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曖昧で、けれど確かな

作者: 秋月雅哉





夕方の部活の時間。第一女子更衣室は今日も賑やかに運動部の面々が着替えに使っている。


私、久遠梓も柔道部所属の証であり稽古着でもある柔道着に着替えている真っ最中だ。


「そういえばこの間さーパチンコ台を拾ったんだよね」


「なんでそんなもの拾うの」


「いや、柔道に詳しかったからつい。雑霊が憑いてるやつなんだけど口は悪いけどいいやつだよ?今専属コーチやってもらってるんだ」


他の世界や過去や未来はどうだか知らないがこの世界の今という時間には幽霊というものはさして珍しくない。


見るのに霊感は多少いるが持っていない人のほうが珍しいくらいだし雑霊がものに宿っているならものによるが光や音、


ラジオのようなものなら周波数をジャックして音声に変換することもできるので基本的に意思の疎通には困らない。


見えない人にはその辺を漂っている浮遊霊もその辺に取り憑いたまま動けなくなっている地縛霊ももしかするとその人についているかもしれない背後霊も関係ない。


ただ「幽霊がさー」などと日常的に話す人々の話についていけずに気まずい思いをするとか、

質の悪い悪霊に偶然目をつけられて大けがをしたりするけど原因は不明、という奇怪な思いはたまにするらしい。


治療師ヒーラーの先生は霊につけられた傷なら無料で綺麗に治してくれるしこれは霊の仕業ですよ、


って教えてくれてそこで納得する人もいるけれどたまに科学技術を使った医者ドクターにかかってその医者が悪質だったりするとぼったくりで料金を取られたり、


という二次災害はあるらしいからやっぱり霊の姿は見えた方がいいのかもしれない。


まぁ、原因不明の大けがをしたら普通は治療師に見てもらうんだけどね、見えない人でも悪霊の仕業だろうって見当はつけるし。


でも見える人でも見えない人でも「霊なんていない」と強硬に主張する人はいる。


見えない人がそう主張するならともかく明らかに見えていると雰囲気で丸分かりの人が見えているものをいないと主張するところはいささか滑稽だ。


「ハッ、雑霊の専属コーチだって。ばっかじゃないの」


あとは……うん、まぁ。存在は認めてるけど雑霊や浮遊霊とかを自分より下位の存在としてみるコイツとか。


「うっせーよ君妻、てめぇにゃ関係ねぇだろうが!」


君妻香織とは所属している柔道部でも有名な、いわゆる犬猿の仲という間柄だ。


鉢合わせれば大概向こうは絡んでくるし、あたしも喧嘩は漏れなく高値で買うタイプだから口喧嘩は基本的に絶えない。


「ふざけないでよ、関係ないわけないじゃない。雑霊がアンタに取り憑いて私たちに害を加えない可能性がないわけじゃないでしょ。関係おおありよ」


「おあいにく様。消滅寸前で物に移る霊力も残ってない雑霊なんだからあたしを乗っ取ることもパチンコ台から球弾き飛ばしてアンタを怪我させることもできないっつーの。


せいぜい安心してください、弱虫野郎様?」


嫌味を込めてそう返せば君妻が顔に朱色を昇らせる。


「そんなおいぼれにコーチを頼むとか貴方もつくづく劣等生なのね。あきれたわ。


もう少しましな、せめて生きているコーチを雇ったらどうなの?……あぁ、ごめんなさい。貧乏人には専属コーチなんて雇えないかしら」


「人の事情にクチバシ突っ込むとかお嬢様扱いしてるアンタの家の人の教育方針を疑うわ。


割と本気で。貧乏で何が悪いんだよ、全部自分より下の存在だと思い込んでる馬鹿な成金娘よりマシな感性持ってる分むしろ幸せだっつーの」


「貴方!失礼にもほどがあるわよ!私が礼儀知らずだとでもいいたいの!?」


「実際礼儀知らずだろうが、人のことを貧乏人扱いしやがって。自分は金持ってるからっていい気になるんじゃねぇよ」


「逆切れもいいところだわ…こんな人と一緒に勉学と部活動に励まなくてはいけないなんてやっぱり転校を考えようかしら。


…いえ、ここよりいい環境の学校なんてそうないわね。


どうして貴方のような貧乏人が学費が高くて、学力面でも部活動面でも通えることが栄誉と言われる超名門校にいるのかはなはだ疑問だし非常に不愉快だしまったくもって理解不能だわ」


裏口入学できるお金もないでしょう、試験官に媚でも売ったの?


と嘲笑する君妻の言葉はあたしからしたらむしろそっちの方が逆切れだと思う。


「スポーツ推薦枠は実力がなきゃいくら媚売っても取れないっての。


奨学金だって学力がないと認められないんだからアンタみたいな親の七光りで在籍してる奴と一緒にしないでくんない?


媚売って成績に色つけてもらってんのはそっちだろ」 「なんですって!聞き捨てならないわよ久遠!」


「それはこっちのセリフだ君妻!いっつもいっつも突っかかってきやがって、鬱陶しいんだよこのクソアマ!」


「なんて口の悪い…貴方はやっぱりこの学園にはふさわしくないわ!」


ヒステリックに君妻が叫ぶ。


「別にアンタに認めてもらいたくて学生やってるわけじゃねーよ勘違いすんな。っつーかいい気になんな」


「生意気よ、貧乏人の癖に!」


「うっせーっつってんだろ!」


「梓、そろそろ部活始まるよ。いこうよ」


「あ、ごめん。今すぐ支度する」


友人のみちるにやんわりとせっつかれてエキサイトしていた頭をクールダウンさせる。


部活前は意識が高揚するからいつもより喧嘩っ早くなるのにいつも君妻と顔を合わせるせいで第一女子更衣室の使用者には毎度居心地の悪い思いをさせてると思う。


そのことに一抹の申し訳なさを感じつつも柔道着に着替えた柔道部御一行は部活開始時間も迫っているのでぞろぞろと道場へとむかっていた。


先頭は何が何でも自分が一番じゃないと気が済まない君妻だ。


命を大事に、と謳うこの学園の扉には植物(たまに野菜。第二女子更衣室なんて扉絵がキャベツだ。


なんでそのチョイス、と利用者からはよく突っ込まれる。一種の平和な類の学園の七不思議とやらかもしれない)


の絵や動物の絵(たまに家畜でこの学園は実は宗教系のバックがついてるけど宗教はあんまり関係ない名門校なんじゃなくて


農産・畜産系の学校なんじゃないかという噂もまた平和な類の学校の七不思議のひとつだ)が描かれている。


シャキシャキしてそうなキャベツやレタスの絵はおいしそうだしまるまる太った鶏や豚の絵は解体して


焼いたら脂がのっていてこちらもやっぱりおいしいんだろうな、と思う。


他の絵に関してはとりあえず絵の良しあしは良く分からないけどどれも生き生きしてるからチョイスはともかく絵自体は嫌いじゃない。


キャベツやレタスや鶏や豚も生き生きとはしているけどおいしそうなイメージが真っ先に浮かぶあたしってやっぱり貧乏人?


