頁023.並び立つ日
「うー、ん……」
書類との長きに渡る戦いを終え、思わず伸びをした。身体のあちこちから音が鳴る。知らず知らずのうちに身体が凝り固まっていたようだ。けれどその甲斐あってか、想定していた時間よりも早く済ませることができた。常にこのペースを維持できれば良いんだが…まあ言っていても仕方ないか。
作業が終わったのでさて寝ようかと思ったが……普段より早い時間のせいか、はたまた突き刺すような冷気のせいか。まだ眠気が来る気配はない。ああ、少しのども乾いたし、何か温かいものが飲みたい。
「……」
そこでふと、いつかのことを思い出した。まだトールの家にいた頃。不安や寂しさがないまぜになって眠れなかった夜によくホットミルクを飲んだものだ、と。
温かくも、どこにでもあるような記憶。ただ誰かが隣にいて、一緒に飲んでいるだけなのだが、それがとても落ち着いたのを覚えている。
トールのことを考える。ここ最近様子がおかしいが……今はどう過ごしているだろう。
かつて私が不安を抱えていたように、トールも何か思うところがあるのだろうか?
そして――私にできることはないのだろうか?
「……行くか」
ひとり分もふたり分も大差ない。寝ているならそれはそれでいいと思い、飲み物の用意をすべく食堂へと向かった。
結論から言えば、トールは起きていた。
部屋の換気をしたばかりのようで、室内はとても寒い。窓を開けてしまえば室内と言えど外にいるのと大差ないな。
だが来訪のタイミングとしては良いと言えるだろう。寒いほど温かい飲み物が身に染みる。まだ熱いのでわずかにすすり、ひと息ついた。
「なんだか、懐かしいね」
おとなしく飲んでいたトールが口を開いた。やはり思うところは同じか。
「ああ。よくこうしていたはずなのにな。ずいぶんと、懐かしく感じる」
「あはは、俺も同じこと思ってた」
トールが笑う。私もわずかに頬が緩むのを自覚した。私はトールのようには笑えないが、それでも感情がないわけではないのだ。
――しばしの間、他愛もない話をしていた。それはかつての思い出話であったり、あるいは最近出会った人々のことも。
だから、ギルドの話になったのも――別段、おかしいことではなかった。
「ねえ、エレノア。エレノアは――ギルドを、はじめて良かったと思う?」
そう、おかしくはない。
けれど私はその口調に違和感を覚えた。
例えるなら、それはまるで――追い込まれた者のようで。
「俺、何度も思ったんだ。俺は満足しているけど、それは俺の勝手で、エレノアは振り回されているだけじゃないかって……」
トールのカップはすでに空で、その手はカップを弄んでいた。何度も繰り返されるその動作が、トールの言葉と重なる。
「俺はいっつもそう。何かって言うとエレノアを巻き込む。エレノアがそこにいてくれるのが当たり前だって思って、決めてしまってから――後悔する」
ここで私は――実のところ、違うことを考えていた。真剣に悩んでいるトールには申し訳ないが、私はひどく驚いていたのだ。
こいつでも後悔はするのだな、と。
「結局のところ、俺は自分のことしか考えていないのかもしれない。これが最善だと信じ込んで、間違えてはいないんだって思いたいのかもしれない。だけどそれは俺が思い込んでるだけで、エレノアには……エレノア?」
違うことを考えていたからだろうか。トールが訝しんだ様子でこちらを覗き込んできた。やがて口をとがらせる。
「もう、何で笑ってるんだよ。俺、結構真剣に話してるんだけど」
笑っている? 私が?
言われ、頬に触れてみると、わずかに口角が上がっていた。
「すまない。そんなつもりはなかったんだが……実のところ、驚いていてな」
「驚く? 何を?」
「…お前でも、後悔したりするんだなと」
言うべきか一瞬迷ったが、ここで正直に告げなければ不義理だろう。そう思ってありのままを伝えたのだが……ああ、なんとも言えない表情になったな。一言で言えば「呆れた」というところだろう。
「……あのね。エレノアは俺を何だと思ってるの」
指先で眉間を伸ばすような動作をしながらそう言われた。
こんなにも真剣に話す機会などめったにない。私も少しくらいは普段口に出さないことを言葉にしようか。
「私はな、お前が間違えたり後悔などしないと思っていたんだ」
無論、考えてみればそんな人間などいるはずがない。どんな者であれ、人は失敗を積み重ね、悩み、苦しみながら生きていくものだ。
それでも私には、トールのそのような姿が想定できなかったのだ。
「お前はいつだって私の前を歩いていた。それが正しい道だと指し示すかのように」
思えば私は、トールが歩いた道をただなぞっていただけなのかもしれない。トールが進む道ならば大丈夫だと安心して、自ら選択することをしなかったように思える。
自らが前を歩き、人を引き連れ歩む。それは、これまで選択してこなかった私にとってはひどく不安になるものだ。
……そうか。なんとなく、わかった気がする。
「お前がギルドを始めると言った時、不思議で仕方がなかった。何故私を必要とするのかと」
“エレノアが一緒にやってくれるなら…きっと大丈夫”
かつてトールが私に告げた言葉。その言葉で私の不安は鎮まり、やってみようという気にさえなれた。
ようやく理解できた。この言葉はきっと、裏返しの言葉でもあったのだ。
「私もお前も、同じだったんだな。トールがいるのなら大丈夫だ、と…私はそう思ったんだ」
自分がどう思ったかを今更知るなど愚かにもほどがある。相も変わらず私は不器用な奴だな。
そして同時に思う。トールも私と同じように、先をひとり歩くことが不安だったのだろう。
これまでの私はトールなら大丈夫だろうと手を差し伸べることさえしなかったのだ。さっそく後悔をする羽目になったが、できることもある。
「心配するな。トールが選んだ道は、私が選んだ道でもある。お前が自分の選択を信じているのなら、私も信じられるさ」
任せるだけが信頼ではない。
ともに並び立つのもまたひとつの形だと私は結論付けた。
「あーあ……エレノアには敵わないなあ」
不意にそんな言葉が聞こえてきた。トールは笑っていた。先ほどの気負った様子ではなく、いつもの笑顔。言葉では悔しそうにしているが、声も表情もどこか晴れやかだ。
「なんだ。不服か」
「いいや? 全然」
トールは詳しく語らなかったが、私もあえて追及はしなかった。どうやら迷いは晴れたようだから。
そして私たちはともに歩き出す。
どちらが先に行くでもなく、ともに並んで。
ひとりでは足りない私たちだが、並び立てば何とかなるだろう。
こうしてギルドを始めてから初の冬は過ぎていったのだが……この直後、私は風邪をひいて寝込むことになる。
そのせいで私がいかに貧弱であるか、私が倒れた際のトールがいかに使い物にならなくなるかといったことがギルドの面々に知れ渡り、のちの語り草となることをこの時の私たちはまだ知る由もなかった。
最初期はここでようやく終了。
次回はこれまでの登場人物まとめになります。