281:【MORATA】それが「終幕が上がった合図」と知る者は誰もおらず
前回までの「DYRA」----------
タヌと店長は、サルヴァトーレ宛で預かった手紙を手掛かりにディミトリを捜すべく、マロッタから西にあるモラタへ向かった東側のレアリ村の対極にある小さな町だ。その町では何故か恐ろしい量の武器が集められていた。
「どうして、RAAZさんとマイヨさんだけ?」
タヌが問うた。
「どのみち、バレるからだ」
あっさり告げるディミトリに、店長は別の意図を察知したのか、少しだけ苦そうな表情を浮かべる。しかしタヌはそんな小さな変化に気づかない。
「回り回って、変な尻尾やヒレがついた話が届く危険があるくらいなら、ふたりだけは最初から知っておいてもらった方が良い」
「へぇ。モノは言いようですねぇ。それで、御用向きは?」
店長がわざとらしいくらいにおどけた口調で尋ねた。
「そうだった。肝心なことはそっちだ」
ディミトリは言いながら、入ってきたときと反対側にある扉から広い部屋を出た。タヌと店長も続く。短い廊下を抜けると、突き当たりにぶ厚い桃花心木の扉があった。
「今日の本題だ」
ディミトリはそう言ってから、扉を最初に3回、続いて1回、さらにもう2回ノックした。ほどなくして扉の向こうからガチャガチャと解錠する音が聞こえた後、扉が開いた。
応接とも居間ともとれる部屋だった。奥に衝立が立てられており、誰かがいるのが見える。衝立の向こうから物音が聞こえると、ひとりの男が姿を現した。
「あっ……」
タヌは思わず声を上げた。
厳しい中にも優しげな笑みをたたえた老人が現れた。深い皺が刻まれた皮膚からかなりの高齢だとはわかる一方、足腰はしっかりしている。
「久し振りだね。少し前に会ったばかりのはずなのに、色々ありすぎて、ずっと前だったように見えてしまう」
「副会長さん。こんにちは。本当に、その、おっしゃる通りで、お久しぶりって言っちゃいそうですよね」
タヌの言葉で店長も誰が現れたかすぐに認識した。
「行き掛かりは色々あったが、今は、これだけの騒ぎの中だ。私も表だって出ることができず、すまないね」
副会長が話す間、ディミトリは人払いとばかりに、部屋の外に誰もいないか確かめてから扉を閉め、その脇に立った。
「君はもしかして……」
店長を見ながら副会長が声を掛けた。
「ええ。あなたがたが父と兄を殺してくれたことは忘れていませんよ」
気持ち低い声で店長の口から告げられた言葉を聞いた途端、タヌとディミトリは表情を硬くした。
「けどね、あなた個人をどうこうしたって、何もなりませんから。そこはご心配なさりませんよう」
後ろで聞いていたディミトリは危害の心配がないとわかると安堵した。
「そう言ってもらえると救われる」
「殺せるものなら、とは思いますよ? けどね、そんなことしたって、生き返るわけじゃないし、時間が戻るわけでもない。無意味でしょ?」
店長があっさりとした口調で告げるほど、タヌは恐怖を感じた。自分の家族を間接的に殺した人間が目の前にいてもなお、平気でいられるものだろうかと。
(でも)
それを言い出したら自分はどうなのか。母親があんな殺され方で死んでしまった。錬金協会の権力闘争の巻き添えだというのなら、ここにいる副会長やディミトリも考えようによっては仇、とも言えるではないか。
自分に仇討ちをする勇気も力もなかったといえばそれまでだが、それ以上に、どうしてこんなことになったのか知りたい。タヌの中ではその気持ちの方が強かった。DYRAとの出会いがなければ、無力に打ちひしがれるだけだった。彼女と出会ったことで、仇討ちをしたいと思えばできるだけの力を間接的にではあれ、手にすることはできたという考えもある。けれど、そんなことをしようとも思わなかった。今考えれば、それを手にしたからこそ、真実を知りたい気持ちが強くなったのかも知れない。
(きっと、店長さんも同じなのかも)
決して表立って言葉や態度に出すことこそないが、店長がサルヴァトーレの正体を知っていることは察しがつく。自分がDYRAと縁があったように、店長はRAAZと縁があった。だから、理不尽な仕打ちの原因となった存在を前にしても、引っ張られないのだろうと。
「副会長さん。どうして、ボクたちに連絡を?」
タヌは尋ねる。
「あと、マロッタで火事があったとき、副会長さんがハーランさんに……何かあったってボク聞いていたんですけど」
