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世界のかけらを集めて  作者: 石燈 梓(Azurite)
Ⅰ.遺跡・史跡探訪編
2/15

「誰だ? ポリバケツを埋めたのは」―加茂岩倉遺跡(島根県)



 一九九六年十月十四日、島根県雲南(うんなん)加茂(かも)町大字岩倉(いわくら)の山中で、農道を造るために重機を運転していた地元の男性が、捨てた土のなかに青い物があるのを発見しました。辺りには似たようなものがゴロゴロ……「ポリバケツかな?」と思ったそうです。

 作業を中断してよく観ると、近くの荒神谷(こうじんだに)遺跡でみた銅鐸(どうたく)に似たものが……。これは大変だ! と教育委員会に連絡をいれたときには、まだどれくらいの数の銅鐸が出土したのか、分っていませんでした。


 最終的に、入れ子式に埋められていた大小の銅鐸が三十九個発見され、二〇〇八年、国宝に指定されました。「バケツだと思ったら国宝だった」というわけですね。ところで、銅鐸のうちのいくつかは、発見時に重機によって破損したままです……(あわわわ・冷や汗)。


     ◇


 島根県出雲市は、東西に長い島根県の東方、宍道湖(しんじこ)を囲む島根半島の西に位置しています。出雲大社(いずものおおやしろ)で有名です。


 『出雲国(いずものくに)風土記』は、天平(てんぴょう)五年(七三三年)に成立した、ほぼ完本(・・・・)として現存する唯一の「風土記」です。和銅六年(七一三年)に編纂が命じられ、常陸(ひたち)・出雲・播磨・豊後(ぶんご)・肥前の五ヶ国のものが現存していますが、全国各地の「風土記」が部分的に他書に引用される形(逸文(いつぶん))で残っています。『出雲国風土記』も天平時代の現物が残っているわけではなく、書写年代が明らかな『細川家本』(慶長二年)、『倉野家本』、『日御碕神社本』(寛永一一年、尾張藩主徳川義直により奉納)、『蓬左文庫本』(尾張藩蔵書)など、百五十以上の写本が知られています。


 その『出雲国風土記』によると、出雲国には約四百の神社があり、大国主神(大己貴(おおなむじ)神)眷属の神々が百八十(いま)すということになっています。地名の由来を説明するのが「風土記」の役割の一つですが、出雲国の地名はほぼ全てこれらの神々に由来しており、天皇由来のものがないことは特徴的です。

 出雲独自の神話として「国引き神話」が採録されています。



*出雲国「国引き神話」

 須佐男命(すさのおのみこと)から大国主神へ至る系譜の中に、八束水臣津野命やつかみずおみづぬののみことという神がおられた。この神は、「八雲立つ出雲の国は、幅の狭い布のように幼い国だなあ。初めの国を小さく作ったな。それでは作って縫いつけることにしよう」と仰り、拷衾(たくぶすま)志羅紀(しらぎ)の三埼をながめると余った土地がある。そこで童女の胸のような(すき)で切り分け、綱をかけて「国よ来い、国よ来い」と引き寄せた。こうして縫いつけた国が八穂(やほ)(しね)杵築(きづき)の御埼で、つなぎとめた杭を立てたのが佐比売(さひめ)山(現在の三瓶山)、引いた綱が薗の長浜である。

 同様に、北の門の佐伎(さき)国と良波(えなみ)国にも土地の余りがあった。そこから土地を切り分けてたぐり寄せ、縫いつけてそれぞれ狭田(さだ)国と闇見(くらみ)国とした。さらに、高志(こし)都都(つつ)の三埼から余った土地を切り分け綱をかけて引き寄せ、縫いつけて美保(みほ)の埼(現在の美保関)とし、つなぎとめた杭を立てたのが伯耆(ほうき)の国の火神(ひのかみ)岳(大山だいせん)であり、引いた綱が夜見嶋(よみのしま)(弓ヶ浜)である。

 こうして国引きを終えた八束水臣津野命は、意宇杜(おうのもり)に杖を立てて「おう」と仰ったので、この地名を意宇という。

 

 ――『出雲国風土記』では、出雲という国号の由来である「八雲立つ」と述べたのも、島根と名付けたのも、八束水臣津野命ということになっています。一方、『古事記』では須佐之男命とされています。

 島根県東部~鳥取県の大山周辺の地図を観ながら「国引き神話」を読むと、その壮大さと地理的な関係に感嘆します。


 このように『出雲国風土記』には、神話に基づく神社や地名が多く比定されていて、興味深いです。


*黄泉の国へ通じるとされる「黄泉之坂(よみのさか)、黄泉之穴―猪目(いのめ)洞窟」


所造天下大神命あめのしたつくらししおおかみのみこと(大国主神)が和加須世理比売(わかすせりひめ)のもとに通っているとき、社の前にあった滑らかな石「滑盤石(なめしわ)九景(くけ)川渓谷の岩坪」


和尓(わに)(ワニザメ)に慕われた玉日女(たまひめ)命が、川を上って来る和尓をふせぐために石で川を塞いだ「以石塞川いわをもちてかわをせく―鬼の舌震(したぶるい)


支佐加比売命(きさかひめのみこと)佐太大神(さだのおほかみ)を出産する際、産屋として使った海食洞穴「加賀の潜戸(くけど)―加賀神埼」


*火の神・軻遇突智(かぐづち)伊邪那美尊(いざなみのみこと)から産まれた土地とされる阿具(あぐ)。伊邪那美尊の御陵と伝えられる比婆(ひば)山。

……などがあります。


      ◇


 加茂岩倉遺跡は、雲南という地名にも表現されているごとく、出雲市の南方にあります。「岩倉」は、東西にのびる狭い谷の地名であり、この地の神社境内にある大岩に由来するとも、谷の出口にある高さ約四メートルの大岩から来ているとも伝えられています。「岩倉」は「磐座(いわくら)」つまり神様がおこもりになる場所という意味で、この辺りには磐座信仰があります。地名が遺跡名として採用されました。