と前にみちるに聞いたら「私にも美味しそうに見えるよ。よかった、私だけじゃなくて」とほんのり笑ってくれたからあたしはみちるが好きだ。


家畜をおいしそうだと思うことは残酷なことかもしれないけれど同時に褒め言葉だとあたしは思う。


命を奪うことは変わりないけれどそれならおいしく頂くべきだ。命を貰ってあたしたちは生きてるんだから感謝を忘れちゃいけない。


これは亡くなったおばあちゃんの口癖だった言葉だ。


会えなくなるまでは存在が鬱陶しいな、とか口うるさいな、


とか思っていた小言が本当は生きていくうえで大切なものだと気づいたのはおばあちゃんがいなくなってからで。


なんでもっと優しくできなかったんだろう。なんでもっとちゃんといろんな話を聞いておかなかったんだろう。


そんな後悔ばかりが押し寄せる。


もっと早くに言い聞かせられた言葉の大切さを理解しようとしていたら、


生きていくうえで頭のよさとか運動ができることとか要領のよさとかよりもっと大事なモノをあたしに教えてくれてありがとう、って目を見て言えたのに。


そういっていたらおばあちゃんはなんて答えてくれただろう。すこしは安心してくれただろうか。


今となっては永久に分からない。


大事な存在ものはなくしてから気づく。


そんな小説ではありふれたモチーフを、あたしは本当に失うまで気づけなかった。


道場に向かおうとしていた君妻は焦っていたのかその一つ前の扉、キャベツの絵の描かれた第二女子更衣室の扉を全力で全開にする。


道場の扉は揺れが激しいせいか新しい校舎にしては少し歪んでいて気合を入れて開けないと人が入り込む隙間は作れない。


でも第二女子更衣室は普通に開くから全力なんて出したら物凄い勢いで横開きのドアが開くし


今私たちが出てきたように部活の用意のためには中に着替え中の女子がいるわけで。


運が悪いことに第二女子更衣室にはカーテンや仕切りの類はなくて着替え風景が丸見えになる造りだ。


そして女子より着替えの早かった男子部員が体育館で部活中で。


結果的に盛大な女子の悲鳴と男子のざわめきが暫くの間体育館を満たしたのだった。


「ご、ごめんなさい!」


慌てて扉を閉める君妻に「ばーか」と悪態をついてやろうかとも思ったけれどそのあと口喧嘩になって部活に遅刻しても馬鹿馬鹿しいのでやめた。


道場に一礼して入って主将の集合の掛け声を合図に集合、整列して準備体操などを済ませ、


寝技や打ち込み、投げ技の練習、乱取り、筋力トレーニングと部活は進んでいく。


顧問から時折指導が入り各々の掛け声が響き渡り、人が投げ飛ばされる音も響く。


受け身をとった時の腕が畳を叩く音もあちこちから聞こえる。


柔道をやるなら受け身を取れなくては危なっかしくて実践には参加させてもらえないから


各種の受け身は毎日準備運動の中に取り込まれていた。


条件反射で受け身を取れるというのは日常生活では便利でもあり、逆に恥ずかしい思いをすることもある。


体育館を中央で仕切るネットのある辺りをあたしとみちるともう一人の友人が並んで歩いていて、


アタシともう一人の友達は話に熱中するあまりネットの存在に気づかず足を引っ掛けて転んだ。


顔面を強打していたらそれはそれで恥ずかしかっただろうけど、柔道部員だったアタシたちは前受け身をとって無駄に目立ってしまったのだ。


前受け身はその名の通り前に倒れこみながら取る受け身なので日常で取ると相当目立つのだとその時初めて知った。…知りたくなかったけど。


普段は一連の動きとして取りやすいように前転をしてからとるんだけどその時はまさに倒れこみながら受け身をとったのだった。


…前転しながら受け身取ってたらスカートの中身が丸見えで大惨事になりそうだしそれはそれで嫌だけど。


それを聞きつけた君妻に散々馬鹿にされて余計恥ずかしかったのかもしれない。


補強運動と整理体操とを終えて四時間ほどの部活の行程が終了する。


あぁ、今日も疲れた。柔道は好きだし推薦でこの学園にいる以上手を抜こうとは思わないけれど真面目にやると相当きつい部類の部活になるんじゃないだろうか。


そしてどれだけ疲れても家に帰ればパチンコ台をコーチにした個人授業が待っているのである。


「お疲れ様でした!」


「っした!」


神棚の前に正座で並んで神棚と顧問に礼をして諸注意を受けて解散。


部活終了後の第一女子更衣室はデオドラント剤の匂いが混ざり合って多分男子が入る機会があったらはだしで逃げ出す、


汗臭さとはまた違った時限の臭さが広がる。


名門校なのに運動部員がとても多くて設置数が間に合わないとかでシャワー設備はおいていないから我慢。


どうせこの後すぐまた汗まみれになるし、揶揄される程度には貧乏というか倹約を心掛けないといけない


家計で生活してるあたしにとってはもし設置されてもコイン式のシャワーやドライヤーだった場合、お金がかさんで設置されても困るだけだけど


他の女子は割と裕福な家の子が多いからシャワーがないのは不満のタネらしい。


「お疲れ―また明日ね」


「お疲れ様―」


君妻とその取り巻き以外の、友人未満ではある気はするけれど知人以上ではあると思っている部員たちに挨拶してみちると一緒に途中まで下校する。


「じゃあ、ここで」


「うん、また明日ね」


「お疲れ様―」


「お疲れ―」


いつもの交差点で分かれてそこからは一人で帰宅するのが日課。


我ながらぼろいなー、と思わずにはいられない築ウン十年の家に帰って台車に乗ったパチンコ台にただいま、と挨拶をする。


『今日も稽古すんのか』


「うん、晴れてるし」


家の中では狭いし下手に受け身やらをとって家が崩壊したら目も当てられないので稽古は基本外だ。


『じゃあバランスとりながらの小内刈りからだな。


お前は背負い投げやる割に小内の精度が甘い』


「大内刈りの方がかけやすいんだよねぇ…」


『背負いの連続技で生きるのは小内の方だ。覚えておいて損はねぇだろ』


ぶっきらぼうな、多分あたしよりいくらか年長の男の人の声。


パチンコ台は電源をつながなければ単に大きくて重い箱なので彼は私に霊としての力を使って話しかけてくる。


知り合って二週間ほどたつのにいまだに名前は教えて貰えていない。


『名前を知ったら俺が消えた時に喪失感が大きくなってピーピー騒がれるのかと思うと鬱陶しい』


なんて言ってたけど…確かにいなくなったら寂しくはなるよ?でも名前を知ってても知らなくても寂しいけどピーピーわめいたりは…するかな。


どうだろう。わかんないや。


木と木の間に幹の太さ分のゴムを渡して揺らさないように片足をついたまま小内刈りの時の姿勢をとって一歩一歩進んでいく。


踏み込みが甘い、とか刈り方が足りない、とか上半身が崩れてる、とか体崩しをもっとしっかりしろ、とか一回技を空気相手にかけるごとに容赦なく声がかかる。


ゴムの端から端まで小内刈りをかけ続けた後は足払いの練習。


パチンコ台に憑いた雑霊の彼に言われるまでもなくアタシは足技が上手くない。


大外刈りと大内刈りは人並みにできるつもりだけど背負いを主体に使うならあんまり向いていない組み合わせだ。


そのあとは幹に結んだ帯を使って一人打ち込みの練習に励む。ここでもやっぱり注意が凄い勢いで飛んでくる。そんなに腕悪いのかなぁ、あたし。


『今日は此処までだ。俺を家に戻して風呂入って寝ろ』


「わかった。…もう、なんでよりによってパチンコ台みたいな台車がなきゃ運びにくいシロモノに取り憑いてしかも他の物に移れる霊力残ってないの…


台車が一つ占拠されて不便なんだけど」


『腕力鍛えるのにいいだろ。他に取り憑ける者がなかったんだから仕方ないだろうが』


ふふん、と鼻で笑うような声が聞こえて釈然としないものを感じながら台車を家に運び込む。


築ウン十年の割にバリアフリーでよかった。


台車を定位置に戻して土汚れを拭いてお風呂に入って予習復習をして寝ることで一日が終わる。


味気ない、なんていう人もいるけどアタシ的にはこんな日常にも満足していた。




「梓、映画を見に行こうか。気にしている映画があっただろう」


「映画より釣堀がいいな。イワナを塩焼きにしてみんなで食べるの。あたし、たくさん釣るよ?」


「……」


「あ、ごめん。お父さんイワナ嫌いだったよね…」


「いや、いいよ。両方行こう。今日は久しぶりにゆっくりできるんだ」


お父さんとお母さんの笑顔。頭を撫でてくれる大きな手。


でもアタシはそれが過去にも現在にも未来にも現実には存在しない風景だということを知っている。


父親はアタシを憎んでいたし母親は生活に疲弊していた。なんでこんな夢を見るんだろう、空しいだけなのに。


身支度を済ませてパチンコ台におはよう、と声をかけると返事が返ってこなかった。


「ちょっと?寝てるの?」


霊だから寝ないって事位わかってるけどふざけないと不安で胸が潰れそうになって私はわざと軽い口調で問いかけた。


別れが近いことは知ってた。でもお別れを言う余地位あるんだってなんの証拠もないのに信じてた。


おばあちゃんの時に知ったくせに、大切なものは失ってから気づいて、後悔しても遅いんだって。


アタシの馬鹿!


『……そろそろ、無理だな』


「!起きてるなら、声かけてよ…」


『いや、消える寸前なのには変わりない。後五分も持たない』


「そんなのやだよ…」


『ピーピー泣かれるからお前に拾われるのは嫌だったんだ』


ぼんやりとアタシ以外いない家に人型が浮かび上がる。初めてみる彼の姿。


他界した両親の夢を今更見たのは彼を連れていかれるという予知夢?


「……今日はせめて一緒にいていい?お別れを、ちゃんと言わないと…後悔するから」


『………勝手にしろ』


いつもよりノイズの混じった声。あぁ、本当にお別れが近いんだ。


一人には慣れたつもりだった。でも全然慣れてなかった。永遠のお別れなんて何度経験したって嫌だ。


たとえ小言ばかりのおばあちゃんでも、アタシを憎んでいる両親でも、名前も知らない雑霊でも。


『なっさけねぇ、面』


「……ほっといてよ」


『なら消えるまで黙ってていいのかよ』


「やだ」




お前はあのころはまだガキだったから覚えてねぇだろうな。


お前を憎んでたとかいう親父がお前を捨てようとして車に乗せてお前の知らない土地まで連れてきて置き去りにした時、俺とお前は一度会ってるんだ。


もっともあのころは俺にもちゃんと体があったんだけどな。


ピーピー泣きそうな顔で、けど泣いたら負けだと言わんばかりに唇を引き結んで歩くお前の道案内をしたガラの悪く見える男を、お前は覚えてないんだろうな。


それが今お前の目の前にいる俺だよ。


お前を家まで送った後に車に撥ねられて即死した俺は浮遊霊になってたまにお前の様子を見に行ってた。


お前が見える方だって知ってたから気づかれないように気を遣うのは苦労したんだぜ。


ただ俺にはそんなに霊力はなかったらしくてそのうちなにか依代にしないと意識を【向こう】に持っていかれるような感覚に陥るようになった。


選んだのは潰れたパチンコ屋の壊れたパチンコ台だった。お前の家に一番近くてそうそう捨てられなそうな曰くつき物件だったからな。


浮遊霊として外に出られるうちはまだお前の様子を見に行ってた。


お前が柔道をやってるって事もその時知った。


皮肉なもんだ。昔親に無理やりやらされて柔道界の神童扱いされて、


けどそれを喧嘩に使って破門になった俺が一人になったお前に柔道を教えてやる羽目になるなんてな。


本当は動けなくなった時点で放っておくつもりだったんだぜ?


下手にかかわりを持ったらお前はあの最低な親を亡くした時同様一人でピーピー泣くんだろ?


また話し相手ができてもそれがパチンコ台に取り憑いた消滅間際の霊じゃ、な。


情がわいたころに離れ離れになるのがオチだ。


んなの、放っておくよりずっと残酷じゃねぇか。


すぐに傷になる出会いなら、ハナっからねぇ方がいいんだ。


出会いがなきゃ喪失の痛みを再び味わうこともない。


もともと知られてない存在なら知られないまま消えていく方がずっと親切だろ?


お前は気が強くて粗暴な振りをしてるくせに本当は泣き虫でメンタル弱くてそれをしられるのを嫌がる意地っ張りだからな。


本当は一人でピーピー泣くしかできない自分のことが自分で一番嫌いだったんだろ?


お前のことを見守ってたのは俺の勝手だ。


俺の勝手に付き合わせてお前が一番嫌いな自分の一面をまた引き出させて傷になる出会いを作って消えちまうなんて最悪な奴にはなりたくなかった。


そのくせ動けなくなった俺に、お前は会いに来た。


誤算だったぜ、浮遊霊の気配を辿って追っかけてこれるほど強力な霊感の持ち主だったとはよ。


『アンタ、時々家にきてたでしょ』


『……』


『何か未練があるの?あたしにできることなら協力するよ?』


『……』


『なんか言ってよ。放っておいてほしいならもう来ないからさ』


あの時の俺はお前が言ったように放っておいてくれって言って縁を切るべきだったんだ。


それなのに『お前、柔道やってるんだろう。教えてやるから俺を家に連れていけ』なんて…なんで言っちまったんだろうな。


最悪の奴として見送られることくらい、分かりきってたのに。


結果的にお前は俺を家から持ってきた台車で家まで連れ帰った。


いわくつき物件の、壊れたパチンコ台を一台持ち出したところで文句を言う奴はいなかった。


俺が憑いてるって知ってただ奇異の目を向けただけだった。


それから俺はお前に柔道を教えるようになったんだっけな。


筋はいいけどまだ未熟なお前になら俺にも教えてやれることは結構あった。


伊達に人生の半分柔道やらされて生きてたわけじゃない。


もうとっくに死んでるんだけどよ。


「なんか喋ってよ。姿は見えるけど見えるように脳がアタシを誤魔化してるかもしれないって不安になるじゃん」


『喋っても幻聴に、聞こえる、だけかも…しれねぇだろ』


回想の海にどっぷり浸かってた俺を梓の声が呼び戻す。


死んだ後にも走馬灯ってあんのかね。


少なくとも今俺が浸ってた空間はフィクションの死後の世界物でよくある走馬灯とやらに似てる気はする。


「…名前。なんていうの」


『教えねぇ』


「情がわいて泣くからとかもう今更でしょ。名前呼ばない方がずっと情がわくって年上なら気づいてよ」


『忘れちまったよ』


「…ウソツキ」


あぁ、嘘吐きだよ、俺は。だから俺にとらわれてないでお前は前を見て生きろ。


お前は笑ってる方が似合うガキだ。


お前につかの間の優しさを教えるふりをして傷つけるだけ傷つけて消えてく最低の男の名前なんて覚えておいても無駄だろ?


