アゼリアのお願い
アゼリアに導かれ、リコリスは魔王軍の拠点へと足を踏み入れた。それは城というより、研究施設と呼ぶ方が正しかった。
白い石造りの長い廊下。
規則正しく配置された実験台。
薬品棚に並ぶフラスコと試薬瓶。
どれもが、あまりにも見覚えのある光景だった。
——研究所。
かつて自分が勤めていた場所。
人の命を数値と成功率で測り、失敗は「誤差」として処理してきた場所。
「……どうして……?」
喉から零れた声は、ひどくかすれていた。
魔王軍の施設なのに。
敵であるはずの場所なのに。
私たちの研究所と、あまりにも似すぎている。
懐かしさと嫌悪感が、同時に胸を締めつける。
ここもまた、亜人の命を軽く扱う場所だ。
立場が違うだけで、本質は何も変わらない。
研究室の中央で、アゼリアが立ち止まった。
振り返り、愉しげに微笑む。
「さて、リコリスちゃん。あなたを連れてきた理由……もう分かるでしょう?」
細い指先が、何気ない仕草でリコリスの肌をなぞる。その触れ方に、ぞくりと背筋が震えた。
「あなたたちが作っていた“薬”が欲しいの」
心臓が、どくりと大きく跳ねる。
——あの薬。
クロウが求め、
研究所が必死に隠し続け、
人間たちが恐れてきたもの。
獣人化薬。
「……どうして……あの薬を……?」
問いかける声は、わずかに震えていた。
アゼリアは唇の端を吊り上げ、楽しそうに笑う。
「魔王軍もね、一枚岩じゃないの。私たちは“穏健派”とでも言っておきましょうか。」
魔王軍穏健派。
その言葉と、彼女の妖艶な笑みがどうしても結びつかない。
「人間に迫害されてきた亜人たちを解放する。そして……人間を滅ぼす。それが私達、魔王軍穏健派の目的よ。」
淡々とした口調。
あまりにも自然で、あまりにも冷たい。
喉が、ひくりと鳴った。
「亜人たちに本来の力を取り戻してもらうために、あなたの薬が必要なの。どう? 悪くない話でしょう?」
——一理、ある。
それが、何よりも恐ろしかった。
旅の中で、リコリスは何度も見てきた。亜人が差別され、追い払われ、居場所を奪われる光景を。
クロウがどれほどの理不尽を背負い、どんな世界で生きてきたのかも知ってしまった。
でも——。
拳を、ぎゅっと握る。
「……でも、人間を滅ぼすなんて……それは……」
言葉が、続かなかった。正しさと間違いの境界線が、足元から崩れていく感覚がリコリスを迷わせる。
アゼリアは、ふっと笑った。
「まあ、あなたの意見はどうでもいいのだけれど」
その一言で、空気が凍りつく。
「早くしないと……獣人の彼、搾り取られて死んじゃうわよ?」
「……っ!?」
顔を上げた瞬間、心臓が凍りついた。
「搾り取る……? どういう意味ですか……? クロウさんに……乱暴なこと、しないでください!!」
必死の叫び。
アゼリアは肩をすくめるだけだった。
「分かるでしょう? 獣人族の“強い遺伝子”が欲しいの。子作りなんて悠長なこと、していられないもの。彼の精液を採取して人工的に子どもを作れば最強の亜人が作れると思わない?」
刃のような言葉が、胸を抉る。
——狂ってる。
それで亜人が救われるはずがない。
頭が真っ白になる。
「あら、そんな酷い事はしてないわ。人間もやってるじゃない?愛玩用の人外奴隷の品種改良…知らないとは言わせないわよ。」
アゼリアの声は刃物のように鋭く心を抉る。
怖くてアゼリアの顔を見れない。
考える時間など、与えられていなかった。
「さあ、お願いね。リコリスちゃん」
優しい声。
逃げ道のない、残酷な優しさ。
リコリスは、震える手で実験台に向かった。
——クロウさん。
どうか、無事でいて……
思い浮かぶのは、彼の背中ばかりだ。
強くて、不器用で、優しくて。
差別されることに慣れてしまった、あの静かな背中。
助けたい。
それだけは、揺るがない。
薬の調合を始める。
手順は、身体が覚えていた。
正確に、迅速に。
だが、心だけが追いつかない。
私が、この薬を作れば——
誰かが救われ、誰かが傷つく。
でも、作らなければ——
クロウが死ぬ。
答えは、あまりにも残酷で、単純だった。
今は、彼を救う。
それ以外のことは、考えない。
考えてしまえば、手が止まってしまうから。
やがて、最後の工程が終わる。
透明な薬液が、フラスコの中で静かに揺れていた。
「……できました」
掠れた声で告げると、アゼリアはそれを光に透かして眺め、満足そうに微笑んだ。
「素晴らしいわ。これで、私たちの計画も大きく前進するわね」
胸の奥が、重く沈む。
「約束通り、彼は解放するわ。心配しなくていい……まだ生きてるわ。」
小さく息を吐く。
——助かる。
少なくとも、今は。
けれど、本当に……これで良かったのだろうか。
胸の奥に残る不安と罪悪感は、
どうしても、消えてはくれなかった。




