289:【AGNELLI】迫られるは、あまりに惨い選択。手札を守るためとはいえ
前回までの「DYRA」----------
RAAZの命令とマイヨの要請で、キエーザはピルロ入りしていた。たどり着いた先は、大昔に避難所として使われていた、山間の地下施設。そこには街の再開発に反対、かつ、アントネッラをニセモノとすら疑う街の住民だった。そこへキリアンも到着したが……
一瞬前まで目の前にいたのはキリアンだった。
だった、はずだ。キエーザは驚いた。今しがた、目の前の人物が発したその声は──。
「火、貸してもらえませんかね」
(あのときの! バケモノじみたあの……!)
初めてフランチェスコで遭遇したときの衝撃は今でも覚えている。部下4人を一瞬で殺し、自分も一手間違えれば確実に始末されるところだった。気配を完全に消しきって近づいてくる能力はまさに心胆を寒からしめた。
(それにしても!)
変装の概念も自分たちとはまったく違うというのか。キエーザは顔や仕草にこそ出さなかったが、内心、激しく動揺した。見た目が同じでも「中身がそっくり入れ替わっている」という言葉が相応しい。姿形のみならず、声までここまでそっくりに擬態できるようでは、自分から明かしてくれなければ絶対に見破ることなどできない。味方の中に紛れ込まれたら最後、破壊工作から人心の分断までやりたい放題だ。
「キミに会いたかったんだ。わざわざ来てくれて、嬉しい限りだ」
キリアンの姿であの声。キエーザは違和感ではなく、不気味さを抱く。
「そんな嫌そうな顔をしないでくれよ? 別にキミの命を取ろうって話じゃない」
顔や仕草に思うところを出すまいと努めて冷静を装ったつもりだったが、それでも隠しきれていないことに、内心、舌打ちする。
(何てことだ)
今は何としてもこの男から逃げなければならない。だが、この状況、さらにこの場所。今回は前回以上に逃げおおせるには難易度が高い。
「一緒に来てもらおうか」
お断りだ。キエーザはその言葉をいったん呑み込んだ。
「アンタは『俺を捜した』と言った。そもそもアンタどこで俺のことを知ったんだ?」
遭遇したときはジャカのナリだったはずだ。キエーザは率直な疑問をぶつけた。
「さぁ、どこだろうねぇ。それはヒミツだよ。トレゼゲ島の、裏切り者クン」
「誰かを、裏切った覚えはない」
それにしても、キリアンの姿で違う声で言いたい放題、ましてや身に覚えのない裏切り者呼ばわりされるなど不愉快極まりない。感情的な意味でも、早くこの場を脱さなければ。キエーザは次手を懸命に考える。
(逃げるだけなら、やってできないことはない。だが──)
ここの場所に避難している人間がいることは限りなく知られていないことだ。だが、それを知られた以上、彼ら彼女らがどんな目に遭うか。だが、彼らを守るために殺されたり囚われたりした方がマシなのかといえばそれも違う。普通の相手と違い、わざと捕まって内部の情報を取ったり破壊工作を試みるなどほぼ不可能。それどころか、自分の姿を擬態されて味方が攪乱される可能性の方がずっと高い。現に、目の前の男は完璧に擬態しているではないか。まして、自分やアントネッラの命と引き換えに、ここにいる人々を殺せなどと言われてしまったら、もはや本末転倒だ。
(取れる選択肢は二つのどちらか、か)
残された選択肢はどちらも真っ当ではない。
(だが、会長にお仕えする身である以上!)
採るべき選択肢は決まった。
「一つ、教えろ。その姿の本来の持ち主はどうした?」
本物のキリアンは一体どうなったのか。これと、もう一つだけは確認しなければならない。キエーザは問うた。
キリアンの姿をした男は楽しそうに笑った。
「別にどうもしないよ?」
そんな言葉を真に受ける人間はどこにもいない。
「ま、あれは彼女の駒だしね。けど、この姿に用がなくなったら……」
「あと、俺を捜していたっていうアンタを俺は知らない」
「そうだっけ? ちゃんと会っているから知らないはず、ないだろう?」
聞ける限りのことは聞いた。取り急ぎで聞くことはもうない。キエーザはどうやって振り切ろうかと思考を切り替えようとした矢先。
──キャン! キャン!
突然、その場の張り詰めた空気にそぐわぬ甲高い吠え声が響き渡った。
「っ!」
これが隙になった。白い塊がキリアンの姿をした男に飛び掛かり、向こう脛を噛むや素早く離れると、明後日の方向──山奥──へと走り出した。
「早く逃げろ!」
隠し持っていたナイフを手に走り出したキエーザは、洞窟の入口に集まった女性や子どもたちの姿が視界に入るや叫んだ。そしてすれ違いざま、立て直しを図る男の上腕をナイフで切った。手応えが薄いが、第二撃の余裕はない。
(許せ!)