頼むよ、全部忘れてくれ。


なんで俺はこんなに必死なんだろう。


好きな女ってわけじゃねぇのにな。


俺はロリコンじゃねぇし今も俺が生きてた頃もまだ乳臭いガキだ。恋愛対象になんてなるわけがない。


相手に対して庇護欲を抱くような性格をしてる自覚はないし本当に謎だ。


今際の際にこんな謎に気づいてどうするんだよ。どうせすぐ消えるんだろ。


もやもやした気分のまま消えんのかよ。最悪な消え方だ。


コイツを傷つける罰か?ならしゃーねーか。


…駄目だ、思考が本格的に拡散してきた。


もう時間、そんなに残ってねぇんだな、本当に。


「アンタ、さ。アタシが捨てられたときに家の前まで前連れてってくれた人でしょ?」


『!』


「覚えてるよ。父さんにガキ作ったんなら責任もって育てろって啖呵切って殴られて、


何で戻ってきたんだ、って殴られたアタシを見てガキに責任はねぇだろってアタシの代わりに殴り飛ばしてくれた」


だから浮遊霊になった後見にきてくれてることにも気づいてたよ。


気づいてほしくなさそうな感じだったから声はかけなかったけど。


様子見に来なくなったからあのパチンコ屋に探しに行ったんだ。


一回だけ、帰るところをみたから。


そんな不意打ちの告白。


…なんだよ、俺、カッコワリィじゃん。


全部お見通しだったのかよ。


「…ねぇ、だから名前教えてよ。恩人の名前知らないままなんて後悔する」


『恩人なんかじゃねぇよ』


一緒にいられる間はこの感情に名前なんていらないと思ってた。


愛しいとも、護りたいとも、家族に向ける親愛とも違う。


生前の俺はそんな感情と無縁に育って死んだからそんな感情は知らないしきっと抱けない。


だから傍にいられる間はその感情が何かなんてどうでもよかった。


傍にいられること、それが一番重要だったんだ。


死者と生者が根の国の垣根を越えて接し合えるこの世界でもその時間は無限じゃねぇから。


死者のもともとの霊力が尽きれば消えちまうから。


消えちまったらどこに行くのか、時間をおいて鬼籍に入った元生者がその後同じ場所に行けるかなんてわからねぇんだから。


一緒にいられるだけで満足だったし、本当は触れたらいけない存在に感情の名前まで求めるほど堕ちたくなかった。


消える間際になって、その感情の名前を探す。意味を探す。


でも探す意味なんて、必要なんてあんのか?


どうせ俺は消えちまうのに。


どうせお前に何も伝えずに消えちまうのに。そんなの、自己満足でしかねぇんじゃねぇか?


「…ねぇ、名前」


『…俺がいなくなっても、泣くなよ。お前は多分笑ってる方が似合う』


「…話そらさないでよ」


『……』


なぁ、俺の聴覚はもう拾っちゃくれなかったけど。


俺の名前、最期にお前に届いたか?


この感情の名前なんて知らない。死後に抱いた意味なんて知らない。乳臭いガキの心配を死ぬまでしてる俺なんて知らない。


…あぁ、いや、俺とっくに死んでるんだっけ。


でもいいや。お前が笑っててくれる未来がいつかくんなら、もうそれでいいや。


お前と会うことはもうねぇんだろうな。


なぁ、梓。


――お前の未来が、希望と光で満ち溢れたものになりますように。


そう願うのは分不相応だって笑うか?


