038:【FRANCESCO】「キミ」のために私は剣を取る
前回までの「DYRA」----------
サルヴァトーレを頼るべく、ロゼッタについていったタヌは、飼料小屋に匿われる。ロゼッタからタヌの身柄を確保した報告を受けたRAAZはコトを起こすにあたり、今少し、自らの心を鎮める。
(そうだ。あの日も確か、この曲を弾いていた、か)
いつしか、男の記憶に遠い昔のことが蘇った。
それは、雪の降り積もるある日のことだった。
人里からずっと離れたこの地に引き籠もって以来、何年の月日が流れただろう。今わかるのは、およそ普通の人間には想像もできない、彼らの寿命を遙かに超えた気の遠くなるほど長い時間が経ったことだけだ。もう、一年や二年の誤差など取るに足りない些細なことだった。それこそ、よほどの事件でもない限り、昨日か今日か程度の差でしかない。
山の中腹にある瀟洒な白い壁の家。外の景色がよく見える居間の真ん中に、使い込んだ感じがある白いグランドピアノが置かれていた。銀色のくせ毛の髪とグレーダイヤモンドのように輝く銀色の瞳を持った男は、今日も曲を奏でている。それは男にとって、今日も繰り返される、退屈な人生の退屈な一日だった──。
ピアノの隅に置かれた小さな写真立てに時折、男は視線をやった。写真はセピア色に変色しているものの、艶やかな長い髪の女が心底幸せそうに微笑んでいた。
「……」
彼女の姿が視界に入るたび、男の心が無数の棘に刺されたようにチクチクと痛む。
痛みの正体は、記憶の欠片だった。遙かな昔、天才だ、最強だと謳われながら、一番大切なものを守れなかった、あまりにも悔しい記憶のそれだ。
「愚民共め……!」
あの日、あのとき。怒りと悲しみが全身を焼いた。しかし、その感情で焼け落ちたのは男の精神ではなかった。怒りと悲しみと絶望感に任せて、男は世界そのものに対し、自らが持つ大きな力を振るった。こんな世界など、もういらない。大切なものを奪った世界など、すべて叩き壊す。そう誓った。
文字通り、世界を焼いた。焼き尽くした。それでも、僅かに残った人間たちは廃墟から世界を作り直そうと立ち上がる。
大切なものを奪った愚民共を許すものか。男は彼らを見つけては容赦なく殺してまわった。殺し続け、疲れては眠り、目覚めては殺す。一体どれほどの時間、それを繰り返していっただろう。
だが。
ある日、すべてが空しくなった。
世界を焼き尽くしても、愚民共を片っ端から殺していっても、自分の中にかつての平穏な世界が戻ってくることはない。そして、心の痛みがなくなることもない。そう、気づいてしまったからだ。絶望から、長い眠りについた。
随分長い時間が経ったあるとき。
男は久しく遠のいていた『愚民共が暮らす世界』へ足を踏み入れた。孤独の中で、ほんの少しずつであっても気を紛らわせようとした。
来る日も来る日も、一人、人里離れた場所にあるこの屋敷で過ごした。来訪者と言えば、何年かに一度、大雪の季節に遭難した人間が『不意に現れる』くらいのものだった。目障りだった。それでも、辛うじてまだ命が残っているなら捜索隊が来そうなところまで引きずっていき、死んだか、もはや死ぬしかないなら同じように見つかりやすいところまで引きずった。助けてやろうなんて気持ちはただの一度たりとも起こしたことなどない。助ける義理もないからだ。
男は、この地から出ることはなかった。山一帯すべてが自分のものだ。食料に困ることもない。
ある日、木の枝に積もった雪がその重さ故に落ちる音を聞きながらピアノを弾いていたときだった。
それは突然の出来事だった。
何の前触れもなく、男の心がざわついた。ピアノの鍵盤の上を踊っていた指が凍り付いたように、止まった。
(何、だ?)
虫の知らせ。この言葉以外に適切な表現が見当たらない。
男は立ち上がると、まるで何かに吸い寄せられるように部屋の外へ出た。どうしてかはわからない。しかし、ランタンを手に地下の酒蔵へ行くと、一番奥へ向かった。ただ、五感ではわからぬ何かに導かれるままに。
男は、酒蔵の一番奥にある秘密の抜け道の扉を開いた。そこは万が一、愚民共に見つかって面倒が起こった際、誰にも見つかることなく外へ出るための脱出路だ。
ランタンの灯りを頼りに男はこの、細く長い通路を進んだ。果てしなく続くかと思われる距離を通り抜けると、地面が少し白くなった、洞窟の一角へ出た。男はあたりを見回した。一見、真っ暗な洞窟に変わった様子はなかった。しかし、どういうわけか、男の心のざわつきは息が苦しくなりそうなほど大きくなった。
洞窟の出入口がある方へと歩いたが、人はおろか、動物の類すらいない。いるわけがなかった。動物なら冬眠している。愚民共なら、こんなところに来る時点で遭難確定だ。男はしばらくの間、洞窟を隅々まで見て回った。
時間を掛けて探索し終えたときだった。山にある獣道から続いている、最も目立たぬ出入口があるあたりで、ほんの微かだが、何かが聞こえた気がした。
(何か、いるのか?)
