第88話 その 狩りが始まる
上階の舞踏会から、まだ笑い声と音楽が響いていた。
オーケストラが奏で、貴族たちが踊り、
シャンデリアが偽りの星のように輝いている。
だが――セレネは笑っていなかった。
胸の鼓動が冷たく速い。
その奥にあるのは、研ぎ澄まされた恐怖と焦り。
「カエル……どこにいるの……?」
魔力のざわめきの下で、かすかに震える声が漏れた。
彼女は大理石の廊下を歩いた。
ソラリス城の壁には歴代の王の肖像画、
魔力灯に照らされる金の彫像たち。
歩くたびに、靴音が響きすぎる。
息をするたびに、音が大きすぎる気がした。
――今、怪しまれるわけにはいかない。
舞踏会の夜に、騒ぎを起こすわけには。
リリアと他の仲間たちが“宮殿を宇宙の紙吹雪”に変える前に。
だからこそ、彼女は自分の力に頼った。
セレネは目を閉じ、胸に手を当てて静かに囁く。
「《マナ・サーチ――全視界展開》」
淡い金光が脈打つように広がり、
波紋となって壁を抜け、床を抜け、さらに深くへと流れ込む。
数千の魔力反応が返ってくる。
貴族、侍女、衛兵、結界……
だが、その中に一つだけ、異質な光があった。
弱く、かすかに揺れ、
――城の深く、地の底に沈んでいる。
「……見つけた。」
彼女の目が開き、金の光が宿る。
次の瞬間、影のように動いた。音もなく、速く。
大階段を下りようとしたその時、
金属靴の規則的な音が廊下に響いた。
衛兵たち――五人。
笑いながら会話している。
「異常なし?」
「ああ。上は貴族どもが酔っ払ってるだけだ。」
「へっ、“下層庫”さえ見つからなきゃ平和なもんさ。」
「その言葉、聞かれたらどうなるか分かってるのか!?――」
セレネの鼓動が跳ね上がった。
彼女は柱の陰に身を寄せ、低く呟く。
「《インヴィジオ・ヴェール》」
光が揺らぎ、彼女の体が空気に溶ける。
衛兵たちは笑いながら通り過ぎ、
ほんの数センチ先に“天使”が潜んでいることにも気づかない。
声が遠ざかり、静寂が戻る。
彼女は息を吐いた。
「“下層庫”、ね……」
衛兵たちの来た方向を辿ると、
そこには別世界のような廊下があった。
石畳はひび割れ、
上階の輝きとは程遠い荒れた道。
進むほどに空気が冷たくなる。
香りも変わる――香水の甘さが消え、湿った石と鉄の臭いが漂う。
もはや衛兵の姿もない。
あるのは、沈黙だけ。
突き当たりに現れたのは、
古びた封印扉だった。
重く、鈍く、無数のルーンが刻まれている。
セレネは手をかざし、祈るように呟く。
「《ホーリー・アンシール》」
ルーンが火花を散らし、抵抗する。
だが、やがて――カチリと音を立てて解けた。
扉が開く。
瞬間、暗黒の魔力が彼女を包んだ。
息が詰まる。空気が、絶望そのものだ。
「……神よ、これは――」
階段を降りた先は、広大な地下の監獄だった。
壁一面に並ぶ檻。
中には――壊れた心、怯えた瞳。
エルフ。
獣人。
カイジン。
精霊との混血。
人間の子どもたちまで。
鎖の音が微かに鳴り、
すすり泣きが闇に溶ける。
そして――
彼女は見つけた。
カエル。
中央の檻に倒れ込み、
傷だらけの体、半ば閉じた目。
両手首には光る封印刻印。
その前に立つのは、
上階の舞踏会で見た貴族たちだった。
金貨を数えながら、笑っている。
「出荷はいつだ?」
「真夜中だ。深淵商会が引き取りに来る。」
「よし。夜明け前には全て処理しろ。」
セレネの胸の奥で、
聖なる光が燃え上がる。
だが――彼女はまだ動かない。
今は、敵の数を把握する時。
「カエル……待ってて。必ず助ける。」
杖を握る手に力がこもる。
指先に、静かな黄金の光。
穏やかで、だが致命的な――神の炎。
天の使いたちがこの地を見捨てたとしても――
セレネだけは、決して目を背けない。