キエーザは心苦しい思いに後ろ髪を引かれながら、犬を追うように山奥へと走った。そんな姿を、女性たちが心配そうに眼で追いながら見送った。
直後に何が起こったか、キエーザは知る由もなかった。
一体どれくらい走っただろう。ただただ必死だった。山奥の方へ走った以外、どっち方面に、どこをどう走ったか、そんなことはまったくわからなかった。
「はっ……はっ……はっ……」
足を止めるや、肩で息をし、膝がガクガクと震える。
もう、走ることはもちろん、下手をすれば歩けないかも知れない。今追いつかれてしまえば万事休すだ。
(会長……マイヨ……アントネッラさん……)
キエーザは膝をさすりつつ、少しずつ息を整えた。何度か咳き込んだ後、だんだんと呼吸の乱れが収まり、あたりを見回す余裕が出てくる。今立っているのはちょうど、枯れかけた樹林帯を抜け、開けた場所だった。背中にあたる風が少し冷たい。だが、そこまで気にする余裕はなかった。
それにしても、周囲が恐ろしく暗い。反射的に空を見上げると、どんよりとした、グレーラブラドライト色に染まった空模様が見える。
キエーザは反射的に時計に目をやった。六時を過ぎていた。
(そんなに長い時間、走ったのか)
人間とは必死になると、かくも走り続けられるのか。キエーザは自分の体力がよくも続いたものだと驚いた。
まだ完全に陽が落ちたわけではない。どこか、隠れることができるはないのか。後ろを振り返って樹林帯を、前を見て開けた場所をぐるりと見回す。
キエーザは、開けた方を凝視する。先の方に小屋が見える。
(ん? あれは? もしかして)
ネスタ山の一角に『死んだ土地』と呼ばれる曰くありげな場所があることをキエーザは思い出す。
(そうだ!)
錬金協会で以前、会長から聞いた話を思い出す。随分昔のことだが、どんなに厳しい状況になったとしても、錬金協会の勢力圏下でさえあればどんな場所であっても自分のために尽力する者を決して見捨てない、と言われた話だ。
もし本当に『死んだ土地』の一角に出たなら、何とかなるのではないか。キエーザの中で希望がわいてくる。
(まだ、打つ手はあるはず)
痛い、苦しいなどと言っていられない。任務も終わっていないのだ。気力を振り絞り、気持ちを奮い立たせ、キエーザは走り出した。
幸か不幸か、小屋までは思ったより近かった。それでも、着いたときには空がブラックオニキスのようになりつつあった。
(星明かりも、ない? もうすぐ雨が降るのか?)
丸太小屋の外観は古びており、長い間放置されていると言った風だった。窓から中を見ようとしたが、ぶ厚いカーテンが掛けられており、中は見えない。その窓も雨や埃のせいで汚れている。また、小屋の外には馬留めもあるが、馬はいない。
(ここで襲われたら、終わるぞ……)
キエーザは周囲を見回し、人の気配がないのを確かめてから、扉を開こうと取っ手に触れた。施錠はされていない。扉をそっと開いたときだった。
「!」
突然、足下にふわりと白い綿のような風が駆け抜けた。
「おっ」
キエーザは中に入り、鍵を掛けた。すると、扉のすぐ側が光っていることに気づいた。この文明の人々は誰も知らないが、これは夜光塗料だ。良く見ると、壁にランタンが掛けられている。キエーザは火打ち石に似たものを懐から取り出すと、火を灯した。
「あっ」
小屋の中が見えるようになった。
古びた外観とは違い、中は埃一つ落ちていない。その代わり、足下に白いふさふさしたものがまとわりついた。
「あ、お前……」
先ほどの、翡翠の首輪をつけた白い子犬だった。
少し疲れた、心細げな声ではあるが、小さく鼻を鳴らした。
「ちょっと、待ってろ」
キエーザは子犬の頭を軽く撫でてから、ランタンを手に奥の部屋へ移動した。ベッドが置かれた部屋の片隅の床に腰を落とすと、ランタンを置き、床板の一角を開けた。
「あった」
白い四角い鞄が三つ収まっていた。そのうちの一つを取り出して開く。水の入った瓶と取り出すと、次に別の鞄を開けた。金貨が収まった麻袋を見つけると、中身を全部出してから裏返しにし、そこへ水を少しずつ注いだ。
「お前が無事で本当によかった」
言いながら、キエーザは犬の口元へ両手で麻袋を差し出す。犬が美味しそうに水を飲んでいく様子を見ながら、心底から安堵した。
(この犬は、アントネッラの本物と偽物を見分けられる。俺たちにとって、現時点では住民たち以上に貴重な戦力だ)
麻袋の水を残らず飲み干すと、犬はだいぶ生気を取り戻したのか、心細げな感じではなくなった。キエーザは犬の顔を見てから、水を瓶からそのままラッパ飲みした。