扉の横に立って聞いているディミトリが苦い表情を浮かべた。が、タヌと店長の背後にいるので、ふたりは気づかなかった。
「会長につてがある人たちへ、私が生きていることさえ伝わればそれで良かったんだが、君が来たなら……お詫びを兼ねて、それとは別で伝えておきたいことがある」
傍らで聞いている店長は訝るような表情を浮かべた。それでも副会長はタヌと話しているのだ。今は自分がとやかく言うことではないと、言いたいことを喉の奥から出さないよう努めた。
「少しの間だけ、ふたりだけで話して良いかな? 長い時間はいらない」
「わかりました」
ディミトリが答えると、店長に、一緒に外へ出るように促した。
「どちらも心配だろうから、扉は開けておいたままで良い」
タヌも店長も、それなら安心だと思う。
ディミトリが扉を開け、店長と共に出ると、扉を開けたまま、扉の両脇に立った。背中を壁に預けることで中をジロジロと覗き見ないという気遣いだ。
「タヌ君、だったね」
「はい」
「待たせちゃいけないから手短に」
聞きたいことは色々あるが、あとで質問をした方が良い気がする。タヌはいったん、全部話を聞くことにした。
「前にマロッタで会ったときに、あの、三つ編みの彼がいたから話せなかったことだ」
「いえ」
「お父さんは引き金を引いた。君はこれからどうするつもりだい?」
「前にも話したと思います。ボクは父さんと母さんを捜していました。母さんは、その……ですけど」
副会長は二度小さく頷いてから、視線で話の続きを促した。
「ボクは、父さんを止めたいです。いえ。止めます。そのために、捜していますから」
「お父さんを捜すのは良いことだが。君に、これは言っておこう」
「何でしょうか」
「お父さんとは色々な経緯があったのだろう。行き違いがあったかも知れない。それこそ、君にとって許しがたい、納得がいかない、そんなこともあったかも知れない。それでも、君がお父さんを傷つけてはいけないよ?」
タヌはその言葉に困惑する。RAAZはDYRAを傷つけられたことに怒り心頭だ。今、彼の協力を得られているのは、DYRA自身の意思もあるにせよ、それ以上に、見つけたら殺すことが交換条件となったからだ。何より——。
「あの。……それって、父さんがボクの命の恩人や、その人にとって大切な人たちをたくさん傷つけたとしても、ですか?」
絞り出すような声で続ける。
「……焼け落ちる村の中に残されて、アオオオカミに喰い殺されそうになったところをボクは助けてもらえました。その人は、ボクが父さんを捜しにいくのも手助けしてくれています。でも……でも、父さんはその人へ……女の人に、あんなひどいことを」
「それでも、だよ。たったひとりの『お父さん』だ。君は、お父さんがどうしてそんなひどいことをしたか、ではなく、そもそもどうして『文明の遺産』を求めたか、お父さん自身の口から聞いたことがあるかい?」
「ボクを『息子とも思っていない』って言いきられちゃったから」
「え?」
「誰の子かもわからない、って」
「そこまで言って……」
だが、言葉とは裏腹に、副会長が落胆した様子はなかった。
「ピッポはもう覚悟を決めているのか……」
「え?」
タヌは副会長の言葉の意図を図りかねる。その一方で、DYRAやRAAZ、ロゼッタを傷つけて平然としている父親を許すことなど到底できないという気持ちもよぎる。
「私から言えることはこれだけだ。君にどんなにひどい言葉を浴びせたとしても、お父さんは、お父さんだ。目に見えることだけを信じて、はやまったことをしてはいけない。人間はときに、大義のためならひどいこともする。でも、心で泣いていることも忘れないでほしい」
副会長が言うことはもう告げたと言いたげな表情で、タヌを見た。
「すみません。ボクから聞いてもいいですか?」
「答えられることなら」
「ここの人たち、さっき武器とかいっぱい持っていました。あれは、ハーランさんと戦うためですか?」
「そこは私じゃなくて、ディミトリに聞いてみた方が良い。言えることは、『進歩を邪魔するものすべて』とだけだ」
副会長の言葉に、タヌは含むものを感じ取ったが、それをここで言葉にすることはできなかった。
「さ、もう行きなさい。戻りが遅くなると、昼間のうちにマロッタへ戻れなくなってしまうから」
タヌは、話が終わったことを告げられた。
タヌと店長ははじめと同じようにディミトリに案内され、モラタの入り口まで戻った。
「ディミトリさん。聞いていいですか?」
「ん?」
「錬金協会の会長は、今、ディミトリさんですよね?」
