「うかつに庭を掘れません」―荒神谷遺跡(島根県)
一九八四年、島根県出雲市斐川町神庭荒神谷で発見された遺跡です。
案内して下さったボランティアガイドのおじさんのお話によりますと、一九八三年、農道を建設するために下調べをしていたところ、田んぼの畔から土器の破片(古墳時代の須恵器)がみつかりました。さらに調査すると、翌年、谷あいの斜面から埋納された銅剣が三五八本出土しました。それまでの国内出土総数(三百本)をはるかに上まわる本数です。
遺跡の南側に『三宝荒神』が祀られていることから、荒神谷遺跡と命名されました。
「うかつに庭先を掘れないんですわ」と、おじさん。「出雲は、何が出て来るか分かりませんからなあ……」
一九八五年、銅剣発掘地点からわずか七メートル離れた場所から、銅鐸六個と銅矛十六本が出土しました。こちらも銅鐸と銅矛が同時に埋納された初めての発見例となりました。
荒神谷博物館前から――何故か車止めは銅鐸型――古代ハスの咲く池を右手に観ながら小道を進み、左手の山の斜面に銅剣の出土した場所があります。発掘当時の状況が保存展示されていますが、標高約二十二メートルの急斜面に腹這いになって作業しておられたそうです。
なぜか車止めは銅鐸型…
発掘現場
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『出雲国風土記』には、四つのカンナビ山が書かれています。意宇郡の神名樋山、秋鹿郡の神名火山、楯縫郡の神名樋山、出雲郡の神名火山(現在の仏教山)です。
神が山に宿るという観念は普遍的で、カンナビ、ミムロ山と称される山は全国各地にあります。しかし上述の四山は宍道湖を囲む位置関係になっていて、出雲国を護る意図で設定されたもようです。
出雲郡の神名火山は、杵築大社(当時の出雲大社)からは出雲大川(斐伊川)をさかのぼった先にあります。この山の中腹には伎比佐加美高日子命の石神という高さ約八メートル、周囲約三十メートルの巨大な「伎比佐の大岩」=磐座が存在しています。
伎比佐加美高日子命は、『古事記』垂仁天皇段の本牟智和気御子伝承で出雲大社を祀っていた「出雲国造の祖、伎比佐都美」、或いは出雲国造系図に登場する来日羅積だと推定されています。『日本書紀』には登場していません。
本牟智和気御子の母、沙本毘売には、兄・沙本毘古との道ならぬ恋の物語があります(『古事記』より概略)。
*沙本毘古と沙本毘売
垂仁天皇が沙本毘売を皇后としていた頃、沙本毘売の同腹の兄・沙本毘古が、妹に「夫の天皇と兄の自分とでは、どちらを愛しく思うか」と訊ねたので、沙本毘売は「兄上を愛しく思います」と答えた。すると沙本毘古王は謀反を企て、「あなたが本当に私を愛しく思うなら、ともに天下を治めよう」と、紐小刀を妹に与え、「この短刀で、寝ておられる天皇を刺し殺しなさい」と言った。
兄妹の陰謀をご存知ない天皇は、皇后の御膝を枕にお寝みになった。
皇后は紐小刀で天皇のお頸を刺そうと三度も振り上げたが、悲しさに耐えきれず刺すことができず、涙が天皇のお顔に落ちた。目覚めた天皇は、「今、私は変な夢を見た。佐保(奈良市)の方から俄雨が降ってきて、私の頬をぬらした。また、錦色の小蛇が私の首に巻きついた。何のしるしだろうか」と皇后にお訊ねになった。
とても隠しきれまいと思った皇后は、兄との遣り取りと陰謀を天皇に打ち明けた。
天皇は軍勢を出して沙本毘古王の討伐に向かい、沙本毘古王は稲城を作って待ち受けた。沙本毘売は兄を想う情に耐えかね、こっそり裏門から逃げて稲城に入った。このとき皇后は懐妊しており、また寵愛が三年に及んでいたことから、天皇は攻めあぐね、軍勢に稲城を包囲させた。こうして戦いが停滞している間に、御子がお生まれになった。
皇后は御子を城外へ示し、「この御子を天皇の御子と思召すなら、引き取ってお育て下さい」と申し上げた。天皇は「そなたの兄を恨んでいるが、皇后を愛しく思うこころは耐えがたい」と仰せられ、兵士の中で力が強く敏捷な者たちを集め、「御子を引き取るときに、同時に母君も奪い取りなさい」と命じられた。
ところが皇后は、前もって髪を剃ってその髪で頭を覆い、玉の緒を腐らせたものを三重に手に巻き、酒で腐らせた衣を身に着けた。そして御子を抱いて稲城の外へ出た。
兵士たちは御子を受け取ると、母君を捕えようとした。しかし、髪を握ると髪は抜け落ち、手を取ると手に巻いた玉の緒が切れ、衣を握ると衣は破れてしまった。こうして御子は受け取れたが、母君は捕らえられなかった。天皇は悔しさと恨めしさのあまり、玉作りの人々の土地を取り上げてしまわれた。
天皇が皇后に「子の名前は母親がつけるものだ。この子を何と名づけたらよかろう」と問うと、皇后は「火が稲城を焼くときに火の中でお生まれになりましたので、本牟智和気御子と名づけましょう」と申し上げた。
