第87話 ソラリス下の鎖
この――とんでもなくインフレした、混沌まみれの世界で転生してから、
一つだけ学んだことがある。
平和な瞬間なんて、奇跡のように稀だってこと。
だからこそ、訪れたなら――
逃さない。
抱きしめる。
踊る。
……文字通りに。
舞踏会場は命の輝きに満ちていた。
弦楽器の旋律が空を踊り、
貴族たちが大理石のフロアを優雅に舞う。
宙のシャンデリアは、まるで具現化された星座のようにきらめいていた。
そして私は――
その光景の端で、静かにその“生きた絵画”を見つめていた。
視線を感じた。
十人くらいの貴族男性が、こちらをチラチラ見ている。
礼儀正しく、でも不器用に。
わかりやすいほど“好意”を滲ませながら。
「うん……無理。」私は小声でつぶやいた。
「興味はあるみたいね」とルナが背後でくすりと笑う。
「でもあの人たち、マルチバースを滅ぼせる女の子と話した経験はゼロよ?」
「……だから無理なのよ。」
私はため息をついた。
「もうどうにでもなれ。」
すたすたと会場を横切る。
銀のドレスが揺れるたび、目線が刺さる。
貴族男子たちの顎が見事に落ちたけど、無視。
――目指すは、彼女。
オーレリア。
彼女は壁際に立ち、腕を組み、
こちらを見ていない“ふり”をしていた。
ツンデレモード:起動中。
私はニヤリと笑い、声をかけた。
「よう。」
「……何よ。」
定番の半分ムスッとした表情、そして頬の赤み。いつも通り。
「踊る?」
彼女の目が一瞬大きくなった。
「えっ、私? 私と……?」
「うん。嫌ならいいけど?」
視線をそらす彼女。
「べ、べつに……踊りたいとか思ってないし。バカ。」
私は片眉を上げた。
「今、まさか“ツンデレ”した?」
「うっさい。」
でも、彼女は手を差し出してきた。
「……しょうがないわね。」
そして私たちは、手を取り合って、
会場の中心へ。
音楽が変わる。
柔らかく、温かく、魔法のように。
手を彼女の腰へ。
彼女の手は私の肩に。
ゆっくり、星のリズムに合わせて、私たちは踊り始めた。
周囲では、貴族たちが囁き合う。
注目の視線が私たちに集まる。
ソラリス国王は眉を上げ、
オーレリアの父アラリック王でさえ、まるで「何を見せられてるんだ……」という顔。
だけど、今だけはどうでもよかった。
この瞬間だけは――
冒険者でもない。
原初でもない。
神でも、選ばれし者でもない。
ただの、
ふたりの魂が踊っているだけだった。
ルナは壁際でその様子を見ていた。
普段は読めない表情に、ふわりとした感情の光が揺れていた。
「……幸せそうね。」
ローグがワインを飲みながらニヤリ。
「山ひとつ吹き飛ばさずに笑ったの、初めて見たかも。」
フレイも頷く。
「今夜だけは……彼女のものよ。」
一方その頃、セラフィナは陰から鋭く観察中。
「これが……無限の時間軸を手にし、ザックを倒した少女?」
誰にも聞こえないような声で呟いた。
「……なのに、ダンスで赤面?」
一方、バルコニーでは――
ダリウスが妻と二人の子供の写真を見つめていた。
静かな微笑みを浮かべながら。
彼は本来、ここにいるべき存在じゃなかった。
神々と貴族の間に居場所はない。
でも、誇りを持って立っていた。
――彼女たちにこの姿を見せられたらと、心の中で願いながら。
そんな彼に、優しい声が届く。
「ひとり?」
ラベンダーのドレスの女性が微笑む。
「隣、いい?」
彼は一瞬戸惑い、そして頷いた。
「……どうぞ。」
その頃、バイキングテーブルでは――
ナリが警戒モードで立っていた。
その後ろでは、アンナがチョコレートファウンテンと激しい戦い中。
「爆発するわよ」ナリが呟く。
「その価値はある!」マシュマロでベタベタになったアンナが即答した。
――そして、ダンスフロアにて。
オーレリアが私を見上げる。
紅の瞳が、私の目と重なる。
「……あんた、意外と似合ってるわよ。」
「こっちのセリフだよ。貴族石化ビームでも撃ってるのかと思った。」
彼女はくすっと笑い、
「黙って、踊りなさい。」
私は笑った。
「了解、お姫様。」
――そして、
考えるより先に、
恐れることもなく、
自然に――