笑わねぇよな、お前なら、さ。




青年の影が完全に消えた瞬間、少女以外誰もいないくなった古い民家に慟哭と絶叫が響いた。胸を引き裂くような悲痛な声だった。


青年が最後に願った思いが届いたのか、青年が最後に告げた名前が少女に届いたのか、少女以外は誰も知らない。


これは始めから終わっていた物語なのだから。


けれど物語は終わると同時に新しい始まりを告げる。


そうして、世界は続いていく。


死者が浮遊霊や地縛霊、背後霊としての時間を終え、生者の触れられない世界に行っても。


その先を誰もこの世界にいる間は知ることができないだけで物語は続いていく。


それがどんな物語なのかは、垣根を越えて本当の死者の世界にいった存在ではないと分からないし、垣根を越えてしまえば戻ってくることはできない。


それでも、その先に物語は続いている。


少女に根負けして名前を告げて垣根を超える旅に出た青年の物語も、


一人残されて今は号泣することしかできない少女の物語も、


二度と交わることはないとしても、各々の道はまだ続いていくのだ。


「一人は、やだよっ……!なんでみんなあたしを置いていっちゃうの?連れてってよ、あたしのことも……っ」


少女にとっては青年の雑霊は初めて自分に不器用ながらに優しさを向けてくれた存在だった。


家族を失ってできた洞を、家族がいたころから両親には伝わる形では与えられなかった愛情のようなものを与えてくれる存在だった。


一緒に過ごした時間は二週間と少し。


それでも喪失感は埋めがたいほど大きく、少女はただ泣き叫んだ。


そんな自分を見るのが嫌だから名前を教えない、そう告げた青年の言葉を思い出しながら、それでも涙腺が壊れたように涙を流し続ける。


お前は笑っている方が多分似合う。


その言葉通りにしたいのに、自分だってピーピー泣き続けるよりは笑っている方が供養になると知っているのに。


どうしても止まらない涙を拭ってくれる相手は少女にはいなくて、もう泣くなよ、そういってくれる相手ももういない。


感情に任せたまま泣いて、泣いて、泣き続けて。


その日は学校を無断欠席して一日中泣き続けた。


食事も摂らず一日ぶっ通しで泣いて、暗くなった室内で膝を抱える。


「………」


泣き声の次に、掠れきった声で呟いたのは最後の最後にギリギリで届けられた、青年からの最後の贈り物。


頑ななまでに教えようとしなかった、青年の名前。


呼ぶのは、これが最初で最後にしよう。


心の奥の思い出の小箱の一番奥に、大切に大切にしまっておこう。


鍵をかけて、けれど絶対に忘れないようにしよう。


これは自分にとっての導だ。


形はないけれど何より大切な宝物だ。


他の誰に分かってもらえなくてもいい、自分が大切なものだと理解していればそれでいい。


託されたのは、他の誰でもなく自分なのだから。


彼と同じ場所にいついけるのかは分からない。


垣根を越えた後の世界は個人個人違うのかもしれない。


共通の世界でも彼とは出会えないかもしれない。


生まれ変わってしまっていてすれ違うばかりかもしれない。


それでもこれは宝物だ。


自分が人間で、彼が雑霊と言われる存在だったとしても。


紡いだ絆は本物だったと自分が思っている限り、誰にも偽物だなんて言わせない。


だって自分はその絆に、その不器用な優しさに救われたから。


泣くことが何より嫌いな自分が、泣くなと言われたのに、


笑顔の方がきっと似合うといわれたのに一日泣き続けるほど大きい存在として彼を生活の中に受け入れていたから。


他の誰にも否定させない。


梓は立ち上がる。


そしてまず、涙で引きつる顔を丁寧に洗った。


これはアタシと彼の物語だった。


家族ものではない。


ロマンスとやらもない。


友情ものでもない。


形のない感情が形のないまま、命の終わりと一緒にすれ違っていった物語だ。


それでも悲劇だとはアタシは思わない。


だって最後は辛かったけど、一生分かって思うほど泣いたけど。


今も思い出せば胸は鈍く、そして鋭く痛むけど。


あたしは、幸せだったから。


だからこの物語を、彼と触れあったことで得たものを、誰にも否定させはしない。


それはあたしと彼に対する冒涜だ。


間違っていると声高に叫びたければ叫べばいい。


けどその言葉はあたしを一ミリもそよがせはしないだろう。


彼がくれた言葉のように私をゆさぶりはしないだろう。


彼自身にだって否定はさせない。


これは彼の物語でもあるけれど、あたしの物語でもあるんだから。


そしてあたしはたくさんのものを、この物語と彼からもらったんだから。


ハッピーエンドじゃなかったけど、だからって否定はさせない。


報われない悲恋や悲劇のロマンスが認められるなら、結局名づけることのできなかった感情の、最後がちょっとビターな物語があったっていいじゃないか。


そう、あたしはこの物語を悲劇だとは思わない。


本心を言えばもっと一緒にいたかった。


もっといろんなことを知りたかった。


もっと柔道についてや、彼自身について教えて欲しかった。


もっとはやく彼にお礼を言いたかった。


この感情の名前を、知りたかった気も、すこしだけする。


でもあたしたちにとっては多分、あれがベストだった。


彼は自分が生前あたしと関わりがあることを知られることを望まなかったし、あたしは薄々それを感じてた。


多分、それは勘違いじゃない。


気づいてほしいんだったら、浮遊霊の時に声をかけるなり、パチンコ台からもっとはやく幽体をみせて過去を語っただろうから。


彼の思考は彼にしか分からない。


もしかすると彼自身にも分からないのかもしれない感情もあったかもしれない。


けど、恩に着せるような真似はしたくなかったんじゃないかなってあたしは思う。


短い付き合いではあったけど、彼はいつだってぶっきらぼうだったけど、その優しさはとても分かりにくかったけど。


自分の知っていることをあたしに教えて感謝されることを望むなら、もっと表に出していたはずだ。


残された時間がない中、感謝をより多く表現してほしいなら、もっと他の接し方をしていたはずだ。


それに。


初めて出会ったとき、あたしが家に帰ったことを怒鳴られて殴られそうになったとき、あたしをかばって代わりに殴られた彼は。


殴り返した後、折角送ってくれたのにごめんなさい、言いたいことを代わりに言ってくれてありがとう。


そういったまだ小さかったあたしに、彼は。


自分がやりたいことをやっただけなのに礼を言われんのはこっぱずかしいからとりあえず黙れ。


捨てられそうになったことも含めて、俺のことも今日のことも全部忘れちまえ。


お前たちが家族として一緒に生活していくならお互い忘れちまうのが多分一番いい。


釈然としないものを感じるなら、いつか親から自立できるくらい強くなれ。


世の中っていうのは、強い奴の意見しか遠くに届かないからな。


そう言って謝罪の言葉も感謝の言葉も受け取ってくれなかった。


彼の言う強さがなんなのか、そのころのあたしにはまだ分からなかった。


だけどその日を境に無抵抗に殴られるのは止めようと思った。


殴り返したかったわけじゃない。


殴られるのを仕方ないんだと、自分が悪いんだと思い込む弱さを捨てたかった。


生まれてきたことが罰だとしても、生ませることを選んだ父と、生むことを選んだ母の顔色をうかがいながらびくついて生きていくのは、何かが違うと思った。


だから肉体的にも精神的にも強くなれそうな、柔道という武道を習うことを選んだ。


両親は最初いい顔をしなかった。


大きくなるたびに道着を新調しなくてはいけないし、大会の時は応援に行かなければ体裁が悪い。


けれど娘にそんな時間を割きたくない。


そんな風に見えたけれど、いくら止められてもあたしは自分の我を通した。


思えばあれが初めての反抗だったのかもしれない。


楽しい事ばかりではなかった。


どうせ長く続かない、そうやる気を削ぐ言葉も耳にタコができるほど聞いた。


それでも心の強さを求めて、毅然とした態度で誰にでも向き合えることを求めて、あたしは稽古を続けた。


すこしずつ成果が出ても、道場の師範や一緒に習っている友達以外は喜んでくれなかったし、


むしろ遠征のために割かなければいけない時間を煩わしいと思うことを隠そうとしない両親だったけれど、それでも構わなかった。


誰かに認めてもらいたくて始めた柔道じゃない。


現実に向き合える力を得るために始めた柔道だ。


成果が出ても出なくても、誰かが認めてくれても誰も認めてくれなくても。


あたし自身が浮遊霊となって時々様子を見にきてくれていた彼に勝手に誓った強くなる、という目標を果たせなければ意味がない。


どんな時でも下は向かない。


毅然と前を見続ける。


不条理だと思ったことには愚直だと、馬鹿だと言われても自分が納得できないなら歯向かい続ける。


それがあたしの目指す強さだ。


だからあたしは泣くのは嫌いだった。


自分のために泣くのは嫌いだった。


自分を憐れんで泣くのは嫌いだった。


どうしても泣かなければいけないなら誰かのために泣ける優しさが欲しかった。


強くなっても優しさを忘れたら彼のようにはなれないと思ったから、自分の出来ることを人のためにする大人になりたかった。


その目標をくれたのは彼だ。


不良で、口が悪くて、あたしを助けた後は浮遊霊になってしまって、


その後はパチンコ台を依代にする雑霊になってしまった、名前以外はほとんど個人情報を知らない彼だ。


享年も、生きていれば何歳なのかも、何が好きで何が嫌いなのかも知らない。


どうしてあたしを気にかけてくれたのかも、本当のところはわからない。


でも、知っていることもいくらかある。


例えば、その不器用な優しさ。


例えば、柔道は嫌いだなんて言いながらあたしに熱心に指導してくれる素直じゃないところ。


例えば、多分あたしが目指すような、自分が納得できないことに対しては愚直と言われるほど真っ直ぐに抗う強さ。


不良みたいな格好をしていたのは、もしかするとそんな自分の不器用さや真っ直ぐさを、


誤解する相手には誤解させておけばいいという意思表示だったのかもしれない。


知っていることと知らないことだったら、知らないことの方が圧倒的に多い。


名前だって、声が遠くなっていったから本名をちゃんと伝えてもらったか、聞き間違えていないか分からない。


苗字に至っては知らない。


彼がアタシに抱いていた感情がどんなものかも、アタシが彼に抱いていた感情が何に分類されるのかもわからない。


傍にいられるうちは感情に名前なんていらないと思ってた。


少なくともアタシと彼の間では。


アタシが知ってる感情の、そのどれとも彼に対する感情は少しずつ違っていて。


一番近いのは感謝だと思うけどそれ以外の何かもきっとあって。


無理に形にしたら関係が壊れてしまいそうだから、自然にわかるまでは今のままでいいと思ってた。


その【今】がいつまでも続く保証なんてどこにもないって、そんな保証誰もしてくれないってしりながら、


それでもいつか終わることより無理に関係性に名前を付けて自然体でいられる時間が壊れることを恐れてた。


柔道の技は、始めたころよりは上手くなった。


でも、一番手に入れたい心の強さはまだ手に入らない。


あとどれだけボタンを掛け違えれば、正解にたどり着けるんだろう。


そもそも正解なんてあるんだろうか。


人の心なんて十人十色って言葉がある位、似ているようで少しずつ、或いは全然違うものなのに。


きっと彼にこんな相談をしたらきっと彼にこんな相談をしたら『全員が全員同じ思考回路してたらそりゃ楽だろうがロボットみたいで気色悪い』って鼻で笑ってくれたんだろうな。


