【短編小説】あいじょう
大切な人だった。
なのに今となっては貴方が発した言葉はただ文字を並べられた何かのようにまったく私の奥底に届かない。
初めて見た全てをかなぐり捨てて泣く姿。
責めることもしなかった。
淡々と。
ただ淡々と。
昨日の晩ご飯は貴方が大好きなハンバーグを作って。
最近出張が多いからかその日もやっぱり遅くて。
冷え切ってしまったハンバーグを貴方が帰ってきたらすぐ温めて食べさせてあげよう。なんて。
今思うと何て滑稽なんだろう。
何も知らず疑いもせず偽りの幸せにいた昨日。ちょっとだけ味見したハンバーグの味はとても美味しかったのに。
誰かが言った。
泣きもしない。縋りもしない。怒りもしない。
きっと大切じゃなかったのねと。
大切じゃなかったんだろうか。
だから私はあの時やり直しを乞う貴方を見下ろして。ただ淡々と。ごめんねさよならと。ハンバーグ食べてねと。それだけ伝えて。
そんな私にも少しして好意を伝えてくれた人が現れた。
私はそれをどこか遠く眩しいものを見ているかのように感じた。
彼には私にはない真っ直ぐさがあり真剣なのが震えた手から伝わってくる。親しく知った仲でなくとも彼はきっと温かな人なんだろうと容易に想像出来た。
私は言う。
貴方はもっと愛情深い温かな人と一瞬にいるべきだと。
彼は問う。
なぜ自分がそうでないと言えるのかと。
私の目の前に一瞬大切だった人の笑顔とあの日の自分が浮かんで消えた。
彼の真剣な瞳に負けたんだろうか。苦笑いを少し浮かべてぽつりぽつりと少しだけ。
今となっては遠いあの日の思い出と、泣きも縋りも怒りもしない薄情な自分を。
彼は言う。
貴方はその人がとてもとても大切だったんだねと。
大切だった?…大切だった?
大切だったんだね。貴方は聡いからもう元の日々には戻れないことも目の前の光景が現実なのもきっとすぐにわかって。
でも心がそれを現実とは認めたくなかったんだ。昨日までの大切な、幸せな日々が嘘だと思いたくなかったんだ。
泣けなかったんだね。泣きたくて泣きたくて仕方ない自分を、泣いても泣いてもどうしようもない今を認めてしまうことになるから。
彼は一時も目を逸らさず真っ直ぐに私の瞳を見ている。
そこまで貴方に愛された彼が少しだけ羨ましいよ。貴方は愛情深い人だ。
最後に少し切なそうに笑いながら言うから。
温かな笑顔がぼやけて滲んでもう目をあけていられなかった。
大切だった。大切だった…!
痺れて麻痺していた真ん中にじんわりと温かな何かが伝った。