2.
本格的な闇が形を成し、世界を黒く塗りつぶしていく時刻。
幽霊など怖くない、度胸には自信があると公言している者であっても、この奇怪な屋敷で恐怖を抱かぬ者はいないだろう。
ベアルシは唇を強く噛みしめたまま、ゆっくりと屋敷の階段を上っていた。
今夜眠る場所だけでもまともに探しておくべきだったのに、愚かにも外から家を眺めるのに時間を使いすぎてしまったようだった。
この巨大すぎる屋敷を今夜中にすべて把握するのは不可能だと分かっていた彼女は、まず寝室として使えそうな場所を物색することにした。二階へと続く階段を上る理由は単純だ。
こうした多層構造の邸宅の場合、一階には作業室や倉庫、その他の多目的室を配置し、二階から上を居住空間にすることが多いからだ。
二階への階段は、天井が高いせいかひどく長く感じられた。螺旋階段には、本来なら燭台を置くために作られたであろう隙間が随所にあったが、そこを埋め尽くしていたのは燭台ではなく人形だった。
この屋敷に入って一時間も経っていないというのに、すでに百体を超える人形を目にした気がする。
こうなると、もはや気味が悪いという言葉では足りないほどの人形の饗宴だ。
それでも、仕方がない。ここで暮らすと決めた以上、慣れるしかなかった。ベアルシは人形たちを無視しようと努めた。数百体の人形も、そのすべてが人間を模して作られたという事実も。
手に持った燭台の火を絶やさぬよう細心の注意を払い、備え付けの燭台を見つけるたびに火を灯して、周囲を少しでも明るくした。
まるで永遠に続くかのような階段を上りきり、安堵したのも束の間。
「……ひっ!」
光も届かぬ廊下に転がっている、切断された手足の山に、ベアルシは驚きのあまり腰を抜かしそうになった。
あまりの衝撃に、悲鳴すらまともに出ない。
心臓が狂ったように脈打ち、思わず足の力が抜けてへたり込みそうになった。
大学で医学を学んでいたベアルシは、それが本物の人間の手足ではなく、精巧に作られた模型であることをすぐに見抜いた。
だが、奇妙なほど滑らかに切断された断面から流れ出し、固まった血痕があまりに生々しく、震える鼓動は容易には収まらなかった。
成人男性ほどの大きさがある無数の手足を踏まないよう、慎重に歩みを進めた。なぜ、こんなものがここに転がっているのか。人が住んでいたのは十数年も前のことなはずなのに……。
(まさか……)
狂った殺人鬼が住んでいたことで誰も寄り付かないこの家に、別の殺人鬼が潜んでいるのではないか。
不吉な想像に全身が総毛立った。
ベアルシは自らが導き出した仮定をすぐさま打ち消した。人が住んでいたかのように清潔な家ではあるが、誰かが現在進行形で生活しているとは思えないほど、この家には生気がない。ひとかけらの温もりさえ感じられないではないか。
(だとしたら……昔からあったということになるわね)
一人、手足の模型が散らばる場所を歩いていると、否応なしに憂鬱が募った。おまけに、今夜はまともに眠れそうにないという予感もよぎる。
薄く溜息をつき、ベアルシは雑念を振り払って、扉を開けやすそうな部屋を探し回った。床に広がる血溜まりも、その中に転がる手足も、決して触れたくはなかったからだ。
暗い廊下を進んでいたベアルシは、ふと、この廊下が異常に暗いことに気づいて顔を上げた。一階から見たときは、月が明るく輝いていたはずだ。なのに、なぜ廊下はこれほど暗いのか?
