255:【OPERA】偽りの平穏と歓喜の裏側にひそむは、恐ろしい地獄絵図
前回までの「DYRA」----------
ロゼッタはアニェッリを誰にも見つからずに抜け出すべく行動を起こした。一方、ときをほぼ同じくして、アントネッラは自分がピルロからどこへ連れて行かれたのかがわかったことで脱出を考え始める。が、そこへハーランが現れてしまう。
「最新作のお芝居だよ。そそられるだろう?」
ハーランの言葉にアントネッラはイラッとしたが、顔には出さなかった。出してはいけない。手の内を読まれていいことなど何ひとつない。今は明鏡止水とまで行かずとも、極力自分事として捉えないことが大事だ。
「人攫いみたいなことをする人たちと観劇って気分はなれないんだけど」
「お兄さんに会いたくて自分の意思で来た、の間違いだろう?」
ハーランの言葉は図星だった。それでもアントネッラはやり過ごす。
「ものは言いようね。街の人へ銃を向けて、散々脅した後でその話を出してきたじゃない?」
「そうだったの?」
ハーランが耳を疑う素振りをする。しかし、アントネッラはそれを芝居だと見なかったことにした。
「あら? ご存じなかったのかしら?」
このとき、ハーランは小さな溜息を漏らす仕草をする。
「そういう流れだったとは、まったく。これだから野蛮人は」
「野蛮人は、どちらに掛かる言葉かしら?」
実行犯の振る舞いになのか、それとも、彼らの文明と自分たちのそれとの違いになのか? アントネッラはズバリ聞く。
「常識で考えてほしいなぁ」
にこやかに笑うハーランを見ながら、アントネッラも負けじと笑みを浮かべる。
「あら? 私たちとあなたがたの常識が必ずしも同じとは限りませんのでは?」
「なかなか手厳しい言葉」
おどけた表情をしたハーラン。だが、自分を侮蔑されたことで苛立った表情を一瞬だけ浮かべたのをアントネッラは見逃さなかった。そして、見たことで即断する。
「案外、あなたがたも私たちから見れば野蛮人かも知れませんよ?」
アントネッラは話の流れでそのまま乗ったように告げると、続ける。
「それで、お芝居を観に私はどこへ行けばよろしいのかしら?」
「お楽しみ、だ。せっかくだから服も着替えようか。お出かけの準備と併せて、彼についていってくれるかな」
ハーランはそれだけ言うと、クリストを残してくるりと背を向け、廊下を足早に歩き出した。
「では、こちらへ」
クリストがアントネッラへ帯同するようにうながした。
廊下を歩きながら、アントネッラは今しがたの出来事を振り返りつつ、考える。
(お兄様があんな髭面に抱き込まれたなんて、ゾッとそるわ)
あの一瞬で、ハーランとマイヨの決定的な違いをアントネッラは彼女なりに見抜いた。
(ふたりとも上から目線だけど、大違いなのよ)
マイヨは良くも悪くも、自分の能力ではない要素を自分のプライド云々に絡めない。だが、目の前の男は一瞬とは言え、間違いなく絡めた。
ここから今すぐ逃げるのはやってできないことではない。今いる場所がわかった以上、タイミングさえ取れればできる。ただ、失敗したときのリスクも計算しなければならない。アントネッラはとっさの判断で考えを変えた。
(今は身を守らないと……)
ここから先は一手一手を丁寧に考える必要がある。ハーランは機嫌を損ねたら何をするかわかったものではない一面を持っている。それが見えてきた以上、焦ってはいけない。チャンスは必ずある。たった一度のそれが来たとき、すぐに動けるようにしよう。そう気持ちを固めたアントネッラは気持ちを引き締める。
「こちらです。どうぞ」
案内されたのは、狭い部屋だった。いわゆる更衣室よりは辛うじて広い程度だ。ハイヒールで、足首部にストラップを巻くタイプのパンプスと、畳まれた服とが床に置いてある。
「どうぞ。こちらでお着替え下さい。靴はお兄様から聞いていましたので、合うと思います。僕はここで待っています」