何も知らないに等しかった相手の喪失。


けれどそれまでの時間はたくさんのものをあたしに与えてくれた。


得たものは大きい。


それに比例して喪ったものも大きい。


でも、いろいろ考えられるくらいには思考回路は復活した。


涙も止まった。


だから明日からは、できるだけ笑って過ごそう。


それが恩返しになるかどうかは分からない。


恩返しを強要するような最低な奴にはなりたくない、なんて突っぱねられるかもしれない。


彼がどんな反応を示すのか、彼がこの世界から垣根を越えた向こうへ旅立ってしまった今となってはアタシにはわからない。


でも、泣いてるより笑ってる方が似合うって最後にいっていたから。


あたし自身も泣いて塞ぎ込むより空元気でも笑って過ごしたいから。


明日になったら、また笑えるようになろう。


学校にもちゃんと行って、柔道も続けて。


いつかまた彼に会える日が来たら、ちゃんと笑顔で挨拶しよう。


彼が宿っていたパチンコ台は壊れているし、場所を取る。


でもそのままにしておくことにした。


盗難届とかだされたら、あれだけど。


もしそうなったら事実だから罪を償うつもりで入るけど。


合理的じゃないから捨てる、とかもう用がないから潰れたパチンコ屋に戻す、とか。


そういう冷血漢みたいな真似はしたくない。


これも彼が過ごしていた第二の人生の一部だから。


……仏壇代わりにしたらシュールかな。


俺の死に囚われるなって怒られるかな。


まぁ、いいか。


彼が垣根の向こうからこちらを見ることができるのかは分からない。


でも声は届かないから。


彼が宿っていたパチンコ台を仏壇代わりに、水や花や線香を供えても、それを彼が嫌がってもその声があたしに届くことはない。


だったら開き直ってあたしが満足できるように供養しよう。


幸いあたしは一人暮らしだ。多少奇行に走ったところで咎めたり心配する相手もいない。


気が済むまで泣いた。


それなら今度は気が済むまで供養をしよう。


結局まだまだ弱いあたしは、壁にぶつかるたび自分の気が済むまで足掻いて、わめいて。


根負けした壁がその身を低くしてあたしを飛び越えさせてくれるまでその場を動けないんだから。


動けないなりに、よじ登る努力は、するけど。


彼の供養はその一環だから、泣き止んだことだけでも良しとしてくれると……いいんだけどなぁ。


離れ離れになってから一日もたってないのにもうあの皮肉っぽい口調やぶっきらぼうな態度が恋しい。


二人で生活してたあとに一人に戻っちゃったから、これからは何か言ってもひとり言になっちゃうんだろうなぁ。


両親が亡くなってこの家で一人で暮らし始めた時もひとり言の癖はあったけど今回はそれより酷くなりそうだ。


だってかわした会話も、気安さも、血の繋がった両親より彼の方がずっと息がしやすいというか居心地のよかったから。


軽口も叩けたし、思えば彼は本気で怒ることはなかった。


だから家の空気が悪くなることを気にする事もなかった。


自分が納得できないことにはとことん抗うことを目指してたけど、結局両親に対しては顔色伺う生活送ってたんだなぁ、アタシ。


場の空気を読むことは大事だと思う。


集団生活をしているなら特に。


でもその反面、間違ったことを肯定しなきゃ壊れてしまう場の空気なら、いっそ空気の読めない人間になってもいいやって思う自分もいる。


君妻とのやりとり、というか口喧嘩はそういう感情が抑えきれなくてついやりすぎてしまうのかもしれない。


あぁ、明日はちゃんと学校行って勉強して、部活に励んで。


個人的なコーチはいなくなっちゃったけど課題はたくさん残してくれたから自分なりに自主練もしよう。


とりあえず今日はシャワー浴びて寝よう。


ご飯は……コーチがいたころなら『貧相なメニューしかなくても育ち盛りで体が出来てく過程にあるんだから飯は三食ちゃんと食え』


って怒られるところだけど…食欲ないから、今日だけパスさせてもらおう。


明日からできるだけ平常運転にもどるから。


今日だけ自分の感情に甘えさせて。


そう今はいない彼に向かって言い訳して、着替えをもって浴室へと向かったのだった。






「うわー、凄い目腫れた……。当たり前か、アフターケアとか全然考えてなかったもんなぁ……」


これは君妻あたりが凄い勢いで馬鹿にしてきそうだなぁ、とかみちるに心配かけるだろうなぁ、とか思いながら洗面と歯磨き、食事と着替えを済ませる。


教科書類がちゃんと今日の授業のものを入れているかをチェックして、お弁当を崩れないようにバッグに入れて。


制服の身だしなみをチェックして靴を履いて外に出た。


盗むものなんてそうそうあるとも思えないけど鍵はかけて通学路を歩く。


いつも帰り道で挨拶をして別れる場所でみちるに会った。


「おはよー」


「おはよ。昨日どうしたの?って凄い目が腫れてるよ?ものもらいかなにか?」


ものもらい、か。両目一緒にかかることは珍しいかもしれないけどそれでいかせてもらおう。


「うん、これでも腫れ、引いた方なんだけどね。昨日まるっきり目が開かない状態で休んじゃった。昨日の分のノート、後で写させてもらっていいかな?」


「コピー取っておいたよ。私あんまりノート取るの上手くないから参考になるかわからないけど……」


「ありがとう!助かるよー。今度なにかお礼させてね」


「大したことしてないよ。あ、でもお礼しなきゃ気が済まないっていうなら大外刈りと大内刈りのコツ、教えて?」


「いいけど…みちるも背負い系だよね?あんまり連携には向いてないよ?」


「うん、それは分かってるんだけど……組み手争いの間に出せる技は多いほうがいいし。


あんまり技をかけない時間が長くなっちゃうと判定の時に不利になったり教育的指導から始まって向こうにどんどん有利になってくじゃない?」


小内刈りだけだと相手にワンパターンだって読まれるだけじゃなく癖を知られたら背負いに繋げにくいから。


そう言葉を続けるみちるになるほど、そういう考え方をすれば大内刈りや大外刈りが得意になったこともプラスで考えられるなぁ、なんて感心して。


「それに大外刈りはかけやすい分返しもしやすいから。


返しに備える意味でもコツとか覚えておきたいなって。


梓、前に大外返しで一本取ったりとかしてたからさ。


背負いって入る動きが分かりやすいし組み手によってはすごく決まりにくいし…」


背負いは綺麗に決まると一本の判定も貰いやすいけれど打ち込みならともかく乱取りや試合ではなかなか決まらないのは確かだ。


…まぁ、あたしの腕が未熟だからってプロの人は言うんだろうけど。


「わかった、あたしでよければ教えるよ」


「ありがとう。なんか得しちゃった」


「お互い様だよ。あたしもノートのコピー見せてもらえるのは助かるし」


みちるは気配りがうまいと思う。


一日分のノートの写しは次の授業までに返さないといけない焦りから雑になりがちだけど、


コピーを取ってくれたなら大体の分量もわかるしあとで写せるようにその分のページを開けておいて急ぎの時は今日の分のノートを取ることから始めることができる。


それに欠点というか、こっちだったらよかったのに、って思っちゃうことの中から、よさを見つけるのもうまい。


前を向いて、が信条の癖にアタシはどっかで大内刈りや大外刈りより小内刈りをきちんと覚えられていたらってマイナスに考えてた。


でもみちるは多分あたしのそんな引け目も見越した上で本当にプラスとして見られる部分をこうやってさりげなく教えてくれる。


物言いは柔らかいから反発する気もしなくて素直にそのプラス要素を伸ばしていきたいと思わせてくれる。


そう言う意味では強行突破、猪突猛進しかできないあたしよりずっと強くて、しかも世渡りが上手な子だ。


むやみやたらと他人を否定することより、マイナスポイントを粗探しするより、ずっと難しいプラスポイントをさりげなく教えてくれる。


ほめて伸ばすだけじゃなくいけないって思ったことは叱ってくれる。


そういうところが、みちるはすごく素敵だと思う。


叱る、というのは怒る、と違って相手のことを思って諭すというのに近いんだってうろ覚えだけど教わったことがある。


みちるが人の意見を否定する時はそういう【叱り方】というか諭し方で。


同い年なのに随分大人びてるなっていつも感心してしまう。


「大丈夫?病院とかいった?」


「ん、家にものもらいの目薬があったからそれ差すつもり。良くならないようだったら病院行くからそんなに心配しないで?」


「ならいいけど……黒板とか見難かったら言ってね?私のノートでよければよくなってから写せるように治るまでコピー取るし」


「一応昨日よりはよくなってるから大丈夫だよ。見難いけど完全に見えないわけじゃないし。でもありがと、みちる」


「ううん。できることがあるなら力になりたいなって思って」


みちるの優しさの半分をもう二等分してあたしと君妻がもらったら柔道部女子の派閥争いももうちょっと平和になるのかなー。


水と油以上に混じる可能性がないから優しさもらってもお互いには発揮できずに今のままかなー。


でもそんな絵空事を叶える方法を考えるより自分がそういう気配りができる人間になろうって努力する方がずっと現実的だし、


自分で人生を切り拓いてる充実感があるよね。


時間はかかるかもしれないけど、幸いお手本になってくれる人はいるわけだし。


一歩ずつでもそうなれるよう進んでいけたらいいな。


みちるにそう告げると彼女はとても照れながら、私は梓みたいにぐいぐい前に進める力があるのが羨ましいよ。そういってアタシのことを褒めてくれた。


「あはは、ありがと。でも止まることも覚えないとね。


暴走した結果怪我するのが自分だけならともかく人を巻き込んだら確実に後悔するしさ。


止めてくれるみちるがいつもその場にいると思って暴走して、いなかった時にいる時と同じノリで突っ込んでったら洒落にならないもん」


「ふふ、梓は梓が思ってるよりずっと人を思いやれる心を持ってるって、私は思うけどな」


「あんまり褒めると調子に乗って暴走列車が暴走特急になっちゃうよ?」


「もう、梓ったら」


よかった、ちゃんと笑えてる。


最初はちょっと無理してたけど、ものもらいって嘘は吐いちゃったけど。


あたし、ちゃんと笑えてる。


彼が最後に願ったように、笑えてる。


笑い方が分からなくなるんじゃないかって、正直不安だった。


もう二度と笑えないんじゃないかって、半ば本気で思った。


でもちゃんと笑えてる。


ぎこちなく見えるかもしれないけどみちるといることで心が少しずつ解けていくのを感じる。


もしかして察しのいいみちるは何かあったことを感じ取って、ものもらいっていう言い訳をくれたのかな。


それであたしの心を遠回しに解してくれてるのかな。


だとしたら気配りのうまい親友に、本当に感謝だ。


泣き寝入りするつもりも、最後の言葉を守らずにいつまでもめそめそ泣き続けるつもりも、


自分に誓った『明日からは普段通り』って言葉を破るつもりもなかったけど。


それでも自分一人じゃこんなに早く笑顔を取り戻せはしなかったと思うから。


「ありがとね、みちる」


「え?なにが?」


「うん、色々」


「え?え?」


きょとんとしているみちるに対して自然と笑みがこぼれる。


「あ、そろそろ急がないと遅刻しちゃうよ。いそご?」


「うん」


家族には恵まれなかったのかもしれない。


でも生きてる人も、死者もあわせてあたしを取り巻く人にはすごく恵まれてると思う。


……まぁ、君妻は例外として。


でも、君妻は君妻で遠慮なくガンガン本音をぶつけられる貴重な相手だと思えばやっぱり恵まれてるのかな。


それが喧嘩にしかならないことは周囲にとってはいい迷惑だろうけど。


得たものは、たくさんある。


喪ったものも、たくさんある。


でも喪って初めて見えてきたものも、多分ある。


それは今まで当たり前だと思っていた、世界からの優しさのようなもの。


世界なんて優しくないと思ってた。


酷い世界に生まれてきてしまったと、心のどこかで思ってた。


両親に生まれてきたことを罵られるあたしなんて、


生きていてもなんの意味もないんだっていうのが、


幼少時代に刻み付けられたコンプレックスでありトラウマでもあった。


でもそんなあたしを死んだ後も気にかけてくれる人がいた。


友達は反発心がわかない優しさで包み込むように傷を癒してくれた。


そんな優しい人たちに、あたしは今からでも何か返せるだろうか?


彼に直接恩返しをする機会は、あるのかどうかすら分からない。


だけどあたしが知ってる範囲で、彼の性格を考えて、もしもう一度会えた時に胸を張って再会できる自分で在りたいとは思う。


たとえ会えなくても、彼に誇れる自分で在りたいと思う。


みちるが胸を張って他の人に「私の親友だよ」っていえる存在でありたいと思う。


そういう小さくて、でも大きな目標と支えが人が前に向かって歩いていくときには必要だと思うから。


否定だけされ続けたら前に進めない。


自分の意思だけじゃ疲れて休みたくなる。


情けは人の為ならずっていうように、誰かに誇れる自分で在りたいと思う気持ちは自分を変える大きな力になる。


最初からうまくいくとは思わない。


何度も挫折して、そのたびにやっぱり自分はあの人にふさわしくないのかもしれない、と落ち込んで。


それでも次のチャンスが巡ってくれば立ち上がればいい。


この世に意識がある限りはやり直しは効くから。


たとえその途中で『その人にとって誇れる自分で在りたい』と願う人が呆れて離れていってしまっても、


いつか再会した時にもう一度認めてもらえたらいいと思う。


そんな修復もできないほど完全に見捨てられても、次に出会えた人に対してはそんな風にならないようにという教訓は残る。


学校へ着いて、靴箱で靴を内履きに履き替えて。


担任に無断欠席したことを謝って、目の腫れをやっぱり酷く心配されて。


クラスメイトも驚いたようにあたしの顔を見てたけど深く突っ込んでくる相手はいなかった。


ただ大丈夫か、不便があったら手伝うから。


そんな優しい言葉をくれた。


うん、やっぱりあたしは周りの人間に恵まれてる。


目蓋が腫れて見難い視界で黒板の板書をノートに写し、プリントを埋め、お昼はみちるや親しいクラスメイトと食べて。


体育の授業は出られるのか、と体育科の教師に聞かれたけれど部活に出るつもりなのに体育を休むわけにはいかないから大丈夫です、と答えて。


幸い球技じゃなく短距離走だったから人に迷惑はかけなかったと思う。


球技だとボールに気づくのが遅くなってラリーを続ける妨げになったかもしれない。


午後の授業を終えて帰りのホームルームも済んであたしとみちるは部活に向かうために第一更衣室へ向かった。


「あら、噂通りの酷い顔ですこと。よく学校に来る気になったわね」


……でた、君妻。


「ものもらいだって聞いたけれど人に移る病気じゃないでしょうね?


貴方に病気を移されることほど迷惑なことはないわ。


治るまで家で大人しくしていれば余計な気回しをしなくて済んだのに、本当気の利かない人ね」


「君妻さん」


反論しようと口を開きかけたあたしを制してみちるが君妻に声をかける。


この二人が話をするところを見るのは珍しい。


なにを言う気なんだろう?


「仮にも病人に鞭打つような言い方はよくないよ。


いつもは梓も言いたい放題いうからおあいこって思って口挟まなかったけど、


これ以上病人を貶めるようなことを言うのは放っておけないし、人としてどうかと思う」


やんわりとした口調。


でも目はしっかり君妻を見据えていて、まっすぐな視線は君妻をたじろがせたようだった。


「名家の出身だって誇りを持ってるなら、その名家の歴史に泥を塗るような言葉を人に向かって投げるのはよくないと思うな。


君妻さんの印象悪くなるだけだよ」


「……っ」


言ってることはあたしとそんなに変わらないんだけど、喧嘩腰のあたしのセリフには居丈高に反論できる君妻も、


厳しいながらも案じる色をにじませたみちるの言葉にはとっさには言葉が出ないようだった。


「二人が仲悪いのは毎日顔合わせてるから知ってるよ。


でも仲が悪いからって病気の人を貶めていいって思ってるなら、それは違うって私は考えてるから。


それを踏まえたうえでそれでも梓を貶めるっていうなら病気が移って君妻さんに被害が出てからにしてくれないかな?」


それなら私も病院できちんと移らない病気だって確認しないで学校にきた梓も悪かったね、って言えるから。


そう言って言葉を締めるとどうかな?と首を傾げて君妻を見上げるみちる。


「ほ……放っておいてくださいまし!」


みちるの静かなプレッシャーに負けたのか正論過ぎて返す言葉が浮かばなかったのか、


君妻には似合わない、負け犬のようなセリフを悲鳴のような声で上げた後そそくさと取り巻きと一緒に更衣室を出ていく。


「……君妻さんに真っ向から反発するのって勇気いるね。梓はやっぱりすごいよ。心臓の音が周りに聞こえちゃいそう」


ふっと目を和ませてみちるが微笑む。


「すごいのはみちるのほうだよ。あたしだったら喧嘩でお互い嫌な思いする言い方になっちゃうもん。


あたしも君妻も短気だからさ、お互い自分の我を通そうと言葉が荒っぽくなるんだよね」


みちるが君妻を諭す体裁を取りながらもあたしの肩を明確に持ったことがすこし意外といえば意外だった。


基本的にみちるはあたしと君妻のやり取りに口をはさんだりしなかったし、本人も君妻さんには私の考えはあわないんじゃないかな、って前に言ってたから。


もしみちるが仲介役を買ってでてくれなかったら、あたしはいつものように喧嘩できていただろうか。


泣いた原因を君妻に知られて散々馬鹿にされて、暴力に訴えるような短慮を起こさずに済んだだろうか。


みちるはそれを見越して、敢えて『考えが合わないと思う』と言っていた君妻に対して苦言を申し立ててくれたのかもしれない。


「…ありがと、みちる。今日はいつも以上にバーストしそうだったから、正直すごく助かった」


「ううん。いいたい事あったのは私もだし、言いたいように言っただけだから気にしないで?」


いつもだったら止めないんだけどね。


そういってもう一度微笑むみちる。


「今は水と油っていうかコブラとマングース状態だけど、梓と君妻さん、


意見が合うようになるまで喧嘩すれば案外いい友達になれるんじゃないかなって思うんだ」


「そうかなぁ…喧嘩ばっかり泣きもするけど。


…っていうかどっちがコブラでどっちがマングース?


