島町の大成古墳(四世紀)から出土した『素環頭大刀』を復元した古代大刀(現物は東京国立博物館蔵。日刀保たたら製鋼より鍛造、刀匠:河内國平氏)、映画『もののけ姫』に登場した高殿模型のほか、「鉄穴流し」で使われた民具(柾鍬、打鍬、洗鍬、えぶり)、砂鉄の運搬用具(こがねおいこ、こがねます)、炉炭を運んだ「炭だち」(茅で編んだ籠)、実物大のたたら炉の模型と築炉道具(土鍬、かまがい、土刀)などが展示されています。これら二五〇点以上の民具は、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
たたら操業の様子、日本刀鍛造の動画などが上映されていて、日本刀を持つことも出来ます。
和鋼博物館・高殿模型
和鋼博物館の南方、島根県奥出雲町大呂に(財)日本美術刀剣保存協会が一九七七年に復元した「日刀保たたら」があります。日本で唯一のたたら操業を毎年一~二月に三代(一回の操業を「一代」と呼びます)行い、計六~七トンの玉鋼を生産しています。
「鉧押し法」は三昼夜、七十時間におよぶ作業です。出雲地方では工程を「こもり」(約七. 五時間)→「こもり次」(約七. 五時間)→「のぼり」(約十八時間)→「くだり」(約三六時間)と呼んでいます。こもり期は炉内の温度が低いため、還元しやすく溶けやすい砂鉄(こもり砂鉄)を入れます。その後、砂鉄と木炭を三十分おきに炉に入れ、ノロ(鉄滓)を出しながら徐々に砂鉄の量を増やし、炉内の温度を上げていきます。七十時間たつと炉底いっぱいに約二. 五トンの鉧ができあがります。終盤には炉内の側壁も溶損して薄くなり、村下の判断で作業を終了します。
炉外へ取り出した鉧は、鉄池にいれて急冷する方法(水鋼)と、土の上に置いて自然に冷却する方法(火鋼)がありました。島根県西部の石見国出羽では水冷式が行われ、「出羽鋼」と呼ばれました。播州千種(兵庫県宍粟市)の火鋼と並ぶブランドでした。冷却した鉧は「どう場」という作業場で割られ、鋼造場で仕上げ選別を行い出荷しました。
「銑押し法」は、「鉧押し法」と作業工程はそう変わりませんが、送風管をつなぐホド穴の傾斜角を二十六度と大きくし、炉内全体の温度を上げていきます。操業日数も四日と長く、「籠り」(初日~二日目朝)→「明け押し」(~二日目夜半)→「降り」(~釜だし)と称しました。籠り期は二時間毎、明け押し期は三時間毎、降り期は四時間毎に銑を炉外へ流し出し、砂鉄の総入量十八トンから銑鉄四. 五トン、鉧〇. 三三七トンが得られたそうです。
一五〇〇度を超える炉内をホド穴から覗きこみ、炎の色や高さを見据えながらノロを出す量を調節し、砂鉄の焼ける音を聞いて工程を決める村下の技は、現在も継承されています。
(財)日本美術刀剣保存協会より寄贈・玉鋼(三級~特級)
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和鋼博物館の入館料は、中学生以下は無料、高校生210円(団体150円)、一般310円(団体260円)です。『金屋子神話民俗館』との共通券なら、中学生以下は無料、高校生310円、一般520円です。水曜日は休館です。
館内には図書室とレストランがあり、ヤスキハガネの包丁、砥石などを販売する売店もあります。
和鋼博物館|鉄の歴史ミュージアム HP:http://www.wakou-museum.gr.jp/#home
参考図書:
「和鋼博物館へのご案内」和鋼博物館・編集 / 発行
「和鋼スポット解説 No.1~No.11」和鋼博物館・編集
「鉄のまほろば―山陰 たたらの里を訪ねて」山陰中央新報社・編 / 発行
「出雲国風土記(全訳注)」荻原 千鶴(講談社学術文庫)
「日本海を望む「倭の国邑」―妻木晩田遺跡」濵田 竜彦(新泉社)
「出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」渡辺 貞幸(新泉社)
「邪馬台国時代のクニの都―吉野ヶ里遺跡」七田 忠昭(新泉社)
「弥生時代の歴史」藤尾 慎一郎(講談社現代新書)
「古代の鉄と神々」真弓 常忠(ちくま学芸文庫)
「人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理」永田 和宏(講談社ブルーバックス)