クリストはそう言って、部屋の外に出て、扉を閉めた。
アントネッラは着替えとして出された服を手にした。
(最悪の趣味。何か昔見た、安酒場の娼婦みたい)
白のシースルーのワンピースだった。しかも、スカートの丈が長いとは言えない上、おまけに肌着類や下着を着けてからこれを着た場合、服の形が崩れたり下着の形が見えてしまう仕様だ。とは言っても、着替えないとどんな面倒が起こるかわからない。仕方なく、着替えを済ませる。下着なしでワンピースだけしか着られないのは精神的に辛かった。転んでしまえば大変なことになってしまう。
着替えを終えて扉を開けると、クリストがどこからか持ってきた、毛皮の上着を手に待っていた。色はまたしても白。
「どうぞ。寒いと思いますので」
「あ、ありがとう」
アントネッラは受け取ると、早速袖を通した。内心、安堵した。
「では、行きましょう」
クリストはアントネッラをエントランスへと案内した。
「お芝居、今夜は楽しみましょう」
にこやかに告げたクリストに、アントネッラは意外な顔をした。
「あの方の気遣いで、僕とふたりだけです。どうか安心して下さい」
「そうなの?」
「はい。あの方はとてもお忙しいので」
ハーランが一緒に来ると思っていたアントネッラは安堵した。生理的に無理な男といなくて良いなら精神的な負担は軽い。同時にクリストだけならどうとでもできる可能性が高くなったからだ。
馬車に乗せられたアントネッラは、クリストと共に向かった先は、フランチェスコの中心街にある高級食堂だった。
芝居を観に行くのではなかったのか。アントネッラは少々戸惑った。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
店に入ると、ふたりは恭しい態度の給仕たちに迎えられた。
「こんばんは。お連れ様はおひとり様だけで?」
「はい。僕とこの女性だけです」
給仕はクリストの言葉を聞くと、頭のてっぺんから爪先までアントネッラを見た。履いている靴に目を留めると、下心剥き出しの視線を注ぐ。
「上着を」
給仕がアントネッラが上着を脱ぐだろうからと、手伝うべく後ろに回りこもうとしたときだった。
「お気遣いなく。自分でできますから」
丁寧な辞退の言葉に、給仕が一瞬だけ残念そうな顔をする。が、すぐに仕事の顔に戻った。
「今日は、ご希望いただいたメニューをすべてご用意いたしました。お楽しみ下さい」
そのままふたりは個室へと案内された。個室は最大4人くらいなら入れそうな空間だった。なだらかなL字のソファ席で、真向かいではなく90度からやや並ぶような位置関係で食事をするレイアウトだった。それはまるで密談や、密接な関係を持つ者が過ごすことを前提として使う空間のようだ。アントネッラは上着を脱ぐと、軽く畳んでソファの端に置いた。
「ねぇ、観劇じゃなかったの?」
「え? 観劇?」
「だってお芝居って」
「そんなことを言いましたっけ?」
言ったでしょ。『ものすごく面白い、きっと二度と見られないであろう、素敵なお芝居をご覧いただいて』と。アントネッラはそう言おうとしたが、口にできなかった。
ここで給仕が現れた。アントネッラをクリストが興味深そうに見ている様子を一瞥すると、何事もなかったようにテーブルに葡萄酒と発泡水のボトルとグラス、そしてテーブルセッティングを済ませ、「失礼いたしました」と挨拶して個室から去った。このときちょうど、個室の外を隣室を予約した客らしき冴えない男5人組が通り掛かった。
個室の扉が閉まると、クリストはグラスにワインを注いで、アントネッラの前に置いた。
「あの方は、お芝居にあなたに是非出ていただきたいんですよ」
「そんなこと言われても。私」
「でも、ピルロで一時、お兄さんになっていたって聞いていますよ? 役者じゃないですか? あ、ワインどうぞ」
「ああ、私、そっちの発泡水が良いわ」
