023:【PELLE】遙かな昔の思い出
前回までの「DYRA」----------
サルヴァトーレは去り際、「本来の姿」でDYRAに接するが、その接し方はDYRAにとって、言葉にできないほど不愉快そのものだった。
夜。ペッレにある、錬金協会の建物の一室に、ピアノの音色が響き渡る。
グランドピアノで曲を奏でているのは、銀髪と銀色の瞳の、背の高い男だった。
「面倒くさいことに、なりそうだ」
男はぼやきながらも、軽やかにピアノを弾く指を止めなかった。
「動向を、見逃すなよ? 絶対に」
ピアノを弾きながら呟くように言うと、部屋の扉のすぐ脇に立っていた、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を掛けた、小太り体型の冴えない小間使いが丁寧に一礼した。
「かしこまりました。会長。それでは早速」
「ああ。居場所が確定したら、私も向かうことにする」
最後の言葉を聞いたところで、小間使いはそっと部屋から去った。
一人になった男はピアノを弾くのを止めると、立ち上がった。窓際の方へ行くと、カーテンの影から窓の外をちらりと見た。静まりかえった夜の街の光景が広がっている。
(まったく。何が面白くてあんなガキといるんだか)
昼間のペッレでの出来事を思い返し、深い息を漏らした。DYRAが取るに足りない、無力を絵に描いたような少年といることがとにかく面白くない。
(何もかも、仕組んでみた茶番とわかっていても、気分いいものじゃない)
DYRAに何が起こっているのか、ただ一人、すべてを把握しているつもりだった。
いつしか、男は記憶の海に意識を向けていた。
一〇〇年ほど前、奈落の底に落ちた二人のうち、先に目を覚ましたのは男の方だった。自己回復機能があるとはいえ、あのときは体力も気力も消耗し、自身の肉体を維持するのが精一杯の状態だった。傷口を塞ぎつつ、離れた場所で倒れているDYRAのもとへ一歩一歩、おぼつかない足取りで歩み寄った。彼女も腕や足、そして腹部、背中などに大きなダメージを受けていた。
「キミが、ムキになるから……」
男は、意識を失って倒れている女の肩を担ぐように起こした。
「まずいな……」
DYRAもその身体に自己回復機能が備わっているが、それでもこれだけのダメージを受けてしまえば、数分で治るとはいかない。彼女を放置するわけにはいかない。助けなければ。男は、そのままDYRAを抱きしめると、自らの周囲に赤い花びらを舞い上がらせ、その場から彼女諸共、姿を消した。
二人が移動した先は、真っ白な空間だった。床も壁も天井もただただ白い。部屋にあるものといえば、半透明の円筒形の大型容器が二つだけ。横倒しに設置されたそれは、長さはどちらも人が一人か二人入れるくらい。中は水のような液体で満たされていた。
男は自らに残された力を使ってDYRAをその容器の中に入れると蓋を閉じた。
「これで、何とか」
自力でもう一つの容器にたどり着いた男は、ベッドにでも倒れ込むような勢いで、容器の中へその身を投げた。
意識を戻すまでに七〇年近くかかった気がする。しかし、DYRAはもっとかかった。
あるとき、目覚めぬ彼女を容器から出し、この文明世界のどこかにある、小さな町の外れにある屋敷へ移した。彼女を休ませつつ、外の空気に身体を馴染ませるためだ。いつまでも無菌室のような空間に入れっぱなしでは、外に出られなくなってしまう。この後しばらくして、DYRAは目を覚ましたが、数か月は寝たきりよりましなだけの状態だった。
随分時間が経ったある日、一人の来訪者が姿を見せた。もともとは近隣の歴史文化資料を保存してある倉庫に連日入り浸っていた人物だった。ただ入り浸り、偶然顔を見るだけの関係なら驚くこともないし、記憶に留めることすらもない。けれども、この人物は違った。一体どこでどうやって自分たちの存在を知ったのか。何やら、自分と彼女の正体を漠然とではあるものの、勘づいている風だった。
殺してしまえば問題はない。しかし、DYRAが回復していない現状で、目立つことは控えたかった。そこで、この人物の素性を知る目的も兼ねて、いったん泳がせることにした。問題の人物は時折、DYRA見たさからか、屋敷の庭の方へ近づくことこそあったものの、それ以上、取り立てて何かをするわけでもない。
異変が起こったのは、数ヶ月後だった。
倉庫に錬金協会の関係者と称する若い男が押し入り、この人物を捜しに来たのだ。だが、件の人物は騒ぎが起こる直前、まるで入れ違うかのようにすっと、姿を消していた。昨日まで屋敷に近寄ったり倉庫に入り浸ったりしていたのが嘘のように。このとき、押し入った若い男はハッキリ言った。「鍵を捜せ。奴を捜せ」と。
記憶の海から戻ってきた男は、思い出したような顔をしてみせた。
(あのガキが持っていたもの……)
あれは、『ある研究結果』が収められたものだ。錬金協会で用いている表現を使うなら、『文明の遺産』とでも言うべきか。そして個人的にもとても大切にしていたものだ。だが、サルヴァトーレとして姿を見せた手前、いきなり「渡せ」だの「返せ」などと言えるわけがない。救いは、今、この文明で生きる人間たちが目にしたところで、本来何に使うものなのかを理解できるものではないことだ。
とは言え。
今の状況が面白いか面白くないか、と問われればその答えは間違いなく「面白くない」だ。それでも、男は鍵一つのために今、自分から人目を引く動きをすることだけは避けたかった。
(所在がわかった。何も知らずに宝石よろしく後生大事に持つだけなら、死んでからそっと取り戻せば良いだけのことだ。だが……)
自分や彼女の正体を知った上で、明確な敵意を持つ者が手にする可能性が出てくるなら、話が変わる。今の持ち主はあの無力を絵に描いたような少年なのだ。
どこかのタイミングで殺して奪うだけでいいなら簡単だ。けれども、今、下手にそんなことをしようものなら、DYRAがどういう反応をするかわからない。現時点で彼女のいらぬ不興を買う必要はないし、買いたくもない。
(いつまで私がこんな嫌われ役を演じる必要があるんだか。まったく。こっちの身にもなってくれ。可愛いDYRA)
男は困ったものだと言いたげな表情でもう一度夜の街並みをちらりと見ると、ホームバーがある隣室へと移動し、少量のブランデーを飲んだ。
その場でまろやかで刺激的な味を楽しむと、またグランドピアノのある部屋へと戻り、先ほどと同じようにピアノを弾き始めた。
改訂の上、再掲
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