卑怯な言葉
クロウと離れ離れになって5日目の朝。
「森で……何かがあったらしい………」
「魔王軍の死体が……」
村人たちのざわめきが耳に入る。
「死体はどれも巨大な獣に食いちぎられたようだった。」
噂を聞いた瞬間、リコリスの心臓は凍りついた。
「まさか……クロウさん……!」
情報を確認しに外へ出ようとしたその時、村中が突然騒ぎ出した。
「魔獣が出たぞ!!」
リコリスは反射的に駆け出す。
中心にあったのは、血を流して倒れ伏す巨大な獣だった。
真黒な毛並み、風に揺れるほど立派なタテガミ。まるで伝承に出てくる獅子の魔獣のような姿が、地面に沈み込むように横たわっている。
その身体は小刻みに痙攣し、苦しげに息を吐いた。
しばらくすると、魔獣の輪郭がぐにゃりと不自然に歪んだ。
骨の軋む音。
獣の姿は崩れ落ち……
やがてそこには一人の男が倒れていた。
「……クロウ……さん……?」
声が、震えて上手く出なかった。
信じたくないのに、目が、心が、それを否定できない。
リコリスは我を忘れて駆け寄る。
クロウの身体は無数の傷に覆われ、血と泥にまみれ、今にも命の灯が消えそうだった。
その瞬間、背後から怒号が飛ぶ。
「お嬢さん!その化け物から離れろ!!」
「人外だ!危険だ、今のうちに殺せ!!」
向けられる槍先。
剣を握る手。
亜人への恐怖と嫌悪が、村人たちの理性を塗り潰していく。
「……やめて……ください……!!」
叫びながら、リコリスは迷わずクロウの前に立った。小さな身体で、必死に庇う。
足は震え、膝が笑い、今にも崩れ落ちそうだった。
それでも、退くことだけはできなかった。
その時だった。
「待ってください!!」
ランスの声が場を切り裂く。
「それは……僕たちの奴隷です!はぐれただけで……決して害をなすモノじゃありません!!」
「……え……?」
一瞬、頭が真っ白になる。
だがすぐに、リコリスは悟った。
――これしか、助かる道がない。
「そ、そうなんです……!高いお金で買った、珍しい奴隷なんです……どうか、どうか殺さないでください……!」
喉が締め付けられ、言葉が刺のように胸を刺す。
それでも必死に、震える声で訴え続けた。
ランスはポケットに入っていた布切れを掲げる。
「ほら……!これが首輪です!驚かせてしまって本当に申し訳ありません!!きちんと躾けますから、今回は見逃してください!!」
村人たちは顔を見合わせ、ひそひそと相談し合う。
そして重い沈黙の末…
「……まあ、今回だけだぞ」
「次に逃げ出したら、容赦なく殺すからな。」
渋々と、村人たちの武器が下ろされる。
その瞬間、リコリスの身体から一気に力が抜けた。
息を吸うことすら忘れていたことに、今さら気づく。
――助かった。
クロウを、助けられた。
「ランスさん……ありがとうございます……!」
「そんなことより、今はクロウさんです!!」
二人は必死に力を合わせ、クロウを宿へと運び込む。治療のため服を開いた瞬間、リコリスは言葉を失った。
生々しい裂傷、深く抉られた傷跡。
それだけではない。
――古い傷。
何度も何度も、命を削ってきた証。
そのひとつひとつが、彼の過去を無言で語っていた。
傷に触れるたび、胸が締め付けられる。痛みが、彼の代わりにこちらへ流れ込んでくるようだった。
何も奪われないように……
こんなにも、戦ってきたの……?
どうして……?
ただ亜人として生まれただけなのに、亜人というだけで、こんなにも苦しまなければならないの……?
視界が滲む。
涙が、ぽろぽろと止めどなく零れ落ちる。
これほどの仕打ちを受けながら、どうして彼は、あんなにも優しくいられたのだろう。
「……どうか……無事でいてください……クロウさん……」
震える指で薬を塗りながら、
何度も、何度も、その名を呼ぶ。
助けるためとはいえ、
彼を――『奴隷』だなんて呼んでしまった。
『奴隷』
その言葉が、遅れて胸に突き刺さった。
助けるために選んだはずの言葉。
けれど、それは彼を守る言葉ではなく――
彼の尊厳を切り捨てる言葉だった。
クロウは眠ったまま、何も言わない。
怒りも、拒絶も、否定もない。
それが、何より苦しかった。
もし責めてくれたなら、
罵ってくれたなら、
私はこんなにも自分を許せずに済んだかもしれない。
それでも私は、
一番安全で、一番卑怯な選択をした。
守るために、彼を貶めた――
その事実だけが、胸に残り続けている。
胸が苦しい。
心が、痛くて、息ができない。
クロウさんは大切な人だ。
奴隷なんかじゃない。
――明日。
必ず村の人たちに、本当のことを伝えよう。
リコリスはクロウの手を強く握りしめ、
ただひたすら、回復を祈り続けた。