あたし、蛇ってあんまり好きじゃないんだけど」


「喧嘩するほど仲がいい、を盲信するわけじゃないけどね。


それだけ本音をむき出しにしてぶつかり合えるって事でしょ?私とは違った友達関係が築けるんじゃないかな。


…どっちがコブラでどっちがマングースなのかは、ご想像にお任せしますってことで」


ふふっと笑ってごまかすと着替えはじめるみちるに、敵わないなぁ、なんて思いながらあたしも道着を身に着けるために制服を脱ぎ始めたのだった。


顧問は教師陣から目の腫れ具合を聞いていたらしく特に驚いた様子は見せなかった。


ただし受け身はいつも以上にしっかりとるように、と注意される。


視界が狭い分足技の不意打ちで倒れた時のことを想定しているのだとわかって素直にはい、と答えると稽古に参加する許可が下りた。


乱取りの時の不意打ちは確かに厄介だけど準備体操や打ち込みの時の間合いは眼で見る前に体が覚えていることに今更気づく。


準備体操は前の人が何回動いたら自分が動けばいいのか、


考えるまでもなく染みついていたし打ち込みでは相手と組んだ時点で踏み込むべき距離をやっぱり自然と取ることができた。


もしかして自分で思ってるより目、腫れてないのかな。


もともと泣き腫らしただけだから治り始めてる?


ものもらいってそんな短時間で治るものだっけ…君妻とかに勘ぐられて泣いた原因探られるのは嫌だな…。


稽古中の小休憩のときに息を整えながらそんなことを思う。


みちるは喧嘩しつくせば案外仲良くなれるかも、とは言ってたけど今のあたしにはそれを受け入れる心の余裕がない。


…そりゃ、喧嘩しっぱなしより多少は打ち解けられて本気の口喧嘩じゃなく冗談の言い合い、


みたいな関係になれたらあたしにとっても周りにとっても険悪な雰囲気ばらまかれるより居心地のいい時間が増えるとは思うけど。


それはあたし側の都合であって君妻がどう思ってるかなんてさっぱり分からない。


そもそも最初からあたしを貧乏人って見下してかかってるお嬢様にあたしと友達になるっていう選択肢はあるのか。


そっからまず疑問だし。


「目が腫れてるからもっと苦労するんじゃないかなってちょっと心配だったんだけど私の気の回しすぎだったみたいだね。


ほとんどいつも通り動けてるみたいでなんだか梓よりほっとしちゃったかも」


タオルで汗をぬぐいながらそんな風に声をかけてくれるみちる。


「うん、意外と体が覚えてくれてたからあたしもほっとした。…でもほとんど、ってことは完全にはいつも通りじゃないんだね」


「寝技乱取りの時とかいつもより隙をついて体勢崩しやすかったからね。


いつもより視界が狭い分、動きが読めない乱取りは苦戦するかも。


立ち技だと足技も入ってくるしね」


「あー……そうだよね。参ったな、足技で試合に負けること結構あるのに」


「視界が悪いうちに心眼を開いちゃえば無敵だね」


思ったより動けているな、と思っていたけど言われてみれば確かに寝技乱取りでは後手に回ることが多かったと気づいて、


微妙に落ち込むあたしをみてみちるが茶化すことで気分を引き上げてくれる。


会った時からそうだけど、やっぱりみちるの傍は居心地が良くて息がしやすかった。


聞かれたくないことは察した時点で他の話題に振って、落ち込んでる時はさりげなく引っ張り上げてくれる。


本当に気配りの上手な子なんだな、と改めて思う


。 「意外と動けてますわね。立ち技乱取りでは手加減せずに参りますわよ」


少し離れた場所で取り巻きに囲まれていた君妻がいきなりこっちに来たかと思ったらそれだけ言って戻っていった。


……いったい何が言いたいんだろう。手加減して、なんていった覚えないんだけど。


「今のってあたしに通じるように訳すとどうなるの?」


とりあえず人の心の動きにあたしより数倍敏感なみちるに翻訳して、と助けを求めてみる。


「うーん…君妻さんとはそんなに話したこともないし、結果的に親しくもないから難しいんだけど…。


君妻さんなりに心配してたってことじゃないかなぁ…?」


いまいち自信がなさそうに言われた言葉にあたしもうーん、と唸ってしまう。


「こういうのって、なんていうんだっけ?」


「えーっと…ツンデレ、だっけ?」


「お嬢様ならもってそうな属性ではあるけど君妻にデレられてもなぁ…」


「お嬢様の定番所持属性だよね。漫画だと相手は大体執事とかだけど」


「え、あたしが君妻の執事とか本気で勘弁」


「漫画の話だってば」


お嬢様、とか言いながら君妻にかしずいでいる自分を想像して全身に鳥肌を立てるあたしにみちるがからころと笑う。


「でも仮に心配してのデレ発動だったとしてもそれは絶対みちるのおかげだよ」


「そうかな。だったら私の言葉が君妻さんに少しでも届いたってことだから嬉しいんだけど」


あたし達を北風と太陽に擬えるならあたしと君妻は北風、みちるは太陽だと思う。


強い言葉で他者を圧倒させるだけが強さじゃない。


やんわりと相手の懐に入り込んで無駄な諍いや反感を生むことなく相手の思考を変える、みちるの話し方だって立派な強さだ。


…というか世渡りのしやすさでいったらみちるの言葉遣いの方が圧倒的に適してると思う。


「あたしもオブラートに包んだものの言い方を学ぶべきかなぁ…」


「どうしたの、急に」


「毎日いがみ合ってても変えられなかった君妻の態度をみちるが今回の接触だけで変えちゃったからさ。


朝も言った気がするけどいつまでも猪突猛進じゃ駄目だよなーって」


「でも梓みたいなまっすぐな言葉の方が相手の心に響くことも結構あると思うよ。


君妻さんみたいなタイプはまっすぐに本音ぶつけられると意地になって反抗しちゃうから私の話し方の方が向いてたのかもしれないけど。


私は梓には梓のよさがあるし、それを生かしてほしいな。本音をむき出しにしてぶつかり合うって私にはできない喋り方だから」


両方できたら最強なんだけどねぇ、それじゃあほとんどチートだよね、話術にとって。


その言葉に思わず苦笑してしまった。


確かにチートもいいところだ。


直情的に、愚直なまでにまっすぐぶつかる喋り方と、


相手を慮って思考を先読みして反論を防ぐ諭すような喋り方を両立できる人なんて見たことないし多分無理だろう。


諭すような言い方を一度見てしまえば体当たりの言葉は本気でも多分演技に見える。


穿った見方かもしれないけど「体当たりできたほうが自分には効果的だからぶつかる振りをしてるんだ」って感じるかもしれない。


「両方に特化しなくてもせめて臨機応変にできるくらいには柔らかい物言いもできるようになりたいよ」


「梓も強気で来られると負けるか!って意地になっちゃうタイプに見えるからねぇ。


ある意味同族嫌悪っていうか似た者同士っていうか」


仲良くなったら本当、面白い組み合わせになりそうだなぁ。


そんな風に笑うみちるに毒気を抜かれて小休憩は終わった。


立ち技乱取りで君妻と当たる。


相手の不意をついての足技でポイントを稼ぐのがうまい君妻だけど、馬鹿にされる要素を一つでも減らすために必死で倒れるのをこらえた。


それだけじゃ意味がないから足技からの連携に備えて体勢が崩れないようにも注意する。


体崩しをしっかりと、鋭く踏み込んで勢いよく刈る――!


何度も注意されて脳内再生できるようになった彼の声に従うように体が動いた。 パン!


君妻の両手が受け身を取るために叩いた畳の音で自分が初めて足技で、試合でだったら一本を取れたくらい綺麗に足を刈れたことに気づく。


顧問がちょっと目を見張っていて、あたしたちの周りで乱取りをしていた部員たちも一瞬動きを止めた。


「………二度目はありませんわよ」


悔しそうに唇をかんだ後、君妻が立ち上がる。


それからはさっき以上に猛攻がお互いに続いて体勢を崩すことはあっても決め手には欠けた。


ブザーが乱取り一本目の終わりをつげ、その場から互いに数歩下がって終了の礼を取る。


君妻は口は悪いけど相手に同情したり油断したりで手を抜いたりはしない相手だ。


実力も女子の中ではアタシと拮抗してる。


むしろ足技の上手さがある分向こうのほうがすこし上かも知れない。


そんな相手から、苦手な足技でほぼ一本に近い形を取れた。


すこしは、彼の教えが身についてきたって事かな。


報告できたらよかったのに。


きっと報告しても『まだまだ未熟なんだから有頂天になってる暇があったらもっと励め』とか言われるんだろうけど。


でもさっきのがまぐれじゃなかったなら、そのあとに一言くらいは褒めてくれたかな。


厳しいコーチだったけれど、悪い癖が直った時はいつも以上にぶっきらぼうな口調でほめてくれたから。


後ろは振り返らないと決めたけど、今ちょっとだけ。


今日まで彼がいてくれたらよかったのにって思ってしまった。


教えられたとおりに動けたんだよってちゃんと彼が宿っているパチンコ台に向けて報告したかった。


仏前報告はするつもりだけどそこに明確にいる、と分かっていた相手がいなくなった途端に嬉しい報告をできるようになったのが恨めしい。


報告して、じゃあ次はどうしたらいいか。


それを聞くのが彼に個人コーチを頼むようになってからの大きな楽しみだったから。


その後の乱取りも、視界を見えない分を補うようにいつも以上の集中力が発揮されたのか特に大きな凡ミスとかはせずに終えることができた。


あぁ、このこと報告したら九割九分『普段からそれ位集中して取り組め』って怒られるな。


過ごした時間は、確かに短かった。


でもその短い時間の中だからこそ、密度は濃かった。


だからいなくなった後でもどんな反応が返ってくるか、多分大体正確に想像することができる。


彼の存在はこの世から失われてしまったけれど、あたしの心からまで喪われてしまったわけじゃない。


あたしが彼のことを覚えていようとする限り、時間の経過とともに思い出すのは困難になっていくとしても彼という存在自体を忘れることはない。


彼に教わったことは日々の糧としてあたしを生かすだろう。


柔道だけじゃなく、共に過ごした楽しい思い出は、辛い時に立ち上がる力となってくれるだろう。


整理体操を行って神棚と顧問に向けて互いに礼。いつものように諸注意を受けた後今日の部活は終了、解散。


相変わらずデオドラントスプレーの匂いで凄いことになっている更衣室で着替えて道着を畳んで帯で結ぶ。


道着を運ぶために使っているバッグに入れて知人以上友達未満な女子たちに挨拶をしてみちると一緒に途中まで帰る。


「まさかいつもより不利な状態であんなに綺麗に君妻さんに技決めるなんて思わなかったよ。びっくりしちゃった」


「うん、あたしも驚いた」


「これはますます気合入れて梓から大内刈りと大外刈り教わらなきゃなぁ……」


「ならあたしが小内刈りと足払いちゃんと上達してるか確かめる役になってくれる?


