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4.

掴まれた指先が、血の気が引いて青白く染まっていく。手の感覚が消えていくことにも気づかぬまま、ベアルシは口をパクパクと動かした。


一体、何を言っているの? この死体は、何を口にしているの?


分からない。そして、理解したいとも思わない。

再び正気に返ったベアルシは、手を引き抜こうとあがき始めた。


どれほどその無意味な行為を繰り返しただろうか、極度の緊張と焦燥に先に根を上げたのは、ベアルシの方だった。


ベアルシは、これらすべての行動に何の意味があるのかと思えてしまった。依然として腕を掴まれたまま、彼女は目を固く閉じ、震える声で言った。


「あ、あなたがなぜ、なぜ私を捕まえたのか……あなたの言葉が何を意味しているのか。何も分からないけれど、私はあなたを助けることなんてできません。私はただ……」


ただ、路頭に迷わないためにここに来ただけの、平凡な女なのだ。


最後の言葉がどうしても口から出ず、ベアルシは言葉を濁した。


この家にこんな怪物がいると知っていたら、絶対に分かっていたら来なかった。いっそ浮浪者に混じって眠ったほうがマシだ。なんなのよ、これ。


どうして心臓が止まり、体が腐っているのに話せるの? どうして動くの? そもそも、本当に死体なの?


大学の、実習用の死体なら見たことがあった。

解剖まではできずとも、その過程を見たこともあった。だが、こんな死体は聞いたことも見たこともない。


(私はこの死体に食い殺されてしまうの? それとも野談集で読んだみたいに、狂って自殺することになるの? あの野談集は、実話を書いた物語だったっていうの? ああ、もう。なんなのよ。何なの。一体何なのよ!)


考えれば考えるほど、面倒で、疲れ果ててしまった。家が没落し、大学を去り、街を彷徨った末に、遠い親戚の言葉一つを頼りにここまで来たベアルシだった。


ずっと休めずにいた彼女は、急激に押し寄せる疲労に耐えかね、死体の前にへたり込んでしまった。


先ほど奇妙な言葉を吐いた死体は、もはや涙も流さず、何も語らぬ状態になっていたため、これ以上どうすることもできなかった。


腕は依然として抜けなかったが、もうどうでもよくなってきた。


(だって、何をすればいいか分からなくて、当てもなく辿り着いた場所なんだもの)


まともに学んだことも、持っているものも何一つない。医者になりたかった理由は、たった一人の妹がひどい病気だったから。


毎日毎日、痛いと言って泣いていたから。


それでも姉にはいつも元気に振る舞っていた、愛くるしいあの子を治してあげるためだった。


だが、ベアルシが医者になる前に、妹は呆気にとられるほど早く健康になり、今では勉強ばかりして虚弱なベアルシよりも健康な令嬢になってしまった。


そうなると、医学も面白くなくなってしまった。

成績は優秀だったが、奨学金をもらえるほどではない。家計も苦しくなった今、彼女が大学にしがみついているわけにはいかなかった。


行くべき道を教えてほしかった。だからこそ、誰かもよく知らない親戚の言葉に従って来たのではなかったか。


(わからない。面倒くさいわ。これ以上、何をすればいいの?)


無力感が彼女の全身を覆った。


この家に来れば、何か。無能な自分にでもできることがあるのではないかという淡い期待を抱いてやってきた。なのに、死体か人形かも分からぬものに捕まり、何もできないなんて。もう嫌だ。煩わしい。


どうせ死ぬのなら、ほんの些細なことでもいいから、誰かの……何かの役に立てていたならよかったのに。


ベアルシはそっと顔を上げ、自分の腕を掴む死体をじっと見つめた。


たとえ今は奇怪な外見だとしても、生きていた頃は秀麗な男だったに違いない、そう思った。


年齢は二十代半ばから後半くらいだろうか。


白いというよりは蒼白に近い肌は滑らかで、ひどく痩せ細ってはいたが背は高かった。色褪せた髪は今となっては何色か判別できないが、なぜか太陽に似た、輝く金色だったような気がした。


瞳は、宝石を嵌め込んだような鮮やかな青色だっただろう。


そう、まるで階下にある美しい人形たちのように。


(どうしてこんなことになってしまったの。あなたはなぜ、まともな安らぎさえ得られぬまま、こんな場所に閉じ込められているの? 助けてという言葉の意味は何? あなたも、あなたの持っていた人形たちも。私に何を望んでいるの?)


