7.
【くそっ、時間がない! もう奴らに見つかったじゃないか。数字が百になれば、僕は君を助けられない。その時は、頬を切り裂かれるくらいじゃ済まないんだ。だから立て、早く!】
夢であってほしいと現実逃避をしてみても、結局のところ冷酷な現実は彼女を引きずり下ろした。聞こえてくる男の言葉の意味は、彼女にも分かっている。
ここで死ねば、先ほど男に捕まった時のような安らかな死は迎えられないだろう。分かっている。分かっているのだ。
(ベアルシ・ヒル。何をしているの。しっかりしなさい。震えながら無様に死ぬためにここに来たわけじゃないでしょう。何度この愚かな行為を繰り返すつもり? 一体誰があなたを助けてくれるっていうの?)
誰も助けてはくれなかった。昔から、彼女を助けてくれる者など一人もいなかった。
だから、ここにも現れはしない。自分を鼓舞するように頬を一度強く叩いたベアルシは、まだ力の入らない脚に無理やり力を込めて立ち上がった。
「ごめんなさい。一瞬、気が動転していました。教えてください、どこへ行けばいいのか」
【今すぐベッドの下へ潜り込め。そこに取っ手がある。その中に入って、出てくるな。絶対にだ。どんな音が聞こえても、出てきちゃいけないよ】
声だけが聞こえる彼の導きに従い、ベアルシは先ほどまでの狼狽が嘘のような素早い動作でベッドの下へと這い込み、手で周囲を探った。
あまりに急いで探ったため、飛び出した木目に指を刺され、切り傷を負ったが、気にする余裕はなかった。床をなぞること数秒、手が真っ黒になるのも構わず探っていた彼女の指先に小さな取っ手が触れ、力一杯それを押し込んだ。
「九十二、九十三……」
長い間開けられることのなかった扉は固く錆びついており、取っ手を引いてもなかなか開かなかった。焦るベアルシの耳に、「九十四、九十五」と数える声が届く。
無理な姿勢で不適切な方向に力を込めているため、腕の筋肉が断裂しそうだったが、
選択肢はなかった。
九十七。
扉が開いた!
「九十八」。そこへ滑り込むように入ると、開いた時とは比較にならない速さで扉が閉まる。
「九十九」。扉が閉まる直前、最後にベアルシがベッドの上に置いたウサギのぬいぐるみが、扉を守るかのように彼女を見つめていた。
【心配しないで。君ならできる。どうか逃げて。約束は忘れて】
ベアルシを助ける濁った男の声と、幼い少女の声が混ざり合った言葉を最後に、彼らの声は途絶えた。そして。
そして。
【どこだ? どこにいる?】
【きゃあははは。逃げたのかい? 逃げたのか?】
【鬼ごっこだ、鬼ごっこをしようよ】
頭上から聞こえる笑い混じりの声に、ベアルシは思わず口を強く塞いだ。だめ。悲鳴を上げちゃだめ。呼吸しちゃだめ……。
狂ったように脈打つ心臓を抜き取ることができれば、どれほどいいだろう。
己の心臓の音を聞きながら、ベアルシは体を極限まで丸めた。
早く行って、
消えて。
お願い……。
タ、タ、タ。
頭上で足音が聞こえる。重さを持つ存在が立てる音ではなく、空気がかすめるような軽い音。しかし、ありえないほど恐ろしい音。
息をすれば見つかってしまうだろうか、目をつぶれば目の前に立たれるのではないだろうか。
ベアルシは目を開けたまま、虚空を睨みつけて硬直していた。冷や汗が血と混ざり合い、頬をなぞった。
【僕たちは君がどこにいても見つけ出すよ】
【君は美味しそうな食べ物】
【甘い果実】
【芳しい香水】
先ほどまで耳を裂きたくなるほどおぞましく響いていた残酷な声は、いつの間にか甘い響きを混ぜて彼女を誘惑していた。答えてはいけない。
それなのに、答えずにはいられないような衝動に駆られる。唇を噛み、無理やり目を閉じた。見るな、答えるな。
そのまま、奴らが通り過ぎるまで。
【永遠に僕たちと一緒にいよう。僕たちに食べられて、永遠に楽しく暮らそう。ねえ?】
【ウサギの人形が隠したのかな?】
【生意気な人形め】
【お前は昔から気に入らなかったんだ】
【引き裂いてやろうか? バラバラに引き裂いてやろうか?】
【そう、楽しいゲームの始まりは『同族殺し』からだ!】
【あははははは!!】
正気を保つために聞こえてくる声を流していたベアルシだったが、「ウサギの人形」という奴らの言葉に顔を上げた。ウサギの人形? さっきの……。
心臓が冷たく凍りつくような感覚に襲われた。全身が冷えていく。奴らはどうやって人形を見つけ出したのか? いや、違う。ベアルシにさえ見える人形だ。
奴らに見えないはずがない。
(同族殺し……どうすればいい? 助けなきゃ。でも出られない。出たら私も殺される。何をすればいいの? 私にできることは何もないの?)