かくして天皇は沙本毘古王を討ち、沙本毘売も兄に従って亡くなった。
垂仁天皇は本牟智和気御子を大切に育てたが、御子は成人しても口がきけなかった。あるとき空を飛ぶ白鳥の鳴き声を聞いて、初めて片言を仰った。
垂仁天皇の夢に出雲の大神が顕われ、「私の神殿を天皇の宮殿のようにお造りになるならば、御子は必ずものを言えるようになるであろう」と仰ったので、本牟智和気御子は出雲の大神を参拝し、喋れるようになった。――このとき御子に拝謁したのが、前述の伎比佐都美です。
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荒神谷遺跡は、出雲郡の神名火山の北東、前ページでご紹介した加茂岩倉遺跡からはわずか三. 四キロメートルしか離れていない場所にあります。
三五八本の銅剣は、四列に整然と並び刃を立てた状態で出土しました。弥生時代中期の中細形とされる銅剣です。長さは約五十センチメートル、重さは一本当たり約五百グラム。全て同じ形で、三五八本のうち三四四本には茎(柄に挿しこんで固定する部分)の中心に鏨状の工具を使って打ち込んだ「✕」印が描かれています。同じ「✕」の記号は、加茂岩倉遺跡から発掘された三十九個の銅鐸のうち、十四個の外鐸の鈕の頂きにも刻まれていました。
「✕」印は、所有者や製作者のマークだという説や、霊力を封じ込める呪いという説があります。柄に挿しこまれて見えない茎や紐をつけて提げる鈕にあることから、呪術的な意味だと考えられます。
この銅剣は「出雲式銅剣」と名付けられました。
銅剣は弥生時代前期(紀元前二世紀)に朝鮮半島から武器として伝わったものが、日本に入ってからは主に祭祀用として発展したものです。
荒神谷銅剣の茎は三センチメートルほどと刀身に比べて短く、柄に固定するのは心もとない印象です。しかし、九州北部の遺跡から出土する細形銅剣(刀身約三十センチメートル前後、茎長は二センチメートル程度)には、人骨に刺さって折れた切っ先や研ぎべりしているものがあることから、日本刀のように「なで切る」武器ではなく刺突用短兵だったため、茎は短くても構わなかったと考えられます。柄に固定するための孔(関部双孔)が開けられているものがあり、荒神谷銅剣では二口あります。
松江市南部の低丘陵地には環濠をめぐらせた田和山遺跡があり、物見櫓や石礫、石鏃、磨製石剣が出土しています。また出雲平野中央部の姫原西遺跡からは、弩や丹塗りの弓や盾、木製の武器などが出土していますが、いずれも戦死者を含む墳墓などは確認されていません。
荒神谷遺跡周辺には戦闘の痕跡は発見されておらず、銅剣は戦闘用ではなかったと推定されています。
翌年に発見された銅鐸の中には、長年「カネ」として鳴らされ、内側の突帯がすり減っているものがありました。同時に出土した十六本の銅矛は全て内部に鋳型の土が入ったままの状態で、武器として使われた痕跡はありません。
まとめて出土したにも関わらず、銅鐸と銅矛の制作年代には百年以上ひらきがあり、使いこんだ銅鐸と作られて間もない銅矛を一緒に埋納したようです。
このように大量の青銅器が埋納されていた理由については、隠匿説(水野祐氏、門脇禎二氏ほか)、地鎮祭説(原島礼二氏、関和彦氏ほか)、境界埋納説(大林太良氏、寺沢薫氏ほか)、土中保管説(佐原真氏)など、さまざまな説があります。当時の集落から離れた山の斜面に埋められていたため、祖霊を祀る目的だったのでは、などとも推測されていますが、結論は出ていません。
一九九八年、島根県荒神谷遺跡出土品は、一括して国宝に指定されました。現在は島根県立古代出雲歴史博物館に保管・展示されています。
遺跡は史跡公園として整備され、荒神谷遺跡博物館では、発掘状況を解説する動画の上映や、弥生時代の暮らしを説明する展示、企画展やミュージアムショップが充実しています。
出土した青銅器は青緑色に錆びていますが、復元された銅剣は、黄金さながらの「きんきらきん★」です。それが、ずらーーーっ! と三五八本、ケースに並んでいるさまは壮観です。是非、島根県立古代出雲歴史博物館でご覧下さい。
荒神谷博物館・史跡公園 HP:http://www.kojindani.jp/
島根県立古代出雲歴史博物館 HP:https://www.izm.ed.jp/#
出雲観光協会公式ホームページ「荒神谷遺跡」https://www.izumo-kankou.gr.jp/special/1696
参考図書:
「出雲国風土記(全訳注)」荻原 千鶴(講談社学術文庫)
「古事記(全訳注)」次田 真幸(講談社学術文庫)
「解説 出雲国風土記」島根県古代文化センター・編(今井出版)
「出雲国風土記紀行」島根県古代文化センター・編(山陰中央新報社)
「銅鐸の中の動物たち」荒神谷博物館・編(報光社)
「祀×戦―荒神谷銅剣」荒神谷博物館・編(谷口印刷)