「は?」
「え?」
ディミトリが何の話だと困惑気味にタヌを見た。その様子に、タヌも怪訝な表情を浮かべる。
「違うんですか?」
「何の話だ? てか、何言っているんだ?」
嘘を言っているようには見えない。タヌは疑問をぶつける。
「えっ。だって、錬金協会で火事騒ぎが起こった翌日、『ディミトリさんが新会長になった』って」
「はぁ?」
信じがたい反応に、タヌと店長は顔を見合わせた。
「違うんですか? 号外もまかれていたし」
「ご、号外!?」
何の話をしているのかまったく呑めない。ディミトリの表情からそう言いたいのはタヌにも明らかだった。
「お、おい。ちょっとその話、詳しく聞かせてくれ!」
「え、で、でも……」
夜になる前にマロッタへ戻らないと。だが、タヌはその言葉が出なかった。
ディミトリはあたりを見回し、周囲に誰もいないことを確認すると、小声で告げる。
「夜中に俺、マロッタへ行く。えっと、明け方寄った、店長の新しい店で良いか?」
「自分は良いですけど、ディミトリさんの方が大丈夫ですかね?」
「ああ。ここにいるのは信頼できる副会長派だけだしな」
「じゃ、お待ちしておりますんで」
店長は席の予約でも取ったような口ぶりで返事をした。
「仮眠取ったら、そっちいく」
ここでいったん、タヌたちはディミトリと別れ、来た道を戻ることにした。
昼下がり。奇しくもタヌと店長がモラタを出たのとほぼ同じ頃。
DYRAの行方を完全に見失ったRAAZは、マロッタを出てから、都のさらに西、海の真ん中に現れた塔にいた。人がふたり入れるかも怪しい狭い空間には、エアロディスプレイのキーボードと、宙に浮かぶモニタ映像がいくつかあるのみだった。映像は何かの進捗状況をグラフで表示しているものばかりだが、ひとつだけ、カウントダウンタイマーとなっているものがあった。
(ISLAはああ言っていたが、プロトン弾がここにないし、よしんばあってもここでは使えない、か)
RAAZはマイヨがプロトン弾の弾頭を使えと言っていたことを思い出した。
(恐らく、電解質上でプロトンを伝導させて水素電池のようにしろ、ということだろう)
水素電池が使えるようになれば、確かに電装まわりだけでも早めに利用できる。それ以上に、生前、ドクター・ミレディアが『|名も無き霊妙たる煌めき《アノニモミラクリュミナリオ》』なる奇妙な名で呼んでいた推進機関を始動するために必要なエネルギーを回せるようになる。
(現時点で、アレ《・・》を完全に起動できるレベルまでの充電におおむね960時間、か)
塔の表面はそれ自体が量子ドットの太陽光パネル。カモフラージュを外したことで、昼間を利用しての充蓄電が可能になった。
(アレを起動した後、今度はいよいよ『トリプレッテ』に灯を入れるための電気が必要にある。太陽光での充電では数か月、天気次第では最悪、1年近い時間を使う。だが、水素電池を使えるようになればそこの問題をある程度解決させられる)
『トリプレッテ』を起こす文字通りの第一歩がアレ、もとい、超伝送量子ネットワークシステムの起動だ。
(この世界とも、お別れだ)
ハーランがこの世界の人間たちへ、発展を見返りにちらつかせて実行しようと企む、陛下復活計画に絶対不可欠なものもまた、超伝送量子ネットワークだ。言い方を変えれば、今いるこの場所を守り切れるかが勝負を左右する。RAAZはカウントダウンタイマーを睨みつけてから、狭い空間から外へ出た。
(あとはロゼッタだ。昨日の夜はなりふり構っていられなかったからな)
いつまでも彼女をここに置いておくわけにはいかない。状態がそれなりに回復した時点で、意識を戻す前に連れ出す必要がある。
気にすることはあとひとつ。ある意味これが一番重要だ。
(DYRAの行方か)
追跡できなくなった彼女はどこへ行ったのか。見つけ出さなければならない。と言っても、できることはというと、せいぜいマイヨが見失った最後の場所を確認し、そのあとは人工衛星からの映像記録をもとにしての足取り追跡だ。地味な作業には変わらない。場合によっては足を使った方が早い可能性もある。
(ISLAが彼女に埋め込んだのは量子通信で探す検知マーカーだ。分厚い鉛の壁で覆われた部屋にでも閉じ込めない限り、完全遮断はできないはずだ)
こんな鄙びた文明で、鉛の壁に覆われた部屋など考えられない。放射線遮断をする、という概念すらあるかも怪しいレベルなのだ。
(病院にレントゲン室もない文明だぞ!)