理解しがたい違和感にベアルシが周囲を見渡すと、ようやくその正体を目にした。窓があるべき場所にぎっしりと並べられた、青白く微笑む無数の人形たちを。
月光が廊下に届くようにするには、あの人形をすべてどかさなければならないが、恐ろしいほどに詰め込まれた人形を片付ける勇気は到底出なかった。
すぐ目の前しか照らせない微かな蝋燭の火を頼りに歩くため、自然と足取りは遅くなり、手足を避けながら部屋を確認しようとするも、もどかしいほど前へ進めなかった。
もどかしさを感じても、ほかに術はない。無謀な賭けはしない主義のベアルシは、慎重かつ理性的に、注意深く進んでいった。
そして。
「きゃあ!」
必要以上に周囲へ注意を向けていたせいで、足元にある何かに気づかず、無様に躓いて転んでしまった。
転倒した拍子に燭台が飛び、火が消える。火事にならなかったのは不幸中の幸いだったが、ベアルシは安堵することなどできなかった。
何も見えない暗闇は、狂おしいほどに恐ろしかった。
体が震え、冷や汗が流れる。だめよ、ベアルシ。落ち着いて。大丈夫。何も起きやしないわ……。
(怖がることはない。パニックになれば、もっと怖くなるだけ。手足が転がっている場所はもう通り過ぎたじゃない)
ただ転んだだけ。間抜けに躓いただけよ。だから、怖がる必要なんてない。
自分に言い聞かせ、ベアルシは震える手でポケットからマッチを取り出した。
火を灯したいのに手が震えて何度も失敗し、ようやくマッチに火がついた。小さく灯った火を頼りに、まず燭台を探した。
蝋燭が折れていたらどうしようという不安も束の間、敷かれた絨毯がふかふかだったおかげで、燭台も蝋燭も無事だった。
素早く蝋燭に火を灯し、明かりを取り戻したベアルシは、大きな溜息をついた。実際には一分ほどの時間しか経っていないはずなのに、体感では十年も過ぎ去ったような気分だった。
ここで暮らすには相当な胆力が必要だと痛感しながら、彼女は胸をなでおろし、遅まきながら自分が何に躓いたのかを振り返った。
最初は泥の塊かと思った。
だが、泥にしては妙に整った起伏がある。さらに詳しく観察すると、それはひどく汚れたぬいぐるみの姿をしていた。
この屋敷に入って初めて目にするぬいぐるみに、ベアルシは目を丸くして歩み寄った。
うつ伏せになっていたそれを慎重に持ち上げると、お世辞にも上手とは言えない、不格好に作られた顔が目に飛び込んできた。微笑んでいる茶色のクマのぬいぐるみ。
古ぼけているうえに、本来はふわふわしていたであろう毛は酷く絡まり、黒ずんだ液体がこびりついている。
ぬいぐるみというよりは、土の人形を触っているような感触だった。
だが、どこかぎこちなく微笑むその姿は、幼い頃に遊んだ人形のように温かく、気味が悪いほど精巧な人形で埋め尽くされたこの家で、唯一ベアルシの心を和ませてくれた。
「蹴飛ばしちゃって、ごめんなさいね」
聞き届けるはずのない謝罪を口にし、ベアルシはクマのぬいぐるみの埃を丁寧に払った。プラスチックの瞳に付いた汚れをハンカチで大まかに拭き取ると、昔ほどではないにせよ、キラキラと輝く瞳が戻った。
ついでに、ハンカチを三角に折って首に結んでやった。可愛らしいマフラーが巻かれると、泥塊のようだった姿が、ほんの少しだけ人形らしくなった。
「よし。いい感じ」
自分の出来栄えに満足したベアルシは、にこりと微笑んで頷いた。この家に来て初めて緊張を解いていた彼女だったが、すぐに我に返り、自分は何をしているのかと可笑しくなった。
ぬいぐるみを見つめて自嘲気味に笑うと、それを隣の収納棚の上に置き、最後に一度だけ撫でてから背を向けた。
【マフラー、ありがとう。僕も気に入ったよ。君がプレゼントをくれたから、僕もお返しに、君が行くべき『扉』を開けてあげるね】
歌うような低い声が……まだ幼い男の子の声が、耳元で響いたような錯覚に陥り、ベアルシは自分の耳を押さえて辺りを見回した。当然ながら、周囲に声を上げられる者など彼女以外にいなかった。
「私の……聞き間違いよね?」
奇妙ではあったが、邪悪な気配は感じられない声だったため、ベアルシは深く気に留めないことにして歩き出そうとした。いや、歩き出そうとした瞬間だった。
――ギギギィ……。
ベアルシが進もうとしていた廊下のすぐ脇、到底扉などあるはずのない壁が、軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。
どこからどう見ても怪しげに開いた扉を前に、ベアルシは悩み込んだ。
行くべきか、止めるべきか。
「扉を開けてあげる……って、言ったわよね?」
先ほどの声。間違いなくベアルシの聞き間違いだろうが、とにかく嫌な感じはしなかった。それに、特に目的地を決めていたわけでもなかったため、短い葛藤の末にベアルシは、自分の背丈よりも低い、開かれた壁の中へと滑り込むように入っていった。
奇妙な場所で開いた扉であるうえ、その大きさからしてせいぜい屋根裏部屋か壁の中のクローゼット程度だろうと思っていたベアルシは、扉の奥に続く上階への階段を蝋燭で照らし、目を丸くした。
「なぜ、こんなところに階段が?」
二階への階段を上ってきた際、その近くに三階への階段はなかった。ただ家の構造が特殊で、廊下の端にでもあるのだろうと思っていたが……隠し扉の中から現れるなんて。
隠し扉の先に現れた階段を前に、ベアルシは言葉を失うしかなかった。
ひとまず現れた以上、階段を上ることにしたが、その階段の様子もかなり異質だった。他の場所は長期間人が住んでいなかった割に埃が少なく清潔だったが、この階段は違った。
埃がひどく積もっているうえに、圧倒的な「生活感」があったのだ。
まるで、この階段でだけ誰かが生活していたかのように。さらに、階段の至る所にはガス灯が掛けられていた。
燭台にガス灯。まさか、ここは電気が通っていないのだろうか。
(だとしたら、ちょっと困るわね……)
今時、電気の通っていない家が存在するなんて、納得がいかなかった。もしかして水も出ないのではないか。
この古びた邸宅でまともに暮らしていけるのか、不安が募り始めた。
(村には電気が通っていたんだから、線を引けばいいのかしら。わからないわね……とりあえず、寝る場所を確保してから考えましょう)