グラスがひとつしかない上、子ども相手に申し訳ないとは思いつつ、アントネッラはアルコールを口にするのを避けたい気持ちから、そう告げた。
「わかりました。僕の分のグラスをあとで持ってきてもらわないと」
「ごめんなさいね」
「いえ。大丈夫です」
クリストは仕方が無いと言いたげな顔をして発泡水をグラスに注ぎ、アントネッラに渡した。
「ありがとう」
アントネッラは発泡水を飲んだ。ただの水ではなかった、レモンの苦みの中にほんのりと甘みがある。不思議な味に彼女は少し驚いた。
「何これ……不思議な味。初めて飲んだわ」
「美味しいですか?」
「ええ」
そこへ給仕が再び現れる。
「お食事、そろそろお持ちしてよろしいでしょうか」
「もう少し、お仕事の話があるので」
「かしこまりました」
クリストの返事を聞いた給仕は、個室を出るまでの短い間、アントネッラを舐め回すように見つめた。
「ねぇ。お店入ってからずっと気になったんだけど……」
「何です?」
「給仕の人たち、私のことじろじろ見るんだけど?」
「色っぽいからですよ」
当然とばかりに告げるクリストに、アントネッラは少しだけ戸惑った。
「からかわないの。子どもなのに」
「僕は子どもじゃありませんよ?」
まさかそんな切り返しがくるとは思わなかった。アントネッラは一瞬、狐につままれたような表情をする。
「ちょっ。何を言っているのよ?」
「だって僕はそういうコト、好きですし。相手が男の人でも女の人でも」
クリストが笑顔でアントネッラとの距離を詰める。
「何言ってい……!」
潤ませた瞳でじっと見つめるクリストに、アントネッラは本能的に恐怖を抱いた。
「アントネッラさぁん。身体を火照らせてそんなこと言っても、説得力ありませんよぉ」
火照らせて、の一言でアントネッラはハッとした。確かに何となく心臓の鼓動が速い。身体も少し熱い。お酒は飲んでいないのに。
「僕、あなたがほしいです……」
アントネッラが反射的に立ち上がったが、ハイヒールのせいで身体がふらつき、バランスが崩れた弾みでソファに腰を下ろしてしまう。
「今夜は楽しみましょ。絶対にご満足させます」
「い、嫌よ。止めてよっ!」
「大丈夫ですよぉ。市長の妹がそんなことをしている、なんて誰も思いませんから」
勝ち誇った表情でクリストがアントネッラに覆い被さろうとしたときだった。
「あっれー。こっちじゃなかったか? 予約した部屋ぁ」
突然、ガタンという音と共に5人組の冴えない男たちが姿を現した。
「おう、こっちだろ」
「あっれ? マセガキが何やってんだ」
言いながら5人組のひとりがクリストの腕を掴んで引っ張り、アントネッラから剥がした。ふたり目が引き継ぐようにクリストの口を塞ぐ。別のふたりは個室の外で給仕を始め誰かが来ないか見張りをする中、最初のふたりがクリストを隣の個室へ連れ込む。そして、見張りのふたりもサッと隣の個室へ行くと、扉を閉めた。
残ったひとりがアントネッラの上着を指差して、着るように指示する。冴えない40代かそこらの男だ。
「えっ……」
アントネッラが上着を着ている間、男はふたつのグラスに鼻を近づけた。
「どっちも酒。しかも、発泡水っぽいヤツの方がアルコールが強いのをレモンと蜂蜜で飲みやすく誤魔化していた、と。アンタ大方、『水が飲みたい』って言ってこっちを飲んだ。そうだろ?」
男の言葉に、アントネッラは頷いた。
「心理戦を仕掛けてきたわけか。対策がなければイチコロだ」
男はアントネッラが上着を着たのを見ると、彼女に近寄り、耳元で囁く。
「俺が良いと言うまでしばらくしゃべるな。アンタの話は……聞いている」
アントネッラはハッとした。まさかここで、今そばにいてほしい、心強い存在の名前を聞くことになるなんて──。
「アンタがこのザマじゃ、アイツが身動き取れない。事情はここを出てから説明する」
言い終わると、金貨を詰め込んだ小さな麻袋をテーブルに置いてから、アントネッラを抱き抱えて裏口がある方へと走り出した。
