桜と少年
待て、と背後から怒声が降り注ぐ。少年は走っていた。庭に出て、苗木の元へと急ぐ。誰が待つものか。計算すれば――いや、計算しなくたって、こんな簡単なことわかるだろう! それとも、俺が間違っているのか…?
「待てと言っている!」
声と共に、魔法の放たれる気配がする。少年はサクラの若枝をかばうように抱え込んだ。刹那、幼く細い声がもわりと響いた。
『危ない!』
魔法の波動で視界がかすむ。声に気を取られる間もなく、少年は目を閉じた。
「おい、何してるんだ」
そんな呼びかけで、少年は目を開けた。かばっていたはずの苗木は懐の内にはおらず、少年はただ体調不良者よろしくずくまっていた。見上げれば、小柄な少女が静かな黒目で少年を見下ろしている。言葉の出ない少年に、少女は視線をやや上に向けながら言った。
「そのサクラに興味でも?」
少年が少女の視線の先を追いかけると、自分の目の前で、堂々たるサクラが葉を輝かせているのが見えた。少女は目を細めた。
「万年桜という。実際の樹齢はおおよそ五千年だろうが、大昔から記述があることは確かだ」
記述、と少年が繰り返すと、少女はうなずいた。
「サクラは魔力の宿る霊樹だ、知ってるだろう。で、神話の時代から毛が生えた程度の大昔に一度、サクラの乱伐採が起こった。サクラの絶滅も間近。それを止めた一人の数学者が、サクラ保護のために植樹を始めた。その記念すべき一本目がこれらしい。魔術の素質がゼロだった数学者の、魔力絶対主義時代での本気の生き方だ。私は好きだが。なあ、お前は、どう生きる」
答えようとした少年は、再び閃光に襲われ、目を閉じた。
「なぜお前は生きている!」
目を開ければ、憤慨した大魔導士がいた。そして、曲がりなりにも「大」魔導士である男は気付く。
「時空の歪み……。潤沢で良質だったサクラの魔力も、皆無。まさか、お前がサクラの魔力を!」
少年は大魔導士に冷ややかな視線を送った。
「俺じゃない。サクラがやった」
「あり得ん! 植物に意志など!」
「魔力がなくなってるんだろ。俺にはわからんがね。魔力がなくなったなら、誰かが使ったんだ。そして俺は魔法を使えない。あんたも使っていない。残る答えは一つだ。そしてそれが、サクラの意志だ」
少年は、力ではかないようもないはずの相手を前に、サクラを背後にかばって立ち上がった。
「ありがとな、全部俺にくれて。迷ってすまん。これからは俺が守る。これが俺の生き様だ」
『あれ、賢者さん、誰と喋ってたの』
『とあるサクラ好きの迷子』
『え、賢者さんと同水準でサクラ好きな人っているの』
『わたし以上だろ、あれは』
『それもう変態の域じゃん』
『お前それ取り消せ』