 この谷を流れる川は、『出雲国風土記』では出雲大川―八岐大蛇(やまたのおろち)のモデルとも言われる斐伊(ひい)川(火の川)の支流です。


 銅鐸が発見されるまでは、谷沿いには小さな棚田がひろがり猪が走り、近くには牧場がある静かな山里でした。周囲には銅鐸以外に出土品はなく、古墳や集落跡もなく、当時ご存命だった考古学者の佐原真先生を始め多くの専門家が調査しましたが、山の頂上にも何もなかったそうです。

 標高百四十メートルくらいの山の、けっこうな急斜面に、三十九個の銅鐸は二つの穴にまとめて埋められていました。うち十九組三十八個が入れ子式でした(本来は二十組四十個だったのかもしれませんが、小さいのが一つ足りません。もとからなかったのか未発見なのかは不明です)。外鐸の高さは約四十五センチメートル前後、中鐸は三十センチメートル程度の大きさです。紐をつけて吊るしたとされる(ちゅう)の形状と、埋納坑の放射性炭素測定から、弥生中期後半(紀元前一世紀)ごろのものかと推測されています。

 これまでにも他の地域で大量の銅鐸が発見されたことはありますが、一か所から発見されたものとしては最多で、入れ子式の埋納状態が調査できた貴重な遺跡です。


 さらに、加茂岩倉銅鐸は本体に描かれた文様で有名になりました。


 18号鐸:袈裟襷文(けさだすきもん)の上区に羽を広げたトンボ、四個の渦巻きを繋いだ四頭渦文。

 23号鐸:二頭のシカ、四つ足獣(イノシシ?)、やや背を丸めた四足獣(イヌ? オオカミ?)の文あり。

 35号鐸:トンボと四頭渦文、四足獣。

 29号鐸:鈕に入墨をさした人面が鋳出されている。

 10号鐸:鈕に横向きのカメの絵(ウミガメ?)

 21号鐸、37号鐸:シカが浮き彫りで表現。


 同一の鋳型((はん))で制作された銅鐸(同笵(どうはん)銅鐸)が15組あり、近畿(兵庫県・奈良県・和歌山県)、四国(徳島県)、岡山県、鳥取県に兄弟銅鐸があります。古・中期段階の銅鐸が近畿地方中央部の工房(兵庫県南部、大阪〜京都府南部、奈良県唐子・鍵遺跡、滋賀県東南部など)から運ばれてきたのでは、と推定されています。


 出雲の別の場所からは吉野ヶ里遺跡から出土したのとそっくり同じ銅鐸が発見されていて、広範囲な交易のあった可能性がある一方、加茂岩倉銅鐸の18号・23号・35号鐸と、荒神谷遺跡から出土した三五八本の銅剣は、出雲産と考えられています。


 何かの祭祀の跡だったのか、敵から隠す目的だったのか。埋納された理由は分かりません。


 発掘状況を保存し、公園として整備されたガイダンスセンターは、松江高速道の加茂岩倉サービスエリアから、または国道五十四号線から訪れることができます。私が行ったときは真夏で、駐車場から人気のない山道を汗をかきながら結構歩き――何故か車止めは銅鐸(どうたく)型――「ほんとうにこっちでいいの?」と不安になりながら到着しました。


挿絵(By みてみん)


 現地には埋納坑が再現され、出土時の写真などが展示されています。実際の銅鐸はここにはなく、島根県立古代出雲歴史博物館に保管・常設展示されています。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)







加茂岩倉遺跡ガイダンス HP:https://kamo-iwakura.amebaownd.com/

島根県立古代出雲歴史博物館 HP:https://www.izm.ed.jp/#


参考図書:

「古代出雲の原像をさぐる―加茂岩倉遺跡」田中 義昭(新泉社)

「出雲国風土記―語り継がれる古代の出雲(企画展図録)」島根県立古代出雲歴史博物館・編(今井出版)

「出雲国風土記(全訳注)」荻原 千鶴(講談社学術文庫)

「古事記(全訳注)」次田 真幸(講談社学術文庫)

「解説 出雲国風土記」島根県古代文化センター・編(今井出版)

「出雲国風土記紀行」島根県古代文化センター・編(山陰中央新報社)

「銅鐸の中の動物たち」荒神谷博物館・編(報光社)



おまけ:

 文中、神々のお名前(神名)が「〜神」であったり「〜(みこと)」「〜(みこと)」であったりするのは、『風土記』『古事記』『日本書紀』の記述に従っています。

 『古事記』では、神は顕れたときにはただ「神」ですが、何か使命を帯びると「命」となります。伊邪那美神(いざなみのかみ)伊邪那岐神(いざなぎのかみ)は、天津神より国土を定めるよう命じられた(=ミコトを賜った)以降は伊邪那美命(いざなみのみこと)、伊邪那岐命と表記が変更されています。「尊」は使われていません。

 『日本書紀』では、天津神と天皇の祖先の神々を「尊」とし、その他の神々(国津神)を「命」と表記するとしています。伊邪那美尊(いざなみのみこと)、伊邪那岐尊となるわけです。

 まあしかし、厳密には「命」も「尊」も使い分けはあまりされていません。

 神社などでは、御祭神として神徳を発揮するときは「神」を。神話などで人間っぽい失敗などをなさる場合は「命」という敬称をつけている場合が多いようです。

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