夜のフランチェスコの街に出ると、アントネッラを連れて店を抜け出した男は閉店間際の洋服屋へ向かった。
「このお姉さんに、今日明日着られそうな服と靴を今すぐ頼む」
店主が用意してきたのは肌着類一式とピンクのブラウス、明るいブルーのハーフコート、羊毛でできた赤いロングスカートを思わせる裾が太いパンツ、それに牛革の踵が低めだが歩きやすそうなショートブーツだった。アントネッラは試着室でそちらへ着替える。その間に、ふたりの会話が聞こえてくる。
「オバチャン。お金はこれで足りるよね?」
「いえー多すぎるくらいですよぉ」
「受け取っておいてよ。でも、彼女は愛人ちゃんなんだ。だから、誰にも言わないでよ?」
「あらあら。そうなの?」
「俺ちゃん、バレたらカミさんと離婚になっちゃうから」
さっき自分に話しかけてきたときとは別人のような軽い口調だ。
(あの人、そっか。髭面とかが追ってきたときのために……)
頭が回る人なのかも知れない。アントネッラは着替え終えると試着室から出た。
洋服屋を出ると、次に街の一角にある、ひっそりとした構えの一軒家へ向かった。
「もう大丈夫。声出して良いよ。ここは俺たちしか使えない隠れ家だ」
男がそう言ってから付け加える。
「言い忘れていた。俺はエルネスト・ジャカ。錬金協会のドタバタ騒ぎの件で会長命令で動いている」
「会長って、どっち?」
「錬金協会の会長はRAAZ様しかいないよ」
ジャカと名乗った男の言葉を聞いてアントネッラは深い息を吐いた。
「助けてくれてありがとう。ジャカさん。あのとき、もう逃げられなくて、どうなるかと思った」
アントネッラは涙目になった。本心だった。髭面に襲われるかも知れないとばかり警戒していたら、盲点だった。恐ろしい罠だった。あのまま襲われていたらどうなっていただろう。それをネタに脅され、言いなりになるように迫られたかも知れなかったのだ。ギリギリの場面で通りすがりのジャカたちが来てくれたことに感謝すると共に、自分はひとりではない、見捨てられていないとわかったことに安堵した。
「いや、こっちも仕事だからホラ」
「そう言えばあなた、私のことをマイヨから聞いたって」
「ああ。アンタがピルロから連れ出されたことを昨日だかアイツから聞いた。んで、会長がアイツと古い知り合いとも。なら、アイツが身動き取れない状況は会長も困る。そうこっちで判断してアンタのことは勝手に動いた」
「錬金協会の会長も、動いているのね?」
「ああ。俺は協会の監査部の下っ端だ。ウチの部は新体制のメンツととっても仲が悪いんだ」
ジャカはここで水を用意し、アントネッラへ振る舞った。
「まず酒を抜こう。空きっ腹に酒は悪酔いする。それと、じきに部下が戻ってくる。食べ物くらい持ってくるだろ。それで、少し話を聞かせてくれないか。俺たちは会長の部下で、今回の件を調査している担当に報告出さないといけない。そいつがマイヨへも連絡をすることになっている」
「本当に、ありがとう……良かった」
アントネッラは水をごくごくと音を立てて一気に流し込むように飲んだ。涙が頬を伝っていく。すぐに手で拭い、息を整えた。
「それにしてもあの色惚けのガキ、噂以上だ」
「知っているんですか?」
「会長の小姓をやっていたガキで、噂だけは協会でも流れていたんだ。けど、女の弱みを握るために自分の身体ぁ武器にしようなんて、年端もいかねぇガキがやることじゃねぇ。ただの平穏な食事が、地獄への切符とはね」
「あの……一体、何がどうなっているんですか?」
「マロッタの錬金協会が火事騒ぎになって、新体制が発足。でも皆の生活が変わらないから平穏と新体制への歓喜って感じだったのが、1枚めくってみたら地獄絵図だったってことだ。コーヒー淹れたら、話そう」
ジャカはそう言ってから台所へ行くと、コーヒーの用意を始めた。
255:【OPERA】偽りの平穏と歓喜の裏側にひそむは、恐ろしい地獄絵図2023/04/10 20:00