男はゆっくりと近づいた。音がしたと思われるあたりへたどり着くと、足元にランタンの灯りを持っていく。
(なっ……)
二本の脚が照らし出された。一体、どこをどう歩いたらここで行き倒れることができるのだ。この洞窟自体、相当入り組んだ構造だ。上手いこと歩けばどうにか秘密の入口や、ましてこんな場所にたどり着けるものではない。驚いたのはそれだけではなかった。
(光もなしに?)
ランタンの類がどこにも見当たらない。考えられるのは迷い迷って獣道を歩き、ここで力尽きた、だ。正直、生きていても死んでいても面倒だ。もし僅かでも息があるなら今この場で殺してから埋めてしまおう。そんなことを考えながら、男は灯りを脚から腰へ、胸へ、そして、頭部へと持っていく。
「──!」
顔を照らした途端、男は雷に打たれたような強い衝撃を味わい、思わず、引きつった声を上げた。
女の顔と長い髪だった。同時に、男の脳裏を遙か昔の出来事が駆け抜ける。
あの日、あのとき──。
一番大切なものを守れなかった苛烈な現実と、絶望を突きつけられた瞬間の記憶。
男は、時計の針が何万回も逆に回って、戻っていくような錯覚に襲われた。
「ミ…レ…ディア……!」
行き倒れた女の顔は、グランドピアノの隅にある写真立ての女のそれにしか見えなかった。写真の女と違い、泥にまみれて汚れているが、そんなことは些末なことだ。
男は衝動的に倒れている女を抱き上げ、来た道を戻った。酒蔵へ繋がる扉の直前あたりで、通路の床に腰を落とした。取っ手を見つけ強く引っ張り上げる。すると、それまでなかった、地下深くまで続く階段が床の一角に現れた。男は女を連れて下へと駆け下りた。
その運命的な出会いから数日後──。
藍色混じりの黒髪の女が広い、大きなベッドで眠っていた。髪は洗髪をしたものの、手入れをした形跡がないせいか、艶を失いかけていた。肌は少し荒れてはいるが、もともと美しいとすぐにわかる。
男は、女が眠るベッドの片隅に腰を下ろすと、動くことのない女の白い足を手に取り、その先にある爪を切り始めた。切り終えると、ヤスリで丁寧に形を整える。見窄らしく伸びていた爪がみるみるうちに綺麗になる。次に、手の指の爪も同様に切り始めた。爪を切る男の表情は、穏やかだった。
(キミは、どうして目を覚まさないの?)
眠ったままの女を時折、心配そうに見つめる。こうしてよく見ると、写真の女と瓜二つと言って良いほど似ているものの、やはり違う。違うのは言葉で言い表すことのできぬ雰囲気だ。
両手の爪を切り終わると、ささくれも切り、最後にヤスリで爪を綺麗にした。綺麗になった爪。それだけで女の手の美しさが格段に上がったのがわかる。爪切りとヤスリを仕舞ってから、男は感触を確かめるように女の右手をそっと、包み込むように握った。
「ぁ……」
微かな声が聞こえると、男はじっと女の顔を見つめる。うっすらと、女の目が開き始めているではないか。
「良かった……」
目を覚ます女に、男は思わず声を漏らした。しかし、女からの反応は男の予想を遙かに超えるものだった。
「う……あ……あ……」
女のうつろな目には、恐怖の色がありありと浮かび上がっていた。目には涙も浮かんでいる。女が上半身をがばっと起こした。
男は最初こそ驚いたものの、女の身になって考えれば、状況がまったく呑めていないのだから無理もないと思い直す。そして、宥めるように声を掛ける。
「もう、大丈夫だよ。キミは、雪が降る山で倒れていたんだ」
優しく、安心させるように告げる男に対し、女は目を見開いたまま瞬きもせず、口をぱくぱくさせるばかりだった。このとき、男は女の目に自分の姿がまったく映っていないことに気づいた。同時に、恐怖の対象が少なくとも自分という「個体」に対してではないとも理解した。加えて、彼女は半ば錯乱状態に陥っており、満足に声を出せず、小さな呻き声を出すのがやっとなのだろう、とも。
「何も、怖いものはないよ」
写真立ての女と極めて良く似た女が何かに恐ろしく怯えている姿を見るにつれ、男の心が刃物が突き立てられていくような痛みに襲われる。
あの日、あのとき、守れなかった。
大切なものを守れなかった心の負い目に、痛みは情け容赦なかった。
男はそれでも、今までとはまったく違う感情が芽生え始めたことに気づいた。この痛みを消したい、消せるのでは、いや、消せるかも知れない。そんな感情だ。
もしかしたら、あのときをやり直すことが許されているのではないか。それなら、同じ過ちを繰り返さない。そんな思いが少しずつ、だが強く男を後押しする。
