6.
白く濁った眼球が何かを探すように、幾度もぎょろぎょろと転がった。眼球が動くたびに、彼の体は小さく痙攣し始める。先ほどまでは腕しか動かなかった目の前の異形の蠢きは、やがて全身へと広がり、真っ白な足の指先に至るまでピクリピクリと震えだした。
白い鞏膜ばかりが鮮明に見えていたその眼球が、ようやく瞼の奥に隠れていた瞳を見つけ出すことに成功した。ベアルシが想像したものと酷似していながらも、はるかに濁り、おぞましい青い瞳は、数回瞬きをした後、ベアルシをじっと見つめた。
それと目が合った瞬間、屋敷が異様にざわめきだした。どこからか、ねちゃつくような忍び笑いと絶望に満ちた悲鳴が、屋敷を取り囲むように渦巻くのが感じられた。
耳を塞ぎたいのに、手を動かすことができない。
かろうじて止まっていた息を吐き出すが、肺に流れ込んでくるのは、先ほどまでの埃臭い空気ではなく、生臭い血の臭いに満ちた吐き気を催す空気だった。込み上げる嘔吐感を必死で堪えながら、ベアルシはその異形の姿を見守った。
その形体は久々に開いた目が馴染まないのか、何度も何度も瞬きを繰り返し、あたりを見回し始めた。分散していた視線があち코ちを探索し始め、やがてベアルシと視線を合わせると、ふっと笑った。
「おや、お客様がお見えだったんだね? ごめん、ごめん。あまりに久しぶりに起きたものだから」
【キキキッ】
【あははっ】
先ほどとは明らかに違う、実に聞き心地のよい美声の背後で, どこからか作為的な笑い声が同時多発的に聞こえてき、ベアルシは身を震わせた。乾いた唇を噛みしめる。確かにここにいるのはベアルシと目の前の「何か」だけのはずなのに、聞こえてくる声は数えきれないほどあった。彼らは何かを絶え間なく語り続けていた。
【そのまま死んでしまえばよかったのに】
【いいえ、もう死んでいるじゃない?】
【きゃあはははは!】
声はどれも細い美声で、一つひとつを聴けば相当に美しかっただろうが、今は違った。悪意に満ちた声たちは、聞いているだけで耳が遠のくようだった。聞きたくない。思わず顔をしかめ、後ずさりした。落ち着くのよ。落ち着いて、ベアルシ。
声がひとしきり収まると、男は目を丸くし、大袈裟な身振りで立ち上がった。その姿はまるで安っぽい演劇に出てくる下手な役者のようだったが、この不穏な空気を高めるには十分すぎるほど効果的だった。ベアルシがビクリと肩を揺らす。
「僕も困った人間だね。お客様を緊張させてしまうなんて。肩の力を抜いて、お嬢さん。ははっ、心配いらないよ! 食べたりしないから。……『僕は』ね」
彼の軽口混じりの言葉に、ベアルシは浅く息を吐いた。「自分は」食べないだなんて、なんて中途半端な物言いだろうか。全身が、そして脳が彼女に危険信号を送っていた。あいつから逃げなければならない。あそこから離れなければ……早く!
ベアルシがすぐ隣にある扉に歩み寄ると、あいつの目が細められた。手を伸ばせば回せるはずのドアノブを、彼女は回すことができなかった。見えない何かが彼女を繋ぎ止めていた。ベアルシが一言の返事も返せずにいるというのに、あいつは構う様子もなく言葉を継いだ。
「もう行っちゃうのかい? よしてよ、水臭いじゃないか。せっかく数年……いや数十年? 分からないな。とにかく、それぶりに来てくれたお客様なんだ。もう少し楽しんでいってよ。そうだ! 今からゲームをしよう。楽しいゲームをね」
彼が両手を広げて叫ぶと、その言葉に呼応するように、いくつもの声が乱雑に響き渡った。
【ゲームをしよう】
【君が無事に逃げ切れたら勝ちの、鬼ごっこ】
【負けたら?】
【負けたら僕たちにムシャムシャと噛み砕かれて食べられちゃうのさ!】
【他の連中がそうだったみたいにね】
【若い女の人は久しぶりだ】
【若い女の人は蜜みたいに甘いんだよ】
【若い女の人は温かい】
【とっても柔らかくて、美味しいんだ】
【君の体、僕たちにちょうだいよ】
耳を伝って全身を撫で回すように、笑い声が木霊した。耐えきれず片耳を強く塞ぐと、やがて声は消えたが、代わりをなすように大時計の鐘の音が鼓膜に突き刺さった。
「ちょうど時計が鳴ったね。リミットは五度目の鐘が鳴り終わるまでにしよう。それまで生き延びるか……そう、屋敷の外に逃げ出しでもしたら、君の勝ちにしてあげる! 綺麗なお嬢さんだからって、サービスしすぎかな? まあいいさ、可愛いんだもの。さあ、逃げてごらん。鬼ごっこはどうやるんだったかな?」
【数字を数えよう。一つ、二つ】
【百になったら、鬼は動き出す】
【僕たちは動き出す、君を見つけるために】
【君を食べるために】
「ああ、百秒だね。じゃあ、数えるよ! ……一、……二、……三……」
男は滑らかな微笑を浮かべ、一つひとつ数字を数え始めた。毛のよだつような笑みだった。彼のカウントに合わせて、屋敷の下層からガタガタと何かが揺れる音が響いた。どうすればいい? どうすればいいの?
