第10話:レッスンは甘い香りに包まれて
続きは明日のこのくらいの時間にー
お買い物から戻った翌日から、サイラスには新たな試練が課せられた。
それはヤング伯爵夫人による貴族としての社交作法と、イレーナによるダンスの特訓である。
「いい? サイラスちゃん。貴方は存在しているだけで百点満点だけれど、その美しさを『正しく』世界に見せつけるためには、指先一つの動きにまで魂を込めなくてはならないのよ!」
ヤング家のサロン。夫人は扇子でサイラスの姿勢を正しながら、熱烈な指導を続けていた。
サイラスは頭の上に厚い本を載せ、背筋を伸ばして歩く練習を繰り返している。かつての彼なら一分も持たずに倒れていただろう。だが、この数日間の栄養満点の食事と、アンガスの(やや強引な)体力作りのおかげで、今はしっかりと床を蹴ることができている。
「そう、それよ! 顎を少し引き気味にして、視線だけをゆっくり動かすの。……まあ、なんてこと! 今の視線の配り方、まるで高嶺の花がそっと微笑んだようで、お母様、心臓が止まるかと思ったわ!」
「あ、ありがとうございます……お義母様……」
サイラスが「お義母様」と呼ぶたびに、夫人は「まああああ!」と叫んで胸を押さえ、レッスンが5分ほど中断するのがお約束になっている。
サイラスはこの賑やかで、どこまでも肯定的な空間に、少しずつ自分の居場所を感じ始めていた。
◇◇◇◇◇
午後の日差しが和らぎ、サロンに夕闇が忍び寄る頃。
レッスンは、イレーナにバトンタッチされる。
「お疲れ様ですわ、サイラス様。お母様の特訓は、少々情熱的すぎませんでしたか?」
着替えを済ませ、ダンスの練習のために動きやすさを重視した凛々しい乗馬ズボン姿で現れたイレーナが、サイラスに労いの言葉をかける。
「いえ……お義母様は、僕のダメなところを……その、すごく前向きに直してくださるので。…少しだけ、自信がつきました」
「それは良かったですわ。…さて、次は私との時間です。夜会で最も重要なのは、パートナーとのダンスですから、しっかりと動きを覚えましょうね。…準備はよろしいかしら?」
セバスが部屋の隅で蓄音機を起動させる。
流れてきたのは、穏やかで気品のあるワルツの旋律だった。
「……僕に、できるでしょうか。イレーナ様の足を、踏んでしまったら…」
「踏んでも構いませんわ。私の足は、貴方の体重くらいで音を上げるほど柔ではありません。…さあ、こちらへ」
イレーナが右手を差し出す。
サイラスはおずおずとその手を取り、もう片方の手を彼女の肩に添えた。
通常の男女の役割とは逆だが、ヤング家ではこれが「自然」だった。イレーナの左手がサイラスの腰をしっかりと抱き寄せ、彼を引き寄せる。
「……っ」
至近距離でイレーナの琥珀色の瞳が自分を射抜く。
彼女の体温、そして微かに漂う薔薇の香りが鼻をくすぐり、サイラスの頭は一瞬で真っ白になる。
「背筋を伸ばして。私の動きに、ただ身を任せていればいいのですわ」
イレーナがリードを始めると、サイラスの体はふわりと宙を舞うような感覚に包まれた。彼女のステップは力強く、それでいて驚くほど滑らかだ。サイラスがバランスを崩しそうになると、腰を支える彼女の腕の力が強まり、彼を優しく、しかし確固たる意志で引き戻す。
「上手ですわよ、サイラス様。貴方は、私のリードをよく聞いてくださる」
「……イレーナ様が、僕を支えてくださるから…です」
旋回するたびに、窓から差し込む夕陽が二人の影を長く伸ばす。
サイラスは必死にステップを刻みながらも、自分を見つめるイレーナの瞳から目が離せなかった。
ふと、旋律が静かなパートに移る。
イレーナはサイラスの手を握ったまま、彼の動きを止め、至近距離で立ち止まった。
「サイラス様。…少し、お聞きしてもよろしいかしら?」
「はい……何でしょうか」
「貴方は今、幸せ……ですか?」
不意の問いに、サイラスは息を呑んだ。
幸せ。
かつての彼にとって、それは物語の中にしか存在しない、実体のない概念だった。
でも、今は違う。
美味しい食事、暖かいベッド。
「不吉だ」と言われた自分の髪を「美しい」と褒めてくれる家族。
自分を害するものから守ってくれる、強くて優しい婚約者。
「…はい。……僕は今、生まれて初めて、明日が来るのが怖いと思わなくなりました」
サイラスは、自分でも驚くほどはっきりとした声で答えた。
「イレーナ様が、僕を見つけてくださったから。…僕は、自分がこの世界にいてもいいんだって、そう思えるようになったんです。…だから、今の僕は、……とても、幸せです」
その言葉を聞いた瞬間、イレーナの瞳が揺れた。
彼女はサイラスの手をギュッと握りしめ、そのまま彼の額に、自分の額をこつんと預けた。
「…ああ、なんてこと。貴方は本当に、私の理性を試していらっしゃる」
「え……?」
「いいですか、サイラス様。今の言葉、夜会で他の誰にも言ってはいけませんわよ。…そんな風に無自覚に人を魅了しては、私の独占欲が暴走して、貴方を屋敷から一歩も出したくなくなってしまいますもの」
イレーナの低い笑い声が、サイラスの胸の奥を震わせる。
彼女の吐息が、サイラスの頬をなぞる。
サイラスは恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも、彼女から逃げるどころか、自分から少しだけ、彼女の肩に寄り添った。
「……出さなくても、いいですよ。…僕は、イレーナ様の隣にいられるなら、どこだって構いません」
そのあざといまでの直球に、イレーナはついに膝を屈しそうになった。
「……セバス! 今日のレッスンはここまでですわ! これ以上は、私の心臓が持ちません!」
「はっ。承知いたしました、お嬢様」
部屋の隅で、満足げに微笑んでいたセバスが蓄音機を止める。
イレーナは顔を背けながらも、サイラスの手だけは離そうとしなかった。
その様子をサロンの扉の隙間から覗いていたヤング夫人は、扇子で口元を隠して「あらあら、うふふ」と楽しそうに笑っていた。
「準備は万端ね。…あとは、あの可哀想なルーサー家の皆さんに、最高の絶望をお届けするだけだわ」
ヤング家の幸せな空気の裏側で、王都の社交界には不穏な噂が広まり始めていた。
ヤング伯爵家が、ルーサー家の長男を囲い込んでいる。そして、その長男が実は驚くべき美貌と才能の持ち主であるという――。
嫉妬と野心、そして復讐心が渦巻く中、運命のお披露目夜会まで、あと三日――。
夫人は見ていた!
実際の所、本を乗せて歩くってやったんですかね?
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