思わず震える体を両腕で抱きしめ、ベアルシは頭を垂れた。音を立ててはいけない。でも。でも……。
良心と本能の間で板挟みになっていたベアルシを嘲笑うかのように、大きな音が散発的に響き渡った。何かが壊れる音、そして破裂音と間髪入れずに聞こえてきたのは、布が引き裂かれるおぞましい音。
何度も、何度も布を裂く音に混じって、笑い声が上がった。
そして聞こえてきたのは、か細い女の子の悲鳴。存在そのものを引き千切るような音に混じった、押し殺した苦痛の呻き。ベアルシは目を閉じてしまった。涙が溢れ出した。
止めたかった。守ってあげたかった。自分のために切り刻まれているあの幼い魂を休ませてあげたかった。しかし、自分の想像以上に臆病なベアルシは、救うどころかその光景を見る勇気さえ持てなかった。
ただ、行き場のない謝罪だけが心の中で繰り返された。ごめんなさい、ごめんなさい。
音のない涙が袖を濡らした。
徐々に小さくなり、やがて途絶えた呻き声の向こうから、笑いを含んだ声が聞こえてきた。その声からは、濃い血の臭いがした。
【どこにいるのかな? 階段の下かな? まさか脳みそのない手足どもが先に食べたりはしてないだろうね?】
【逃がさないよ】
【階段を降りろ】
【僕たちは君を見つけ出す】
(タ、タ、タ)
【君を探す道筋は、あまりにも楽しいね】
【うふふ、早く遊ぼう。ウサギのようになる前に】
【他の連中のようになる前に】
【君が僕たちのようになる前に】
この上なく楽しげな声たちが、ギシギシと床を踏み、階段を降りていく音が聞こえた。笑い声一色のその音が遠ざかり、聞こえなくなるまで、ベアルシはまともに息もできずにいたが、やがて一気に息を吐き出した。
うずくまっていたために血の巡りが悪くなった状態で勢いよく立ち上がり、一瞬よろめく。
(弱気なフリはやめなさい、ベアルシ。あなたにそんな資格はないわ)
自分を厳しく叱咤し、ベアルシは体勢を整えた。何も見えない空間を手探りで進み、先ほど入ってきた扉を探す。慎重に扉を開けて外に出ると、机と一体化したように壊れたベッドが真っ先に目に飛び込んできた。
「……っ」
先ほどとは違う意味で涙がこぼれた。もっと早く正気に戻るべきだった。もっと早くここを去るべきだった。
形も留めていないウサギのぬいぐるみが、彼女が巻いてやったスカーフの下に無残に散らばっていた。
引き裂かれた耳が悲しく分解され、零れ落ちたプラスチックの瞳が、この状況に至ってなお彼女を案じているような光を放っていた。
ウサギのぬいぐるみの遺骸をかき集めながら、ベアルシは無理やり涙を飲み込んだ。泣いていてはいけない。涙は体力を奪う。なぜだか分からないが、ぬいぐるみたちはベアルシを助けようとしている。盲目的に助けてくれる。あの男と関係があるのだと感じた。
(それでも嫌よ。彼らの犠牲を足がかりに逃げ出すなんて。そのためには頭を使わなきゃ。ベアルシ、頭を使いなさい)
スカーフでぬいぐるみの遺骸をすべて包み込み、彼女がゆっくりと立ち上がろうとした、その時だった。彼女のポケットから、先ほどこの部屋で見つけた手帳が落ちた。落ちた手帳をじっと見つめながら、ベアルシは「これは何だったかしら」と記憶を辿り、やがてここで拾った手帳だと思い出した。
ほんの少し前のことなのに、遠い昔のことのように記憶が霞んでいた。すでに木屑と化した机の上に置かれていた手帳。思い出してみれば、確かに何かが記されていた。
「……」
ここが安全かどうかは確信が持てないが、当面の間、奴らが戻ってこないことだけは確かだった。ベアルシは慎重に周囲を伺った。あいにく燭台はなかった。
代わりに、机の中にあったわずかに残った蝋燭に火を灯し、手帳を開いた。古びて読めない部分もあり、後ろに行くほど破り取られた箇所も多かったが、とにかく一ページ目は残っていた。ベアルシはその部分から集中的に読み始めた。周囲の物音に耳を澄ませることも忘れずに。
『果たしてこの手帳を見る者がいる時、私はどうなっているだろうか。死んで奴らの「仲間」、あるいは「餌」になっているだろうか? それとも無事に生きて、この忌々しい屋敷を抜け出せているだろうか……知る由もない。
だが、私が自らの記録を写した大切な手帳をこの場所に残していく理由はただ一つ。どう流れてきたかも分からぬ貴殿が、ここに閉じ込められ、手帳を読むことしか残されていない貴殿が、無事に抜け出せることを願う、ただそれだけのためである』
(先に来た人の記録……)
間違いなく有用な情報があるはずだ。ベアルシは急いで次のページをめくり、読み耽った。
『もしこの手帳を読んでいる者がいるなら……貴殿はひどい間抜けか、正気を失ってこの家を買った狂人か。そう、詐欺に遭って来た可能性もあるな。そして、この多くのケースの中で、貴殿が私と同じエクソ시스트(除霊師)であるなら、己の力を過信せず、この屋敷を去ることを勧める。
これまでの私は、傲慢な小僧だった。十三歳の時から大人たちにも手の負えない多くの悪霊を除霊してきたのだから!』




