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学としての哲学とは、言語分析学としての哲学のみ。私の分析哲学試論

作者: 舜風人

言語分析学としてだけの哲学



のっけからいきなりですが、、


私は「哲学」とは、「言語分析学」、、だと思うのです。


というか、、それだけに過ぎない、、と否定的に言いたいのですね。


哲学とは、、言語分析だけでありそれを決して越えられないと、


声を大にして言いたい。



或いは批判を恐れずに



もっと言い切るなら


哲学とはただの、、言語ゲームに過ぎない、と、断言したい、ですね。



なぜなら?



理由はごく簡単ですよ。



1、言語を離れて、、というか言語以外で、思想(哲学)を表現できない。



2、その言語なるものは、非常に限局的で、かつ、あやふやなツールである。



以上の二つの理由から、哲学とは、つまりあくまでも、言語内での、言語概念の操作ですよ。


思想を表現するに、いまだかって、言語以外で表現した人がいましたか?


いないでしょ?


というか、、哲学書は、すべて言語での表現であり、思想は言語でしか表現できない


からです。


ところがその「言語」なるものほど、いい加減で?


あやふやなものってないでしょ?


そもそも、思想(哲学)とは「名づけ」に始まるのです。


命名ですね。というか、それだけで終わりだといっていいでしょう。


自分の観念に命名する、それだけが哲学のすべてだからです。


それでオシマイなのです。


それ以上でも以下でもない。


哲学ってそれだけです。


というのは我々は言語でしか対象をとらえられない、、というか、


対象を言語化する、、つまりこれが命名ですが、、そうすることでしか


意識を概念化、、認識化できないのです。


つまり人間の認識能力とは言語の枠内でしかできないという事実です。


言語の枠外での認識なんてありえない。


(ここでは神秘主義はひとまず置いておきますよ)


学としての思想は言語内の、、というか言語化したうえでの認識しかない、


ということです。


しかし名づけとは,命名とは、


対象が実在してようとしてなかろうと可能ですよね?


我々は意識下に浮かんできた妄想に命名できるのですからね。


だから名前があるからと言ってじゃあ、それが実在するかと言われれば


それは保証できませんよね。


ここで言葉以外の世界に生きてる存在についてちょっと考えてみましょうか?


たとえば赤ん坊です。


赤ん坊は言葉を介さないで世界認識しています。


その認識とは


名詞的認識


動詞的認識


その二つに集約されるでしょう。



個々の事物の認識と、


それが、どうなるか、どう動くか、


その二つの認識形式ですね。


これが赤ん坊の世界認識です。


それが次第に言葉を得ると、


言葉を介しての認識にとって代わるというわけです。


ところが言葉というものは非常にあいまいであり


その時その時の状況でどうにでも解釈が揺れ動くものでもあるのです。


つまり言葉とは非常に情動的なもの、つまり、非科学的な、シロモノですよ。


そんなものでしか、、人は、深淵であるべき思想というものを表現できないんですよ。


これってコメディ?でしょ?


もっとほかにないのか?


科学的に、ち密に、論路的に、、正確に、、解釈がぶれないで


思想を表現できるツールはないのか?


ありません。


無いです。


無いのです。


コトバしかないのです。


言葉なんてあいまいでその時の声調やら、表情やらで


おんなじことを言っていても


全く意味が違うことだってあるんですよ。


たとえば、、


「雨が降ってきたなあ」


これは、、「雨が降った」という事実を述べてるだけでなくて



「雨が降ってきたから洗濯物入れなくっちゃ」、という意味もあるだろうし、


「雨で大好きな野球が中止だよ」という意味もあるでしょう。


つまり全くおんなじ文章、、言語表現から聞く人によって意味なんてどうにでも


解釈できる、


言語ってこんなにも、、あいまい極まりないものなんですよ。


こんなツールでしか、厳密な思想を表現しようとすることができない人間って?


大間違い?でしょ?


でも人は言語でしか自分の認識を表現できない。


言語以外では思想を表現できない。


だったら?


その言語をもっと洗練させる?しかないでしょ?


洗練させるとは


つまり、


科学言語と日常言語を区別するってことですよ。


思想を表現しうるに足るような、もっと精密な、厳密な言語



それをとりあえず「科学言語」と命名しましょうか。


そういうツールをまず作ることから始めなくてはダメでしょう。


あいまい極まる日常言語を、ただ、無自覚に流用して


それで精密な思想を記述するって?


ダメでしょう。


でも?


本当にそんな「科学言語」の創出は可能なのでしょうか?


もし、出来るならもうすでに私なんかよりもっと頭のいい人が過去に、すでに


つくってたハズですよね?


そんな理想の精密言語名なんていまだかって誰も作れなかった。


今まですべての哲学者たちは「日常言語」を流用して

そこに自分が新たに命名した、概念を貼りつけただけだった。


それが実体でしたね。



つまり「科学言語」なんてムリなんですよ。


出来ません。それが哀しい?現実です。



ということで、ここは


むしろですね。


逆手に?とって、


「日常言語」にコペルニクス的に回帰したらいいんじゃないでしょうか?


そしてそこに、あえて、とどまり続ける。


つまり日常性に回帰する、


もっと俗な表現だと、どっぷりとつかりきる。


そして日常言語世界で、言葉遊びに無邪気に興じる。


結局戻るべきはそこでしかないってことですよ。


まあ、ということはですね、


ハッキリ言って「哲学の終焉」ですけどもね。


エライ哲学者も、ぼければ、ただの日常言語世界でのオジイチャン?ですものね?


まあこれが結論?ですか?


でも、、、


そもそも言語なんてはじめは「パロール」ですよ。


発声言語です。


人が何かを見る、それを命名する。


そこには民族性とか、人種性の制約がある。


たとえば、色、、ですが


日本人には世界で一番、多様な色の表現があるそうですね。


さすが、繊細な四季のポエムの、和歌心の国、民族ですね。


ところが世界には何と、5種類しか、色表現が無い民族もいるのです。


よっぽど色の無い、地域に住んでるんでしょうね。


このように名づけとは民族性に制約されるのです。


つまり言葉とはそもそもがその成り立ちは具体物の補足であり記号化です。



それが言葉の限界です。


ところがそういう日常言語でしかないツールを使って


神とは?


人生の意義とは?


なんて言う本来言葉の用途以上のことを表現しようとする。


これがすべての過ちの根本原因ですね。


つまり語りえないことまでもムリに語ろうとする。


ことばにはそんなことはできませんよ、と知っていても



ムリに不正使用?しようとする。


言葉の限界性を越えて語りえないことを語る。



それは言葉遊びですよね。



言葉ってそもそも形而上学を語るためにはできてないってことですよ。



それなのに


神とは?

物自体とは?

イデア界とは?

真理とは?


というムリなことを言葉にさせようとする。

これが諸悪の根源です。


言葉の不正使用を止めろ、

言葉ってものは日常性しか語れないんだぞ。

つまり形而上学は成立不可能なんだよ。


そこが、、「学としての哲学」の臨界地点です。


それを超えると、、


そこはもう「学」じゃない地点ですよ。

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