その姿に、聞こえてくる音に、ベアルシは正気を保てずにいた。進むことも退くこともできず、ベアルシが拳を固く握りしめていた、その時。
【扉を開けて出てきて! さっき私たちが会ったあの場所へ。早く!】
切羽詰まった女の子の声が耳元で響いた。確かに聞き覚えのある声。今聞こえてくる喧騒の中で、最も安心できる声。
声に導かれるように、ベアルシが先ほどの埃積もる居住空間へと飛び込むと、今しがた通った扉がガチャンと音を立てて固く閉ざされた。闇の降りた部屋に入って初めて、ベアルシは自分が燭台を置いてきてしまったことに気づいた。
閉ざされた扉と深い闇に、ベアルシは道標を失い、その場にへたり込んでしまった。恐ろしかった。何かをしなければならないとは分かっているのに、何をすべきか分からない。
(一体どうして、私にこんなことが起きるの?)
この屋敷に死体があると知った瞬間、逃げ出すべきだった。なぜあんなものを見つめていたのか。なぜあいつのために何かをしようとしたのか。先ほどまでの勇気はどこかへ消え失せ、残されたのは衰弱した精神だけだった。さっきの時間に戻れたらどれほどいいだろう。
殴り飛ばしてでも自分をこの屋敷から追い出したはずだ。いや、最初からこの家に来ることもなかっただろう。そういえば、親戚だというあの男。本当に親戚なのだろうか? 会ったことがあるような気もするし、全くの赤の他人のようでもある。
突如として訪れた緊迫した状況に、ベアルシはパニックに陥った。逃げなきゃ。逃げなきゃ……逃げなきゃいけないのに。
「どこへ行けばいいの……?」
ポタポタと落ちる涙が、彼女のスカートを濡らしていた。依然として耳元には「四十四、四十五」というカウントの声が聞こえてくる。狂いそうだった。このまま意識を手放せれば少しは楽になれるだろうに、気を失うことさえ許されない。
勇気を振り絞ろうとしても、どこからか聞こえてくる声たちが彼女の恐怖を煽り立てた。「四十九、五十……」。声を断ち切るように、誰かが彼女の腕を引っ張った。ベアルシが発狂する寸前のことだった。
【しっかりして! シャキッとしなさいよ! ぼさっとしてたら食い殺されるだけだって分からないの?】
いくつもの要素が混ざったような、濁った声が聞こえてきた。まるでスープが煮え立つような、どろりとして、ぶつぶつと泡が弾けるような不快な声。不快であるはずなのに、安堵せずにはいられない声。あの男だった。ベアルシと対話していた、あの死体。
「ど……どこにいるの? 何が起きているの? 私、今はあなたを助けられそうにないわ……むしろ助けてほしいくらい。どういうことなの? あなたは何者なのよ!」
베알시は虚空を見つめながら、支離滅裂に叫んだ。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
すべてはこの男のせいだ。こいつのせいよ。この男さえいなければ……! 見えない虚空に向かって、涙に濡れた目で睨みつける。しかし、何一つ見えない闇は、彼女の視線をいたずらに彷徨わせるだけだった。
【ごめん。まさか『彼』が目覚めるとは思わなかったんだ。君なら助けられると思ったのに……すまない。こうなった以上、君だけでも逃がしてあげる。お願いだ、僕の言うことを聞いてくれ】
「な、何をしようっていうの? 嫌よ、自信なんてない……怖い。またどんな罠に私を誘い込もうっていうのよ!」
信じたくても、恐怖が彼女の信頼を阻んだ。先ほども彼を信じようと、助けようとした瞬間に、あの恐ろしいことが起きたではないか。ベアルシは彼の言葉に首を横に振り、深くうなだれた。
【頼む! 時間がないんだ! 彼らが来る! この部屋だって安全じゃないんだ!!】
「嫌。嫌よ。嫌! 私を放っておいて。嫌いよ、何もかも。こんなのありえないわ。全部夢よ。そう……これは夢なんだわ」
半ば正気を失い、呟いていたベアルシの涙が、不意に止まった。
そうか。これは夢なんだ。そう、こんなことが起きるはずがない。両親の仕事が破綻したことも、路頭に迷いそうになったことも、すべて夢だ。今、ベアルシは夢を見ているのだ。明晰夢。
そうだ。『本当の』ベアルシは今、国立医科大学の寄宿舎でルームメイトたちとぐっすり眠っているはずだ。翌日になれば夢の影響で疲れが残るかもしれないけれど、それでも夢から覚めれば現実が待っている。そうに決まっているわ。こんな馬鹿げたこと。
頬をかすめた鋭い空気に、ベアルシは驚いて目を大きく見開いた。頬を伝う温かい液体を認識した途端、ピリつくような痛みが脳を支配する。
これは、血? 呆然と再び虚空を見つめた。虚空を見たところで目さえ合わせられないというのに、ただ、見つめるべき場所がそこしかないと言わんばかりに執拗に見つめた。
耳に届く声は、すでに「七十四」を超えようとしていた。