ハーランがこの世界であちこちに手を回していたのだ。ないに決まっている、的な決めつけは危険だ。ISLAの報告ではどうやって作ったのかは知らないが、ネスタ山をはさんでの長距離の秘密トンネルまであったのだ。
(攫うだけなら、鉛のエプロンあたりで覆う手もアリか)
極端な話、それだけで良いなら不可能ではない。それこそ山賊に金貨を数枚渡して不意打ちでもすればいいだけだ。やってできないことはない。DYRAは自分から動的に誰かを襲うことはない。悪意を明示されたところで剣を取るのだから。
(一番、あり得る選択肢か。となると……)
思ったより面倒なことになるかも知れない。RAAZはタスクが多いこと、そして、それを他者に割り振ることができない現状に内心、頭を抱えそうだった。
RAAZが心配していた頃、DYRAは西の都アニェッリに姿を見せていた。夜のうちに移動、夜明け前からアニェッリの港にある積み荷箱で休憩を取り、昼前に都入りした。目立たないように、頭からすっぽりと外套で覆って。だが、錬金協会の人間も使う黒いそれではない。都へ入ってすぐ、適当な洋服屋でそれこそ適当に見繕った、生成り色のものだ。
マロッタ以上に人通りが多く、洗練された都会とでも言うべき街を、DYRAはお上りさんよろしく、あちこち見ながら歩いていた。街行く人々や馬車は、特にそんな彼女に興味や関心など少しも示すこともなく、足早に通り過ぎた。
(手がかりを求めるとなると……)
これまでの流れから、まったく思い当たるフシがないわけではない。
(ピッポと行動を共にしていたキリアンは、雇い主が誰かについては口に一切しなかったが……)
これまでの流れで何となく察しがつく。
(ハーランでもRAAZでもない、だが、雇うだけの動機とカネがあるとすれば——)
この街にいるはずだ。
視察に出かけているなど、特段の事情がない限り、いないはずがないのだ。
(まずは彼女に会うことからか)
DYRAはここで少しの間、歩を止めた。
(RAAZに、言付けだけは残しておくか)
そう思い直すと、街の中心街らしき方を目指して、すたすたと早足で移動した。
(このあたりか?)
いかにも中心街といった感じの雰囲気が伝わってくる方へと向かううち、DYRAは、煌びやかな通りへ着いた。洋服屋を見つけると片っ端から看板を見て、店名を確認して回った。
(煉瓦造りをわざわざ白い壁にしたり、窓を大きくしたり、洒落た雰囲気にしているんだな)
何軒か見て回ったあと、見つけた店の前でDYRAは足を止めた。
(何だこの店は)
通りに面している壁は、壁ではなく、すべてガラスではないか。店内が丸見えだ。人型の人形や、上半身だけの型に一目でわかる上等な服を着せてある。
(すごいな……)
DYRAは店名が書かれた看板を探すが、見当たらない。こうなったら仕方がない。そう言いたげな表情で、DYRAがガラスの扉を開こうとしたときだった。店内の扉の向こう側に立っていた若い男性店員が気づいたのか、反対側から扉を開いた。
「いらっしゃいませ。何か、お洋服をお探しでしょうか」
DYRAがかぶりを取って顔を見せたときだった。
「!」
若い男性店員の顔色がさっと変わると、深々と頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました! シニョーラ。わざわざお店までいらして下さり、誠にありがとうございます」
その声で、女性の店員たちも何か気づいたのかすぐに振り向いた。そして、DYRAの首のあたりを見るやいなや、男性店員と同様、顔色を変え、背筋をピンと伸ばした。
「よ、ようこそいらっしゃいました。お客様。いえ、シニョーラ。さ、奥へどうぞ」
「サルヴァトーレへのご注文でしたら、言伝、お預かりもいたします」
女性店員たちが恭しい態度でDYRAを店の奥にある小さなテーブル席へ案内した。そこは外から目にすることができない、いわば死角となった場所にあった。
DYRAは彼らが自分をシニョーラと呼んだことでおおむね理解した。サルヴァトーレ自身が型紙から仕上げまで直接手掛ける服が顧客リストにない人物へ渡る。店員の誰かが彼へ直接聞いて、そのときに「シニョーラ」とだけしか言っていないのだろう、と。
「あの、シニョーラ。お茶をご用意いたします」
そう言って、男性店員が従業員用空間へ消えた。ほどなくして紅茶セット一式を用意して戻ってきた。
