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5.


(ありえない。こんなの嘘よ。離れて、動いて……お願い!)


頭の中では悲鳴のような叫びが響き続けていた。だが、依然として体は動かない。


どうすればいい? どうすればいいの? 人形の腕がベ알시の腰に触れた。全身が震える。なんなの、やめて、やめて。総毛立ち、指先まで凍りついた。先ほどまでとは比較にならないほどの強烈な恐怖が、呼吸さえも困難にさせる。


腰に触れていた手は、やがて少しずつ移動し、氷よりも冷たいその掌が彼女の胸の下――心臓の位置に触れた。その行動に, 本能が拒絶反応を起こし、体が後ろにのけぞる。


(嫌。聞かないで。私の心臓の音を聞かないで!)


ベアルシの必死の抵抗も虚しく、人形の手は心臓付近から離れようとしない。ベアルシは震える手に力を込め、人形の手首を掴んで体から引き剥がした。掴まれている反対側の腕のように、動かなかったらどうしようという不安も一瞬。彼女の予想に反して、人形の手はあっけなく離れた。


安堵する暇も与えず、人形の手は今度はベアルシの首筋に触れた。またしても驚き、振り払おうとしたが、先ほどよりも慎重になったその手つきに、どこか違和感を覚えた。


外見こそ脅威そのものだが、実際にはベアルシを傷つけようとする意図が微塵も感じられないのだ。精巧なガラス細工に触れるように、あるいは崩れやすい砂の城を慈しむように、彼は力のない震える手つきでベアルシに触れていた。


その冷たい指先は首をゆっくりと這い上がり、やがてベアルシの唇に触れた。冷たい指が熱い唇に触れると、指先がピクリと跳ねて一度離れたが、再び戻ってきて彼女の頬へと向けられた。ペンだこのある手は、妙に生々しい感触を伝えてくる。


「……」

「……」


乱れる呼気の中で、ベアルシは彼の行動を見守っていた。何をしているのだろうか。彼の仕草は、まるで目の見えない者が、目の前の相手の姿を確認しようとしているかのようだった。無理もない。この人形には瞳がないのだから、前が見えないとしても不思議ではない。


依然として片腕の自由は利かないが、彼の手が心臓に触れたとき、彼女は懐にある「ある物」を思い出した。ベアルシはゆっくりと手を上げ、懐に忍ばせていたペーパーナイフの柄を握った。


この人形が何者であるかは分からないが、繋ぎ合わされた首はひどく不安定に見えた。ベアルシは医学を学んだ身だ。急所がどこか、どう切れば効率的か、普通の人々よりはるかに熟知している。


(首を切り落とすべきかしら? それとも腕? いえ、このペーパーナイフではあの腕は切れない。指は? 手首を縫い合わせている糸を切れば、外れるかもしれないわ)


生き延びるために、目の前の存在をいかに効率よく無力化するかを悩むベアルシの心を知ってか知らずか、指先はベアルシの髪を愛でるように下りてきて、肩に置かれた。もどかしいほどに遅い指が、肩を小さく掴む。


「……あ、っ?!」


人形が再び彼女を抱きしめた。先ほどのような強引さはなく、その気になれば振り解けるほどの力だったが、ベアルシは彼を突き放さなかった。距離が近いほど、有利なのはベアルシの方だ。懐のナイフを握る手に力を込めるベアルシの耳元で、濁った声が響いた。


「こ、の……まま……じゃあ。たす、け……助けて、っ……く、れる……かい?」


声帯が正しく繋がっていないのか、あるいは断ち切られた喉から無理やり音を絞り出しているのか、彼の言葉は嘔吐する者のように強制的で苦しげだった。


周波数の合わないラジオのように途切れ、耳障りで、発音さえ聞き取りにくいその言葉をようやく理解したベアルシが、唇を噛んだ。


(なんて答えればいいの? 何が正解なのよ?)


伏せていた顔を上げ、自分を抱きしめる形体を見上げた。向こうもベアルシを見下ろしているのか、首を傾けている。閉じられることのない眼窩が、苦痛に耐えるかのように微かに痙攣していた。背筋に冷たいものが走る。


(助けられると言えばいいの? それとも、できないと言うべき?)