男とは対照的に、女は恐怖に呑まれたのか押し潰されたのか、また意識を失ってベッドに横たわってしまった。
「何も、怖くない。安心して」
来る日も来る日も、男は女が目を覚ますたび、心を落ち着かせようと声を掛け続けた。いつ目を覚ますかわからないので、時間の許す限り女の側にいた。ベッドサイドに腰を下ろして髪を撫でたり、ベッド脇の椅子に座って見つめたりしては、様子を見守る。
女を見ているうち、男はある事実に気づいた。
瞳にまったく生気が宿らない。ずっと怯えたままで、食事すらも採ろうとしない。
どうにかして理由を、いや、身の上などを聞き出すことはできないか。何か意思表示をしてもらえないか。心を少しでも開いてもらうには、どうしたら良いのだ。
(ミレディア……)
もし、目の前にいる女が本人だったら、どうするだろうか。彼女なら、どうしてほしいだろうか。男は答えを探し、ようやく一つ見つけ出すと、賭けに出た。
その日も辛うじて上半身を起こしたものの、同じように怯え続ける女を、男は思い切って抱きしめた。優しく、だが、すべて受け止めると伝わるように。
「──!」
女は当初激しく抵抗した。だが、四肢にまったく力が入らないのか、口をぱくぱくさせるばかりだった。それでも男はずっと抱きしめ、腕を解かなかった。互いの心臓の鼓動がわかるようになり、やがて、男の耳元のそばに女の口元がきた。
(声……)
女が口をぱくぱくさせていたのは、口呼吸の類ではなかった。微かにではあるが、かすれた声のようなものが聞き取れる。男は意識を集中し、女が発している声に、言葉に、耳を傾けた。
(ミレディア……!)
助けたい。あのとき守ることができなかった大切なものを今度こそ守り抜く。そんな気持ちを込めていた。
そのとき、微かに、しかし、男の耳にハッキリと聞こえた。
「……死に……た……い……お願……死なせ……」
それは、男の心をあまりにも深く、鋭く抉る一言だった。
「ダメだ……」
男は反射的に声を出した。
「ダメだ、ミレディア、それはダメだ……」
女をずっと抱きしめる男の身体の周囲に、赤い花びらが舞い上がった。
「生きてくれ。お願いだから……そんなことを言わないで。もう、私を一人にするな」
抱きしめる腕に力がこもり、男の脳裏をあのときの記憶が掠めた。
最悪の時間が記憶に蘇るまさにその瞬間、男は反射的に抱きしめていた腕を放すと、女の両頬を両手で包み込むように押さえる。
「あっ……!」
男は二度、驚いた。現実に引き戻され、そこにいるのが写真の中の女ではないと気づかされたことが一つ。もう一つは──。
「……泣いている?」
それまで怯えるばかりだった女が大粒の涙をぼろぼろとこぼし、涙が男の両手を濡らしていた。涙がこぼれ落ちる女の瞳は相変わらず、恐怖と絶望にも似たものに支配されている。それなのに、涙は熱かった。
死を求める一方で、怯えた瞳と熱い涙。男はこの差に、女の本心を垣間見た。自分が感じ取ったものに間違いはない。男はそう確信すると、優しく声を掛ける。
「嘘を、ついちゃだめだ……」
男は自分の右頬を、女の右頬にくっつけ、女の左頬を右手でそっと包みながら耳元へ囁く。
「本当は、『生きたい』んだろう? キミを苦しめるすべての軛から解かれたいんだろう?」
女の頬がくっついたままだが僅かに動いた気がした。答えはこれで十分だった。
「私はキミに、何でも与えることができる。キミが生き直すために必要な長い時間も、失った時間を取り戻し、生き直すために必要な美しさも、そして何より、何ものも恐れなくていい強い力も、全部──」
鍵盤を走る指が止まり、空間からピアノの音が消えた。
(DYRA。キミは私のものだ。当然、誰にもキミを渡しはしない。キミは私が守る)
男は立ち上がってピアノから離れた。そして、深呼吸をして息を整えた。
右手を胸の高さで広げると、赤い花びらが少しずつ周囲に舞い上がる。その花びらの数が増えていく様子は炎が舞うようだった。赤い嵐が止んだとき、男の手には鞘に収まった大剣が握られていた。
再構成・改訂の上、掲載
038:【FRANCESCO】「キミ」のために私は剣を取る2024/07/23 23:22
038:【FRANCESCO】「キミ」のために私は剣を取る2023/01/05 23:01
038:【FRANCESCO】騒々しき時間(5)2018/09/09 14:43
CHAPTER 50 心の準備2017/06/02 01:03