「何かございましたか?」
DYRAのそばで膝を落とし、心配そうに女性店員が尋ねた。
「どうして、そう思う?」
DYRAが不思議そうに尋ねる。
「青いお花のチョーカーは、サルヴァトーレはひとつしか作っておりません。そして、当店の文字通り一点ものでございます。なのに、お上着が明らかに、その……。もしかして、お上着が破れてしまったなど、何かお困りではございませんか?」
言いにくそうに尋ねてきた女性店員からの話でDYRAは合点がいった。
「ああ。夜の移動中、山賊が近づいてくる気配を察知して、そのときに鉢合わせないように必死に逃げ回った。幸い、物取りなどには合わなかったが、あわやの思いをした。そのときに、外套を……」
大げさなくらい芝居じみた口調でそう言うと、DYRAは立ち上がって外套を外し、ポシェット上の財布を開く。店員たちは、絹の布地自体にも金糸を混ぜたブラウスにため息にも似た息を漏らし、驚く。もうひとりの女性店員がバックヤードの方へと走った。
「サルヴァトーレに伝えてくれ。私が来たことを」
「必ずお伝えいたします」
「もうひとつ」
「お申しつけ下さい」
「『マロッタで会ったご婦人に会ってくる』だ。必ず、伝えてほしい」
「かしこまりました」
この後、DYRAは替えの外套を受け取ってから席を立った。
「足りなかったら、請求してくれとも」
DYRAはポシェットを置いて、店を後にした。
空はいつの間にか、曇り空に変わっていた。
マロッタにある、新しい方の食堂まで帰り着いたとき、空は灰色がかった石灰岩のような雲が広がる中、少しずつ、灯りが弱くなっていくようだった。
「タヌさん。良かった。夜になる前に戻れたのですから」
タヌが降りるときに手を貸しながら、店長はそう告げた。
「取り敢えず、こちらへ居て下さい。まだ人通りがあります。どこに誰の目があるかもわかりません。自分以外が前の店舗に入るのを見られたら怪しまれますから」
「わかりました」
荷馬車から下りたタヌは「ありがとうございます」と言って丁寧に頭を下げると、客の入りが気持ちまばらな新店舗へと入った。
タヌの後ろ姿を見送った店長は、腕を組み、空を見上げた。
(うーん。サルヴァトーレさんたちに急いで事の顛末をお知らせしないと)
店長は再び荷馬車に乗り込むと、前の店舗の方へと向かった。
前の店舗へ着くと、何食わぬ顔で裏手にまわり、従業員用の入口から中へと入る。しばらくの間、不意打ちで外から誰かが来て、見られても良いように荷物整理のフリをしてからそっと従業員用の入口を施錠したのち、階段で上へと上がった。
「失礼しますよー」
二階の個室の扉を何度か軽く叩いてから、店長はゆっくりと扉を開いた。
扉の向こうには、マイヨとアントネッラの姿があった。
「お疲れ様。あれ? タヌ君は?」
「ああ、新しいお店で待ってもらっています。万が一見られて怪しまれでもしたら困りますから」
「なるほどね」
マイヨが納得した顔で店長を見る。
「あ、あの、サルヴァトーレさん宛に手紙をもらいましてね」
「誰から?」
「あ、あの、それが、錬金協会の方なんですよ」
「誰?」
尋ねたのはアントネッラだった。
「新会長になったっていう、例のディミトリさんですよ」
その言葉に、マイヨとアントネッラは一瞬顔を見合わせてから、本当かとでも言いたげに店長を見た。
「それで、もう少ししたら新しいお店へ来ることになって」
どうしてそういう話になるのだ。マイヨは困惑したが、今は店長を詰める場面ではない。
「そうしたら、こっそりここを抜け出して、こっそり新しいお店へ行く方法があれば良いんだけど」
「そうしましたら、深夜とかどうです?」
店長の提案に、マイヨは一瞬考えてから指示を出す。
「アントネッラ。君は今店長と一緒に移動するんだ。あっちにタヌ君がいるなら、その方が良いかもしれない」
「わかったわ。じゃ、私、移動します」
アントネッラはそう言って、荷物の運び出しに紛れて、店長が乗ってきた荷馬車の荷台へ乗り込んだ。
281:【MORATA】それが「終幕が上がった合図」と知る者は誰もおらず2024/07/13 16:29
281:【MORATA】それが「終幕が上がった合図」と知る者は誰もおらず2024/03/31 16:32
281:【MORATA】それが「終幕が上がった合図」と知る者は誰もおらず2024/01/31 22:00