「ごめんな。少しだけ休ませてくれ」
キエーザはそう言うと、鞄を床の下へ戻す。そしてランタンを点けたままサイドテーブルに置いてから、きっちりメイクされたベッドへ身を投げた。
(会長へ、ご報告を。まずいことになった。夜明け前に、ご報告を……)
死んではいけない。その一心で逃げおおせ、子犬の無事も確認できたことで緊張の糸が緩んだからか、キエーザは眠りに落ちていった。
そんなに眠ったつもりはなかった。目を覚ましてあたりを見回すと、ランタンはまだ煌々としている。子犬も疲れ切っていたからか、すやすやと眠っている。これほどぐっすり眠っているなら、近くに敵意や不審な存在はないということだろう。キエーザは起き上がり、懐中時計で時間を確認した。
(さっきは陽が落ちる寸前だったが……)
夜の一時だった。筋肉痛か、足がズキズキと痛むがそんなことを言っている場合ではない。片足ずつマッサージし、痛みを和らげる。
痛みが引いたところで、再び床板の下から鞄を取り出した。
先ほど開けた二つ目の鞄を開き、鞄の底の隠しポケットから地図を取り出す。わかっている人間には簡単に使えるが、わからない人間は生涯気づかないだろうほど巧妙かつ、丁寧に作られている。
(……非常用の、脱出路の地図!)
キエーザは、タヌに見せられたものと雰囲気は似ているながらも、もっとスッキリまとまった感じに書かれた情報に目を通した。今いる場所はやはり『死んだ土地』と呼ばれる場所でその西端、もっともピルロ寄りに位置している。ちなみに以前、DYRAが利用した場所はもっと東寄りだ。
地図には、秘密裏に作られた地下通路が記載されていた。タヌが持っているものとも違う、そして錬金協会でもまったく把握していない内容だ。
(会長がご自身用に使うもの?)
今の状況は最悪だ。キリアンの姿で現れた男は間違いなくあの、フランチェスコで出会ったハーランだ。考えナシに動いてもいけないし、ある程度の安全を確保できるまで動かないわけにも行かない。どちらも許されない。許されるのは、考えながら動き続ける。これだけだ。
(錬金協会は知らん。だが、俺は会長に尽くすだけだ)
キエーザは次の段取りを考えると、地図と鞄を戻す。そしてまだ開けていない、最後の一つの鞄を取り出し、開いた。
(これ……)
非常食、十徳ナイフ、見たこともない素材で作られた携帯用の小型水筒、コンバットナイフ、小物類を腰の高さにまとめられるポーチとベルト。ポーチには方位を調べるための磁石を兼ねた懐中時計や、多用途で使えそうな柔らかい針金まで収まっている。ナイフとベルトで、キエーザはこの鞄の中の装備が本来誰のものかを理解した。
(会長の密偵女の装備!)
普段は小間使いの格好で外を動き回り、特段の任務がなければ行動を共にすることもない女性だ。だが、RAAZが最も信頼する部下の一人であることは疑いようがない。
(状況が状況だ。道具、借ります。食事も失礼する)
鞄の底にメッセージカードと筆記具一式見つけると、キエーザは一枚の紙に簡単な事情説明と、鞄の中身を使わせてもらうことなどをメモ書きをし、日付と自分だとわかる印を書いてから鞄へ収め、床の下へ戻した。
今からすぐに動けば日が昇るまでにはピルロへ舞い戻ることができる。だからこそ、今、動き出さなければならない。やることが増えてしまったのだから。
(あの男がキリアンの姿をしている。ということは、本物はどうなったんだ? そこも確かめる必要があるのか)
しかしこれはこれで面倒だ。キリアンの姿で現れ、街の人に見られたのだ。誤解を解くという面倒な仕事も加わったのだ。
(アントネッラさんがいない以上、これは骨が折れる仕事だ。ここをどうにか省きたいが、難しそうだ)
当初予想よりスムーズに達成できると思っていた任務がここに来て、とんでもない難易度になったかも知れない。キエーザは気が重くなった。
今は週1ペースでの更新ですが、テンション上がればもう少しペースを上げていこうと思います。
よろしければ、ご無理でない範囲で、BM、評価いただけると嬉しいです。
また、気が早いですが、当選した場合は5月のコミティア参加予定です。
併せてよろしくお願いします!
289:【AGNELLI】迫られるは、あまりに惨い選択。手札を守るためとはいえ2024/03/30 14:47
289:【AGNELLI】迫られるは、あまりに惨い選択。手札を守るためとはいえ2024/03/24 20:00