かける相手が空気だから上達してるのか実感わかなくて」


「私でいいならいつでも。武道館、個人で借りるなら三時間くらいで学生なら百円しないんだって。


今度一緒に稽古しようよ。


足技の練習なら顧問がいないと駄目なような大けがの心配も少ないし」


「え、あの武道館そんなに安く借りられるの?いくいく。外だと雨の日は稽古できないし」


「しかも二人で借りるなら割り勘だから半額の半額だよ」


「へぇ、意外と穴場なんだね。武道館とかって貸し切りだともっと高いと思ってた」


みちるの提案に目を丸くしながら帰り道をたどる。


団体予約だとそれなりの値段はするらしいけど、でも思っていたよりずっと安かった。


「予約しなくても、その日使う予定がない時は使わせてくれるらしいよ。


でも一人だとストレッチとか一人打ち込みとか受け身の練習しかできないからもったいないなって思ってて。梓がその気になってくれてよかった」


「あー…確かに柔道は相手いないとほとんど稽古が成立しないもんね。


剣道とかだったら鏡前にして素振りとかでも多少手応えありそうだけど」


「うん、そうなんだよね。いくら安くても相手がいないんじゃ三時間も使い切れないんだよねー…」


貧乏性、というわけでもないけれど三時間使えるのに準備運動やストレッチ、受け身の練習と一人打ち込みだけでは時間は余るだろう。


せっかく場所を借りられるならもっと有意義に過ごしたいと思ってて、とみちるはほのかに笑った。


「私、突出して強いわけじゃないしどっちかっていうと教えてもらう立場になっちゃうからさ。


休日とか、遊びに行かないで部活のあと個人特訓に付き合って、ってなかなかいいだせなくて。


ありがとう、梓」


「こっちこそだよ。強くなるためには努力が必要だけど一人じゃどうにもならない部分ってやっぱりあるし。


もっと早く言ってくれてもよかったのに」


「うん、武道館の借りられる料金調べて梓に話そうと思ったんだけど、


ちょうどそのころ個人コーチにパチンコ台拾ったって聞いて。


私に教える時間より実体化できなくても個人特訓してくれるコーチとの時間の方が梓には有意義だろうから邪魔しちゃダメかなって」


「あ……」


こういう時、なんて言えばいいんだろう。


気を遣わせちゃってごめん?


それともそんなこと気にしないで誘ってくれればよかったのに?


それともあたしのことを第一に考えてくれてありがとう?


どれもどこか違う気がして言葉に詰まる。


「でもすごく優秀なコーチなんだね、梓に足技教えてるコーチ。生きてる頃はどんな感じだったのかな」


「……もっと早く、紹介するよっていえばよかったね。ごめんね、もういないんだ」


「……うん、なんとなく気づいてた」


「え?」


みちるが痛むように眉を寄せる。


「ものもらい、私、結構よくかかるんだ。


それに泣き虫だったから昔はしょっちゅう目を腫らして学校に行ってからかわれたの。


だから、梓の目の腫れ方がものもらいじゃなくて泣きすぎたせいだって、みて分かった」


あぁ、やっぱり。人の気持ちに敏いみちるだから気づかれてるかも、と思ってたけど。


気づいて、知らない振りをして。泣くことを認めたくないあたしに周りに対する言い訳まで、考えてくれたんだ。


それで、あたしが自分から言い出せなくて罪悪感を感じる前に自然に言えるように武道館の話を今、してくれてるんだ。


「……ありがと。もっと早く紹介できなくて、ごめんね。


武道館の人に変な顔されても彼がこっちにいたころなら台車に載せて連れていって、


中には二人で協力して持ち込んで、あたし達が稽古するところ、見てもらって。


お互いに伸ばすべきところ、もっと的確に教えて貰えたのに……」


「ううん、いいの。そうなってたら確かに素敵だったけど、言い出せなかったのは私の弱さだから」


もっと梓を信じればよかったんだよね。ごめんね。


そんな風に謝られて、昨日一生分使い切ったと思っていた涙が溢れそうになる。


「家、ぼろいし。凝ったおもてなしとか、無理だし。


仏壇じゃなくてパチンコ台だけど。


もう依代だったもの、ってだけで彼はいないけど。


それでもよかったら今度会いに来てあげてくれないかな?」


「うん、いくよ。絶対行く」


「…ありがと」


半分泣き笑いになってたかもしれないけど、なんとか涙はこぼさずに済んだ。


そんなあたしをみてみちるももらい泣きしかけたような顔で、それでも笑い返してくれた。


「今度、お線香上げに行くね」


「うん、待ってる」


いつもの分かれ道で、いつもよりしんみりとした空気のまま、あたし達はそれぞれの家に帰るための道を選んで歩き出した。




もう彼はいないけれどここが甘い、と言われたことは部活だけじゃ追い付かないくらいある。


だから一人でも稽古はできる。


ジャージに着替えていつものように、けれどパチンコ台は外に出さずに足払いや小内刈りの練習を始める。


自分の体勢は崩さない、相手の体勢は最大限に崩す、踏み込んで――……。


自分がバランスを崩していないか把握するために張ったゴムを結んである木のところまで足技を続けながら進み、ふと人の気配を感じて振り返る。


「……君妻?」


予想外の人物の姿に一瞬頭が真っ白になった。


「廃屋かと思ったわ。あまりに古くて。


今日は個人コーチのパチンコ台とやらはいないんですの?」


「…………」


「なによ、私には会わせたくないとでもいうのかしら。心配しなくても横取りしたりなんてしないわよ」


「……一日、遅かったね」


「…?」


「彼なら、昨日の朝、垣根を越えて遠くへ行っちゃったよ」


「……そう」


戸惑うように目を伏せる君妻。


コイツと向き合ってて喧嘩じゃない口調で話をするなんて初めてなんじゃないかな。


「雑霊を個人コーチにした、なんて話を聞いた時は正気を疑ったけれど………。


………いいコーチに、恵まれたようね。私から試合だったら一本取れる結果を、足技で引き出したんだもの。


足技に関しては顧問も頭を悩ませていた貴方が、よりによって足技を一番得意とする、この私からよ」


君妻の声が震えている。それは怒りや屈辱からくるものでなく、死を悼んでいるものだとなぜ直感できたのかは分からない。


「敬意を表して、会ってみたかったわ。


貴方の特別コーチに。


そして雑霊に対する認識を改めたかった。


成果が出たことが遅かったのが悔やまれるわ。


……一番報告したかったのは、貴方でしょうし、私が悔やむのは筋違いかもしれないけれど」


「……君妻にも、ちゃんと紹介したかったな。足技だけじゃなく投げ技のコツも教えたがってたけど組む相手がいないと教えにくいらしくて悔しがってた」


「昨日休んでいたのは、……いえ、なんでもないわ」


問いかけてやめたのは、きっと君妻の不器用な優しさだ。


あたしや君妻はみちるほど人の心を上手に予想できないし、とげのある言葉を投げ合うだけの関係だった。


彼を喪って一日泣き続けたことを、今なら恥とは思わないけれど、喪った痛みはまだ生々しい。


敢えてその痛みに触れて痛みを和らげてくれたのがみちるの優しさ。


それはあたしとみちるの距離が親しいからできたことだ。


君妻がそれをやったら逆に傷を抉ることになっただろう。


それに途中で気づいたから、君妻は言葉を濁して触れないことを選んだ。


それも、あたしと君妻の距離を考えるなら、十分すぎるほど相手を思いやった優しさの結果だと、あたしは思う。


「用意がないから今日はお暇するわ」


「…?用意?」


「……今度、お花と線香、お菓子位はあげさせてもらっていいかしら。


仏壇はなくてもパチンコ台はまだ家にあるのでしょう?」


「…笑わないんだ?パチンコ台を仏壇代わりにするなんて変だ、って」


「今まで何のかかわりも持たなかった仏壇に素性も良く分からないような霊を祀るより、


その霊が何かしらの理由で依代にしていたパチンコ台に敬意を表したほうが、この場合はふさわしいと思っただけよ」


「…そっか。歓迎するよ。こんなボロ家に上がってってくれるなら、だけど」


「庶民の生活レベルを知る社会勉強の一環とさせていただくことにするわ。では、失礼。


私から一本を取ったのだからそれに恥じない技量を保てるようこれからも励みなさい。


そうでなければ貴方に負けた私の恥となるのだから」


「言われなくても。……みちるが、武道館を学生なら百円払わずに三時間は借りられるって教えてくれたんだ」


「…それで?」


「君妻も一緒にどうかなって。足技なら君妻の方がうまいし、三人でなら客観的に見てどこが悪いか教える人ができる」


「…考えておきますわ。では。


……目の腫れは大分引いたようですけれど、汗の処理をしっかりせずに今度は風邪で寝込んだ、


なんて無様な真似を晒さないようお気を付けあそばせ」


「わかってる。暗くなってきたから君妻も気を付けて帰るんだよ」


「言われなくとも」


ツン、とそっぽを向いて歩き出す君妻をその場で見送る。


姿が完全に夕闇に溶けたころ、なんだか笑いがこみあげてきた。


小休止の時もみちるとこっそり話してたけど……君妻は本当にツンデレなのかもしれない。


今まで壮絶にツンケンしあってたからあたしももしかしてツンデレなのかな?


