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プロローグ

その屋敷については、その地方の人間なら誰もが知っているほど有名な話だ。


代々人形師が住み着いてきた家であり、百余年ほど前、その人形師が狂った末に自ら命を絶ったと伝えられる場所。


不吉な噂が絶えない家であるにもかかわらず、美しく古風な人形で飾られたその佇まいに魅了された多くの人々が、こぞってその屋敷を欲しがり、堂々と足を踏み入れた。


しかし、中に入った者たちは皆、不幸に見舞われてその多くが命を落とし、辛うじて生き残った者たちも去ってしまった。


以来、誰も住むことのない廃屋と化した場所だという。


廃屋というよりは凶宅に近い――怪談にでも出てきそうなその幽霊屋敷は、ハルシュベルク地方の端にある小さな村、ノーティルに実在した。


半分は真実で、半分は嘘のような話。


真偽のほどはともかく、誰も近寄ろうとしないその屋敷にベアルシ・ヒルが越してきたのは、まさに今日。


深まりゆく秋の終わり、舞い落ちる木の葉がまるで踊るように降り積もる、澄み渡った日のことだった。


不吉な噂を聞いていないわけではなかった。恐怖がなかったわけでもない。


しかし、彼女の家門は「没落した」と言っても過言ではないほど粉々に砕け散り、両親も二歳年下の弟も自分の身を守るのに精一杯な状況で、ベアルシ一人だけが大学で学び続けるわけにはいかなかった。


遠い親戚が所有していたこの屋敷を無償で借りられることになった時は、むしろ幸運だとさえ思ってしまったほどだった。


「不幸なことだ」「気の毒に」「女一人でそんな場所に住めるのか」と、誰もが口にした。だがベアルシは気に留めなかった。今重要なのは、実在するかどうかもわからない幽霊の話ではなく、当面の生計だった。


大学を休学し、何をすべきか分からぬまま漠然と街を彷徨っていたベアルシに声をかけたのは、ずっと昔に一度だけ会ったような記憶がある親戚だった。


幽霊が出る家を無償で貸し出すという親戚の言葉だけを頼りに、ノーティルへと向かう一日に一本しかない蒸気機関車を見つめながら、ベアルシは虚脱した笑みを浮かべた。


自分のしていることすべてが滑稽に感じられた。


屋敷が問題なのではない。幽霊よりも、今すぐ食べていく術がないことの方が恐ろしいベアルシだった。


自分に直接的な害を及ぼさない幽霊よりは、即座に自分を破滅させかねない金銭問題の方が、彼女にとってはよほど脅威だった。


幽霊が出るからこそ無償で貸してくれるというのなら、むしろ幽霊に感謝したいとすら思うほど、ベアルシは窮地に立たされていた。彼女の悩みはもっと現実的なものだった。


例えば、家に着いたら既に誰かが住み着いているといったような、そんな事態の方が遥かに恐ろしく不安だった。


最小限の衣類と日用品だけを詰めた小さな旅行鞄と、独特な意匠の鍵を交互に見下ろしながら、ベアルシは「本当にこれでいいのか」と、今更ながら溜息をついた。諦めるつもりはないが、不安になるのは仕方のないことだ。


ポーッという蒸気機関車の警笛に、ベアルシはハッとして顔を上げ、急いで列車に乗り込んだ。今更後悔したところで、もう遅い。


住み慣れた都市を離れ、列車はゆっくりと、しかし止まることなくベアルシをハルシュベルク地方へと運んでいった。


首都デルシュタインから列車で十二時間。丸一晩を車中で過ごした。退屈と疲労で全身が強張る頃、ハルシュベルク地方で最大の都市、コンコルンに到着した。


ベアルシは一息つく間もなく、バスの切符を探し回った。目的地であるノーティルは、コンコルンからもバスで六時間以上かかる場所だったからだ。


間一髪でバスに乗り込んだ彼女は、列車で足りなかった眠りを貪ろうとした。だが、眠れなかった。仕方がなく、親戚から「読んでおくといい」と渡された、ハルシュベルク地方の野談を集めた作者不明の本を取り出した。


それほど厚い本ではなかった。子供でも読みやすいよう、あちこちにおぼつかない絵で説明が添えられたその本は、思いのほか興味深く、ベアルシは時間を忘れて読み耽った。


物語の序章は、遥か昔、ハルシュベルク地方を治めていた君主の美しい娘の話から始まった。醜悪な姿の怪物に嫁いだ美しい令嬢を、どこかの国の王子様が見事に救い出す話。ところが、実際に令嬢を救ったのは王子の騎士であり、それを知った令嬢は王子を捨てて騎士と幸せになるという……どこか後味の悪さと物足りなさが残る結末だった。