人間というものはそうだ。


極限の恐怖と窮地に追い込まれると、誰しも正気を手放してしまう。正気を失った後の行動は千差万別だが、ベアルシの場合は、恐怖を忘れたかのように大胆になる質だった。


思考を放棄したベアルシは、掴まれていない方の手を伸ばし、死体の頬にそっと触れた。


異常なほど滑らかな、間違いなく人間の肌の感触。頬も髪も、すべてが人間のものだ。彼女は涙の跡が乾かぬ湿った頬を指で拭いながら、問いかけた。


「あなたは、私に何をしてほしいの? 誰を救ってほしいというの?」


ベアルシの声が広い部屋に響いた。どうせ生きて帰れないのなら、そう、この死体の言う通り、手を貸してやろうじゃないか。だめならだめ。できれば、何かいいことがあるかもしれない。


「あ、でも生き返らせてなんてお願いは無理よ。あなたは死んだ人なんだから」


返事のない死体に向かって、図々しくも語りかけている自分の状況が可笑しくて、笑いがこみ上げてきそうだった。それでも笑わなかったのは、微かに残った理性が「それだけはやめろ」と叫んでいたからだ。


ここで笑ってしまえば、本当に狂ってしまう、と


返事が返ってくるのも困るが、何の反応もないのもまた困る。流れる時間の中で、死体は沈黙を貫いていた。ベアルシは頬に添えた手を下ろした。


「……まさか、びっくりさせるための特殊装置……とか?」


この人形は幽霊屋敷にありがちな、飛び出す仕掛け人形で、先ほどの異常現象はすべて意地の悪い親戚が彼女のために用意した質の悪い悪戯だとか。


疑いの眼差しで死体を眺めてみると、あまりにも不自然に思えてきた。


それもそのはず、人が死ねば血は巡らず、臓器は活動を止める。臓器が動かなければ、必要な栄養も供給されない。


栄養の行き渡らない体は木のように硬く、肌は紙のようにカサついているはずだ。髪の毛は? 箒より少しマシな程度であるべきではないのか。


それなのに、この死体は髪もベアルシより柔らかく、肌に至っては言うまでもなく磁器のように滑らかだ。


あちこち繋ぎ合わされた傷跡が妙に鼻につくものの、いっそ精巧に作られた、あるいは遺体の一部を再利用した人形だと言われたほうが、まだ説得力があった。


思考力の低下した頭は、目の前の「何か」をただの人形だと、精巧に作られた人形なのだと結論づけてしまった。


ベアルシは、自分がなぜこれほど怯え、身の上を嘆いて人生を悲観していたのか、強い懐疑心に駆られた。


常識的に考えて、こちらのほうが筋が通っているではないか。幽霊だの人形だの呪いだの。すべて非科学的で非理性的だ。


「そうよ。これはただの人形。驚かせるための人形なのよ。はぁ、なによ。無駄にビビっちゃったわ」


結論に達したベアルシは、「そうに決まってる」と自分に言い聞かせながら、再び人形に掴まれた手を引き抜こうとした。しかし、腕は依然として抜けなかった。


「えっ?」


一瞬の困惑が、間抜けな声となって漏れた。


(これ、どうして抜けないの? 抜けるはずでしょ。これは人形なんだから。質の悪い悪戯の、ただの人形なんだから!)


無理やり導き出した仮説が崩れ去る音が聞こえた。必死に追い払った恐怖が蘇り、背筋を気味の悪い汗が伝った。今度はさっきよりも力を込め、人形が壊れても構わないという勢いで腕を引っ張った。


いや、引っ張ろうとした。


「……!」


彼女が踏ん張るよりも速く、人形の方がベアルシの腕を強く引き寄せた。予期せぬバランスの崩れに、ベアルシは滑稽なほど簡単に、人形の胸の中へと引きずり込まれた。


そこでようやく危険を察知した頭が、人形、あるいは死体の腕の中から逃げろと叫んだが、麻痺した体はどんな命令も受け付けなかった。


大きく見開かれた眼窩の周囲にある爛れた傷と、鼻から流れる黒く腐った血が、凄まじい悪臭を放っていた。


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