分からない。何もかも。今の自分が何をしているのかさえ分からないのに、何をどうすべきかなど、分かるはずもなかった。ベアルシは懐のペーパーナイフを固く握りしめた。


彼女に分かることなど、一つもない。それでも、このまま無様に死ぬのは御免だ。


役に立つ人間になれなかったのなら、せめて、人間を殺めるこれらと共に死んでやる。


ベアルシは一度目を閉じ、再び開けると、彼に掴まれていた手を上げた。先ほどはあれほど離れなかった手が、今はベアルシの腕を放した。自由になった片腕で彼を軽く押し、丸めていた背を伸ばした。


「助けてくれるかって? さあね。私はどこにでもいる平凡な女だから、役に立てるかは分からないわ。あなたが何者かも知らないのに、どうやって助けろと言うの? でもね」


ベアル시は長く息を吐き、言葉を継いだ。


「私は諦めるつもりはないわ。何だってやる。だって、この屋敷は私が無償で借りた家だし、これから長い間住まなくちゃいけないんだもの」


空っぽの眼窩に視線を合わせたベアルシは、口角だけを引き上げ、笑みを作ってみせた。


「だから言って。どんな助けを望んでいるの? 私に、何をしてほしいの?」


彼の口元に視線を落としたまま、ベアルシは答えを待った。腹話術の人形のようにゆっくりと開く口があまりに気味悪く、奇怪で、心を奮い立たせていなければ、今すぐにでもペーパーナイフを取り出して首を撥ね、逃げ出していたかもしれない。


(逃げられないわ。私に残されたのは、この家だけなんだから)


再び決意を固める。そうだ、逃げることはできない。死ぬにしろ生きるにしろ、この場所で決着をつけなければならない。何としても。


「ぼ、く……は……だい、じょう……ぶ。にん、ぎょう……たま、しい……むね、ん……。か、れら……を……」


先ほども聞き取りやすい声ではなかったが、今は明らかに、さらに伸び切ったような響きに変わっていた。不吉な予感が全身を駆け抜け、彼女は本能的に体を引いた。ベアルシを捕らえていた手が、あまりにも容易く彼女の体から離れていった。その瞬間だった。


「ひ、っ……!」


彼女へ伸ばされていた手が、ストンと。糸の切れた人形のように、力なく落ちた。ベアルシがわずかに触れていた肩が、前方へと崩れる。


驚いたベアルシは身をかわした。のめり込むように倒れた彼は、本当にただの人形であったかのように、無残に横たわった。不気味だった。不穏な空気が白い月光の下で形を成し、蠢いているような感覚。


ペーパーナイフを抜き身で構えたベアルシは、慎重に立ち上がり、後ずさりした。一歩、二歩。嫌な予感がする。先ほどとは明らかに違う。何が変わったというのか?


ベアルシはすぐに気づいた。臭いだ。どこからか腐敗した死体の臭いが漂ってきた。異常なのは、腐臭に混じった血の臭いが、今しがた流れたばかりのように生々しく、生臭いことだ。


二つの臭いが混ざり合い、吐き気がこみ上げる。手で口元を覆い、ベアルシは急いで入ってきた扉の位置を確認した。


風が吹いた。生温い、梅雨時に吹くような湿った風。


急激な空気の変化に、産毛が逆立つような錯覚を覚えた。これは危険だ。逃げなければ。視線は人形から逸らさぬまま、ゆっくりと扉の方へ歩を進める。扉の付近にたどり着こうとした、その時だった。


ベアルシがほんの一瞬、視線を扉の方へ向けたときだ。人形の体が大きく一度跳ねたかと思うと、目と鼻、耳……そして口元からも、黒い液体がどろりと流れ出した。凄まじい血の臭いが辺りを充満する。


心臓近くの傷跡からも、腕の縫い目からも、ズボンの裾から覗く足首からも、黒い液体が溢れ出していた。腐ることのない血が、どぎつい臭いを放ちながら、じわじわと領域を広げていく。


「っ!」


今すぐ逃げなければ。だが、瞬間的な麻痺に襲われた足が、動こうとしない。そんなベアルシの恐怖を煽る声が、部屋中に響き渡った。


「に、げろ。逃げろ、逃げろ! 『彼』が来る前に逃げろ!!!」


到底同じ喉から出たとは思えない叫びが、ベアルシの鼓膜を掻きむしった。状況に追いつけず、呆然と彼を見つめていたベアルシは、愚かにも彼を注視し続けた自分を呪った。


先ほどまで空っぽで、いくら覗き込んでも深い闇しか見えなかったあの眼窩から、白い何かが這い上がってきて、居座り始めた。赤く充血した、濁ったもの。それは目だった。瞳孔のない白い眼球は、いっそ眼球などないほうがマシだと思えるほど、恐ろしい光景を作り出していた。


先ほどまで流れていた黒い液体が蒼白な頬にべったりとこびりつき、口の中までもが黒く染まっている。その姿は、昔の実習で見た溺死体を連想させ、あまりにも現実離れしていて……。


恐怖に正気を失いそうになった。生唾を無理やり飲み込んだベアルシのうなじを伝う冷や汗が、この悪夢に現実味を与えていた。


彼女の本能が叫んでいた。目を逸らせば、間違いなく死ぬ、と。

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