地下牢
アゼリアに腕を掴まれ、導かれるがまま、リコリスは地下牢へと足を踏み入れた。
階段を降りるごとに、空気が重くなる。
湿り気を帯びた冷気が肌にまとわりつき、鉄と血の匂いが鼻腔を刺す。使い捨てられた命の残り香が辺りを支配していた。
アゼリアが扉の前で足を止める。
「この中に、あなたの大切な獣人君がいるわ。」
軽い声。
まるで宝物を見せるかのように、アゼリアは鍵束を鳴らし、鍵穴へと鍵を刺す。
重い音を立てて、扉が開いた。
その瞬間——
リコリスの視界が、止まった。
無数の鎖。
壁、床、天井へと放射状に伸びるそれらの中心に、
クロウが縛り付けられていた。
「……クロウさん……!」
名前を呼びかけ、思わず駆け出しそうになる。
生きている。
胸が詰まるほどの安堵が、まず押し寄せた。
けれど——
すぐに、その安堵は恐怖へと変わる。
荒い呼吸。
焦点の合わない、金色の瞳。
額から伝う汗。
喉の奥から漏れる、獣のような低い呻き。
「……リコリス……無事だったか……」
かろうじて発せられた声。
「良かった…だが…近づくな……」
絞り出すような制止。
その必死さに、胸が締めつけられる。
リコリスは、思わず振り返ってアゼリアを睨みつける。
「約束が違います……!クロウさんに、何をしたんですか……!」
怒りと恐怖が、声を震わせる。アゼリアは肩をすくめ、悪びれた様子もなく答えた。
「言ったでしょう?強い獣人の“雄”の遺伝子が欲しかったって。」
淡々とした口調。
「でも、想像以上に手強くてね。理性が完全に切れるまで媚薬を使ったの。あの感じ……まだ、効いているみたいね。でも壊れてない。流石獣人といったところだわ。」
唇に指を当て、楽しげにクロウを眺める。
その視線に、リコリスの身体が強張った。
怒り。
嫌悪。
恐怖。
すべてが込み上げる。
だが、今は——感情に飲まれてはいけない。
リコリスは、震える指でポケットを探り、小さな小瓶を取り出した。それは先ほど調合したばかりの薬の一部だ。
「……あの薬。私たちの分を、少しだけいただきました」
アゼリアの視線が、ぴたりと止まる。
「これで……おあいこです」
一瞬、張り詰めた沈黙。
アゼリアは目を細め——
そして、すぐに妖艶な笑みを取り戻した。
「ふふ。悪い子ね」
軽く肩をすくめる。
「まあ、いいわ。欲しいものは……もう、全部手に入ったもの」
アゼリアに腕を開放されたリコリスは、迷わずクロウの元へ駆け寄った。
「クロウさん……!」
「……はぁ……はぁ……来るな……」
必死に抑え込むような声。今にも崩れ落ちそうなクロウの姿に胸が痛む。
「……今、鎖を外しますね。」
「やめろ……ッ!」
鋭い拒絶。
「抑えられない……今の俺は……お前を……」
言葉が、途中で途切れた。
身体を縛る鎖が食い込み、手首や首元には赤く滲んだ傷が刻まれている。その姿を、これ以上見ていられなかった。
「……もう、大丈夫ですよ。」
自分に言い聞かせるように呟き、
リコリスは震える手で鎖を外した。
——その瞬間。
強い腕に引き寄せられ、視界が反転する。
荒い息。
獣の熱。
「……っ」
思わず息を呑む。
けれど、抱き寄せる力は乱暴ではなかった。
「……だから……外すなって……」
クロウの声は、苦しげだった。
「今の俺は……お前を“番”として求める……理性のない、ただの獣だ……」
自分自身を責めるような声音。
クロウは、伸ばしかけた自分の腕に噛みつき、必死に衝動を抑え込もうとしている。
ポタリ、と。
血がリコリスの肌に落ちる。
その赤が、リコリスの視界を焼いた。
——この人は、
こんな状態でも、私を守ろうとしている。
胸の奥が、きしむ。
「……クロウさん」
そっと、頬に触れた。
震えは、もう隠さない。
「私は……逃げません」
小さく、けれど確かな声。
「正直今のクロウさんは怖いです。でも……それでも、一緒にいたい。」
クロウの瞳が、大きく揺れた。
「俺が……何をしようとしてるのか……分かって言ってるのか……?」
「はい」
リコリスは、ぎゅっと彼を抱きしめる。
「私……クロウさんのことが、好きです。……初めて、こんな気持ちになりました」
言葉にした瞬間、胸が熱くなる。
唇が、静かに触れ合う。
確かめるように。
逃げ場のない、覚悟として。
「……悪いな」
クロウの声は、少しだけ落ち着いていた。
「……無理は、するな。嫌なら……すぐ言え」
その一言に、胸が締めつけられる。
リコリスは、そっと頷いた。
少し離れた場所で、その光景を見つめていたアゼリアがふと目を伏せる。
「……本当は、ここであなたを殺すつもりだったのだけれど。」
独り言のように。
「思い出したくないことを思い出しちゃったわ」
微笑みは、どこか寂しげだった。
「殺さないであげる。彼が落ち着くまで……ここにいていいわ。」
そう言い残し、アゼリアは背を向ける。
去り際に、ぽつりと零れた言葉。
「……人間なんて……」
その呟きは、
誰にも届かず地下牢の闇に溶けていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
鎖の外れた音だけが、かすかに響く。
リコリスは、クロウの胸に額を預けた。
罪悪感は、消えない。
選んでしまった道の重さも、分かっている。
それでも——
この人を、救う。
その想いだけは、揺らがなかった。