意外と折れどころさえ見つかれば仲のいい友達になれる気がするって言ってたみちるの言葉に、こんな形で実感がわくことになるなんて全然想像してなかった。


今はまだ、どっちかっていうとライバルって認識の方が強いけど。


もしかすると好敵手って関係になれる日も、そう遠くなかったりするのかな。


喪失の痛みはまだはっきりと感じ取れる。


けれど何かを喪った分、これから大切にできるなにかを掴んだ気がする。


それを手放さないよう、彼が遺したものをフイにしないよう、もうちょっと足掻いてみよう。


立ち止まるのも、泣いて諦めるのも、あたしには多分、まだ早いから。


次の休日、部活を終えた後一人で稽古をしているあたしのところにみちると君妻が揃ってやってきた。


パチンコ台に備える、花とお菓子を持って。


もちろん、柔道着も。


線香はあれ以来親の位牌がおさめられている仏壇にあげるものと共用で使っているものを二人に出し、


順番にパチンコ台に向かって手を合わせる。


それはあたし達以外の人にとっては多分とても奇異な眺めとして目に映っただろうけれど、此処にはそれを笑うような人はいない。


手を合わせた後、軽くあたしのために休憩の時間を取ってくれた二人にお菓子を出して多少は友人の集まりに見えなくもない会話をする。


君妻とは、喧嘩の回数は激減したけどまだたまに意見はぶつかる。


けど今日はパチンコ台に敬意を表する、という前に家に来た時の言葉通り無意味に突っかかって来ることはなかったし、


あたしも突っかからないように気を付けた。


ぎくしゃくとしてるあたしたちの間をみちるが取り持って、なんとか喧嘩直後に仲直りしたような、


友達と言えば友達なんだけど若干気まずいような、という雰囲気で落ち着いている。


交戦期間が長かったから、君妻を親友と呼べるようになるまでにはまだまだ長い時間がかかるだろう。


「さて、とじゃあ武道館行こうか。予約、してあるの?」


「うん、予定が入ってないから三時間で足りないようなら多少延長してもサービスしてくれるって」


「本当に意外と安くて驚きましたわ。しかも学生はそこから更に半額だなんて」


「元取れてるのかはちょっと心配だけど市営だし、もっと武道に親しむ若い人が欲しいって意味での料金設定なのかもね」


文武両道の学校だけど運動部の花形と言えばバレーやバスケット、陸上などメジャーなスポーツばかりだ。


室内プールがあるから水泳部も強いけど水泳の大会は夏に多いし、通年通して大会がある部活の中では柔道部は規模が小さい方。


それでも顧問は的確な指導ができる人だし、


筋トレに必要な器具も充実してるからやっぱり他の出費を削らないといけないとはいえ今の学校にスポーツ推薦で入れたことはあたしにとって幸いだった。


みちるや……今はぎこちなさが目立つけど、君妻って存在にも会えたし。


「置いていきますわよ」


「今行くよ!」


使った食器は帰ってきてから洗うことにして、鍵と道着類をもって急いで家を出る。


今日もいい天気だな、と空を見上げた後鍵をかって三人で武道館に向かった。


柔道は室内競技だから別に天気が悪くても道場があるなら関係なく稽古はできるけど、


雨でぬれた道着を着て練習するよりは乾いた道着で練習する方が組む相手も、自分にとっても気分がいい。


あぁ、でも部活で汗かいたしちょっと湿ってるかな。


まぁそれはお互い様だろうから勘弁してもらおう。


自転車で武道館まで向かって、受付で用紙に記入する。


会計は後で、ということだったので更衣室を借りて着替えると三人でさっそく部活でやってる準備運動から始めることにした。


部活で解したとでも次に稽古を始める時は怪我の予防と体が動くことの確認のために念入りに準備運動を。それが顧問の口癖。


「打ち込みなんだけどさ、二人でやる普通の打ち込みだと型を見てもらう分にはいいけど一人余っちゃうじゃない?


だから三人打ち込みを多めにやったらどうかなって思ったんだけど……」


「あぁ、いいですわね。部活ですと後回しにされがちな練習ですし」


三人打ち込みは、技をかける相手と受ける相手、


受ける相手の帯を掴んで座って重しになる事で技をかける相手が全力で技をかけられるようにと工夫された打ち込みだ。


「じゃあ普通の打ち込みでそれぞれの技の改善点を見つけた後、それを頭に置いて三人打ち込みで全力を出して技をかけたらいいんじゃないかな」


みちるも賛成してくれて準備運動を終えてからまずは普通の打ち込みを交互にやることになった。


君妻は足技の指導がうまいし、みちるは細かい動きをよく見てこうした方がいい、というアドバイスがきめ細やかだ。


あたしが二人にとってどれだけ力になれたかは正直二人じゃないから分からないけど、


熱心に聞いてくれたからそこまで的外れな意見を出して足を引っ張ったわけではないと思いたい。


足技を得意とする君妻に、人の受け売りである知識を披露するのはちょっと勇気が必要だったけれど、


あたしが常日頃言われ続けた改善点を聞かれて挙げていくと、


もともと得意分野でもある分呑み込みが早かったのか君妻の動きがますますよくなったとあたしたちの目から見ても良く分かった。


「伝聞でこれだけ実力の底上げにつながるのでしたらさっさと先入観を捨てて教えを乞いに行くべきでしたわ」


「もうちょっと教えがいのある生徒がいりゃいいのに、そうすればお前と組ませて具体的な指示もできたし、ってよくぼやいてたからそれに関しては同感」


彼について語るとき、まだ完全に痛みは消え去っていないけれどこの二人の前では比較的穏やかな気持ちで思い出を語れる自分がいることに気づく。


それは痛みに慣れたからではなく、二人が彼の死を悼んでくれたからだろう。


もう少し早く君妻と和解出来ていて、二人に彼を紹介できていたら。


きっと、もっと有意義な時間になったんだろうな。


そう思うときっかけが彼の消失直後だったことが惜しくてならない。


「ぼさっとしていないで稽古に励みなさい。時間は有限ですのよ?」


君妻の言葉に我に返って謝罪すると三人打ち込みを始める。


君妻との和解は、もしかすると彼からの最後の、目に見えない贈り物だったのかもしれない。


一人身の回りから欠けた分、同年代の女子と切磋琢磨できるように、という。


そんなことを考えてしまうくらい、君妻と和解するきっかけになった足技はあの日やけに冴えていたから。


あれ以来足技では君妻からポイントを取れるような成果は出ていない。


だからこそ余計にそんな風に考えてしまうのかもしれない。


でも、それが彼からの贈り物だったとしても、そうじゃなかったとしても、あたしにできることは一つだ。


みちるや君妻と切磋琢磨し合い、より上を目指す。


彼が連れていきたかった、かもしれない場所が何処だったのかは分からない。


もしかするとそんなこと望んでないのかもしれない。


それでも上を目指したいとあたしが思い続ける限り、上を目指そう。


一つの絆から生まれた新しい絆を大事にしながら、もう走れないと思う日が来るまで駆け抜け続けよう。


そしてできる限り笑って過ごそう。


笑って過ごして、柔道で七転八起して、それでも笑って。


いつか体の動かないお婆ちゃんになるまで人生というコースを走り続けて。


霊としてこの世に留まるとしても、まっすぐ垣根を超える道を選ぶとしても。


最後も、やっぱり笑って看取る人に挨拶できるように。


彼が望んだように、一回でも多く笑える人生を過ごそう。


それが、あたしなりの彼へのお礼と供養になるって、信じてるから。




「梓、入ってもよろしい?」


「香織?」


ノックの音と一緒に新婦控室に礼装を身に着けた女性が二人入室する。


花嫁の学生時代からの友人だ。


「みつるも。今日はきてくれてありがとう」


「親友の人生の門出だもん、来て当たり前。


っていうか来なかったら嘘でしょ。


法事があるわけでもないのに」


みつるが茶目っ気たっぷりにそう告げると一足先に結婚して姓を変えた香織も同意を示す。


「それにしても、梓が結婚するとは思いませんでしたわ。


パチンコ台の彼に恋をしていて、それを抱いたまま一人寂しく老後を過ごすと予想していたのですけれど」


「もう、彼とはそんな仲じゃなかったってば」


「だってその割に頑なに名前教えようとしないじゃない。最後に教えてもらったって聞いたけど?」


「みつるまで……大体、何歳年はなれてると思ってるの。


あたし小学校にあがるか上がらないかの時に成人位だったんだよ?ロリコンになっちゃうじゃない」


「年の離れた、死者と生者のロマンスというのも読み物としてはありだと思いますけれど……


現実に添い遂げる相手を見つけられたこと、祝福させて頂きますわ。


どうか末永く幸せに爆発してくださいませ」


「ちょ、香織、どこで覚えたの、そんな言葉」


「梓が私の結婚式の時に貴方より一足先に控室にきて送ってくれましたの。間違っていました?」


「あってるような間違ってるような…」


頭痛をこらえるようにみつるが額を抑えたけど口元は笑ってる。


「とにかく、幸せにね!」


「結婚生活で何か困ることがあったら先輩として相談に乗りますわよ」


「…ありがとう、ふたりとも」


「そろそろ時間かな。席に戻ろう、香織」


「えぇ。では梓、また後で」


一頻り賑やかに騒いだ後控室を出ていく香織とみつる。


「結婚、かぁ。なんか今更だけど信じられないや……」


そんなことを呟いていると花嫁付添人が入場の時間を告げた。


教会で式を挙げた後、外に並ぶ人たちの前へ今日から夫となる人と一緒に姿を見せると盛大な拍手がわきあがる。


「えっと、改めて。これからよろしく、梓」


柔道が縁で知り合った彼は試合以外の時は気が弱くて少しシャイだ。


四月の最後の日曜日。私たちは人生の新しい一歩を踏み出そうとして、頬に触れた柔らかな感触に足を止めた。


最初は花びらかと思った。けれどそれは花ではなかった。


雪国でもないのに、四月の終わりに、雪が降っている。


「……エンジェル・ティアー(天使の涙)…か」


「え?」


「子供のころ本で読んだことがあるんだ。四月に降る雪は天使になった故人が、この世で生きる人の幸せを願って降らせるものだって。


エンジェル・ティアーを頬に受けた人は幸せな生涯を送れるってその本には書いてあったよ」


本当かどうかは、分からないけど。縁起がいいね。


そういって照れたように笑う彼。


その話を聞いて思い出したのは、あたしの周りではあたししか名前を知らない、パチンコ台を依代にしていた不良青年の姿。


天使って柄でも、エンジェル・ティアーのようなロマンチックさを求める柄でもなさそうだけど…もしその話が本当なら、送ってくれたのは彼だ。


そんな気がした。




一つの物語は始まる前に終わった。


けれど終わりは次の始まりへとつながっている。


生命の営みが続く限り、物語は続いていく。


それは地球と生命が交わした、命の約束だ。


だから終わりを恐れることなかれ。


終わりを嘆く事なかれ。


終わりは次の出会いを運んでくれるだろう。


願わくば君に幸あれ。


そんな祈りと共に。

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