1日目
「じゃあ母さん、行ってくるわ」
「部活は遅いん?」
「5時ぐらいやな。その後野暮用があるから、帰るのは遅くなるわ」
母さんが渋い顔になった。
「またあの悪い先輩やないやろね。兄ちゃんみたいになったらあかんて言っとーと?」
「平気平気。じゃ、晩御飯よろしくな」
桜の香りがふっと鼻をくすぐった。僕はウェアの入った鞄を背負い、うーんと伸びをする。
今年は桜が咲くのが、随分と早いな。
歳の離れた兄ちゃんが家を出て、家は少し寂しくなった。
姉ちゃんにも最近彼氏ができたみたいだし、また家が寂しくなることを母さんは感付いているのかもしれない。
スマホを見ると、新着は3通。一件目はマレーシアに単身赴任中の父さんだ。次のゴールデンウィークには戻ってこれるらしい。母さんも喜ぶだろう。
二件目は……従兄弟の洋さん?珍しいな。……こっちに春から赴任してくるのか。彼は新聞記者だから驚くほどじゃないけど。将来のこと、ちょっと相談してみようかな。
そして、最後は……たった1行のメールだけど、僕の頬が緩んだ。
「部活が終わったら、K崎駅で。美里」
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終業式前の学校は、皆どこか気が抜けている。来年は受験だけど、どうにも実感がない。
授業も碌に聞かず、僕はぼおっと外を見ていた。大学か、専門か。
この高校はそこそこだけど、僕が住むK市は決してガラのいい街じゃない。できれば外に出たいのだけど……
この街に生まれた若者は、3つに分かれる。物凄く出来のいい奴は、高校で福岡に行く。そしてとっとと九州を捨てる。
それほどでもない奴は、地元の高校に行く。そして地元の大学に行って、ひっそりと暮らす。
どうしようもない奴は、高校で就職する。ただ、筋の良い所に就職できるかは、運だ。やくざになったり、半グレになる奴も決して少なくはない。
僕は1番目と2番目の中間だった。早く、この街を抜け出したい。そう思いながらも、模試の点数はなかなか伸びなかった。
東大卒の洋さんに、家庭教師でもお願いしてみようか。……それは無理か。新聞記者って、物凄く忙しいらしいし。僕は溜め息をついた。
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「あ、勇人!!」
改札前で、長い茶髪の少女がブンブンと手を振っているのが見えた。
「美里!早いね」
「うんっ、待ちきれんかったと」
そう言うと、美里は僕の胸に飛び込み頬擦りをする。
「うーん、この匂い、好きだなあ」
「部活帰りで汗臭いだけじゃなかと?」
「ううん、これがいいの。ね」
美里が背伸びをした。僕と美里では20センチ以上も背丈が違う。キスをするときは、いつもこんな感じだ。
「んっ。……やっぱ、恥ずかしか」
「いいのっ。で、どこ行く?軽くご飯する?カラオケ?」
「そやな、じゃあマックで」
美里が「んふふ」と腕を搦めてきた。
「そだね。時間はあるの?」
「母さんには遅くなるって伝えてる。お金も、一応持ってきた」
「……そかそか。じゃあ、ゆっくりできるね」
初めてしてから3ヶ月。美里はそういうことに随分積極的だった。
美里は決して頭の悪い子じゃない。でも、「一番目」のカテゴリーでもない。
そういう子の中には、早くから家庭に入ってしまおうという子が少なくない。
単に甘えたがりだとか、エッチが好きだとかというだけじゃない、ある種の打算が彼女にあるのには気付いていた。
まあ、それはそれでいいかなと思っている僕も僕なんだけど。僕自身、そういうのは嫌いじゃないし。
「……あれ?」
「どうしたの」
「いや、勇人の爪。ちょっと黒くなってない?」
「あー、これ。多分ボールを打った時に、血豆でもできたんやろ」
確かに、右手の中指に黒い筋のようなものが見えた。ただ、バレーで突き指や血豆は普通によくある。気にすることでもない。
「ん……ならいいんやけど」
美里が胸を僕の腕に押し付けた。これは、マックでのご飯は早々に切り上げることになりそうだな。
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僕の命が尽きるまで、後100日。
そのことを僕が知るのは、大分先のことだ。