『夫を奪われた怪物はどうなったの? こちらは何も復讐しなかったのかしら。気になるわ』


繋がらない物語に物足りなさを感じながら、ベアルシは次のページをめくった。次の話は、この国「デルン」を統一した、ある小柄な将軍の物語だった。


背の低さにコンプレックスを抱いていた兵士が、優れた策略と手腕でデルンの将軍にまで上り詰める話。将軍は大小の戦で功績を挙げ、その褒賞としてハルシュベルクの領地を賜った。


そんなある日、小柄な将軍のもとを一人の女が訪ねてくる。自分より一フィートも背が高いその女は、将軍が陥落させた国の王女だった。将軍は悩み、王女は去る気配を見せない。


紆余曲折の末に彼女と婚姻を結ぶという物語で、前の話より軽快に記述されており面白かった。


次の章は、歌う人魚に恋をした商人の息子に関するものだった。


ハルシュベルクの端にある海岸の村がモチーフのようだった。


病に伏した人魚のために伝説の秘薬を手に入れるが、結局その人魚を救うには間に合わず、狂った商人の息子は死ぬまで人魚を探し求めて彷徨ったという、悲しくも切ない結末が印象的な物語。


時に笑い、時に涙し、夢中で本を読んでいた頃、ベアルシの目を引く題名が現れた。


【風車と人形の村ノーティルの野談 ― 狂える人形師カロン・レイデン】


ノーティル。人形。人形師。レイデン。


どこからどう見ても、ベアルシが住むことになったあの屋敷に関する話だった。ベアルシは先ほどまでとは対照的な感情で生唾を飲み込み、震える手でゆっくりとページをめくった。


[中略……こうして愛する妻を病で亡くしたカロン・レイデンは、ひどく嘆き悲しみ、幾日も酒に溺れて過ごした。


人間よりも精巧な人形を作ることで有名なカロンの人形が手に入らなくなった村人たちは、カロンをなだめ透かしたが、全く効果はなかった。そのまま数日が過ぎた頃、村人たちはようやく彼の息子の姿が見えないことに気づいた。


根が善良だった村人たちは、すぐにカロンに息子の行方を尋ね、息子の存在を遅まきながら思い出したカロンは、慌てて息子を探した。


幸いにも息子は、妻がいなくなった台所で、半ば腐りかけた食べ物を口にしながら露命を繋いでいた。そんな息子の姿を見たカロンは大声で号泣し、自分がしっかりしなければならないことを悟った。


「息子は妻が残してくれた贈り物だ。守らなければならない」


……歳月が流れ、カロンの息子は大人になり、父に劣らぬほど美しく精巧な人形を作る人形師となった。


天国で見守っているであろう妻にも恥じない、立派な息子になったと、カロンは誇らしく思いながらも涙した。


父子は幸せであり、その幸せが永遠に続くと信じていた。しかし、運命の女神は残酷で、破滅はあまりにもあっけなく父子に忍び寄った。


息子が、妻と同じ病にかかってしまったのだ。心臓が正常に機能しなくなる病。どんな医者も治せず、どんな神父も癒やすことはできない。


刻一刻と衰えていく息子の姿に耐えかねたカロンは、自らの手で息子の心臓を作り始めた。


「誰にも治せないのなら、私が治してみせる」

以前から、カロンの人形は時として自ら動き出し、主人を助け、主人のために働くことがあった。


誰もあからさまに口にはしなかったが、実際に存在する現実。人形を大切に慈しむ人々は、それを奇跡と見なした。


カロンもその事実を知っていたからこそ、祈りに祈った。どうか、頼む、私の息子も動けるようにしてくれ……。


心臓を作っていたカロンが、喜びに満ちて息子に心臓の話を打ち明けると、思いも寄らない答えが返ってきた。息子は、自分は人形として生きたくはないと言ったのだ。


今でも十分に幸せであり、温かな思い出を残せたのだから、このまま逝かせてほしいと、父に告げた。


当然、カロンは聞き入れなかった。二度と愛する者を失いたくないという切実な念願は、狂気じみた執着となり、彼を狂わせた。


無情な時間は容赦なく流れ、息子は妻と同じように、まともに動くこともできない状態となった。カロンは心臓を完成させることに成功した。


脈打つ心臓を見つめるカロンの瞳には、もはや息子の姿は映っていなかった。それを悟った息子は彼から逃れようとしたが、満足に動かぬ体では無理なことだった。息子はカロンに捕らえられ、カロンは生きたまま息子の胸を裂き、その心臓を引き抜いた。]


完結まで1日5回更新します。

多少ホラーあるいは怖い要素があるかもしれませんが、お付き合いいただければ幸いです。

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