顔を近づけた。
彼女も同時に。
――そして、私たちはキスをした。
会場中が、息を呑んだ。
貴族たちは動きを止め、
音楽が途切れ、
誰かが気絶したかもしれない。
ローグがグラスを落とし、
ルナの目が見開かれ、
セラフィナは小さく呟いた。
「……ようやく、ね。」
でも、すべてどうでもよかった。
囁きも、
視線も、
国王の驚いた表情さえも――
だって、この瞬間。
私たちは、ひとつだったから。
キスが終わると、
オーレリアの顔はフェニックスの羽根より赤かった。
「か、勘違いしないでよね!」
「もう遅いって。」
「べ、別に、好きとかそういうんじゃ――」
「オーレリア。」
「……少しだけ、よ。」
ふたりで笑った。
音楽が再開する。
星がまたたき、
夜は続いていく。
――まるで、世界に何ひとつ悪いことなんて起きないかのように。
煌びやかなシャンデリアの光に包まれ、
貴族たちが金の杯を掲げて笑い、踊っているその頃――
王国の地下では、
闇が静かに蠢いていた。
数時間前…
カエルは舞踏会場を抜け出していた。
「うるさすぎる……トイレ、どこだっけ。」
ソラリスの城は広大だった。
金の縁取りがされた螺旋回廊、魔法で彩られた壁、惑わせるような構造。
そのすべてが、外部の者を魅了し、惑わすための仕掛けでもあった。
「えっと、確かトイレは……浮いてるハープを通り過ぎて、九つ目の廊下を曲がった先……?」
辿り着いたのは、何かがおかしい廊下だった。
薄暗く、静寂に包まれ、ビロードの絨毯は途中で途切れ、磨かれた石の床に変わっていた。
そして、その角の向こうから――
声が聞こえた。
カエルは動きを止めた。
壁に身を寄せ、耳を澄ます。
「出荷の準備はほぼ整った。」
「今夜か? 王宮の真下で?」
「ああ。檻は強化済みだ。獣人、エルフ、ゴブリン……混血の精霊族まで。なかなかの品だ。」
「夜明け前には運び出す。ソラリスは気づきもしないさ。」
「それに、上での舞踏会は完璧な陽動。誰ひとり疑っていない。」
カエルの目が見開かれる。
「奴隷商人だ……しかも、王国の中に。舞踏会の真下で――」
踵を返そうとした、その瞬間。
遅かった。
「どこへ行くつもりだ?」
影から現れたのは、黒装束の二人の男。
漆黒のマント。血のような赤い瞳。
そして、魔力を封じる呪具の手錠。
カエルが魔力を呼び起こそうとした刹那――
激痛が頭を貫いた。
――その後
セレネはバルコニーに立ち、腕を組んで足を鳴らしていた。
「あのバカ、もう一時間以上戻ってないわね。どうせまた迷子でしょ。」
欄干に寄りかかりながら、ため息を吐く。
「どこ行ったのよ、カエル……」
そのときだった。
空気の揺らぎを感じる。
彼の魔力が――弱まっていた。遠く、かすかに、今にも消えそうに。
「……カエル!?」
目を細める彼女の腰元で、聖剣が静かに輝いた。
「やっぱり……何かに巻き込まれたのね。」
次の瞬間、彼女の姿は影へと消えた。
一方その頃…
カエルはうめき声を漏らしながら、ぼやけた視界を取り戻した。
そこは――牢獄だった。
湿った石造りの部屋。
淡い魔力ランタンだけが照らす、息の詰まるような空間。
空気は汗と絶望、そして沈黙の臭いで満ちていた。
そして、彼は独りではなかった。
周囲には無数の檻。
そこには――人々がいた。
恐怖で身を寄せ合う獣人の子どもたち。
魔封を施され、誇りを砕かれたエルフたち。
今は鎖に繋がれた、爬虫族の強者・カイジたち。
祈りを捧げるヒューマノイド・ゴブリンたち。
そしてカエル――
両手首には魔力制限の手錠。
光る刻印が彼の力を縛っていた。
魔力を起こそうとしただけで、全身に激痛が走る。
そんな彼の前に現れたのは――
上階の部屋で見かけた貴族たちだった。
豪奢な衣装。偽りの笑顔。
金の瞳には、利益の輝きだけが宿っていた。
「おや、盗み聞きしてた子猫ちゃんが目覚めたか。」
「残念だったな。友達と踊ってればよかったものを。今じゃ、他の連中と一緒に“商品”さ。」
「半人の魔導士なんて、滅多に出回らん。高値がつくぞ?」
カエルは拳を握り締めた。
「……クズどもが。」
彼らは嘲笑った。
「おやおや、まだ“本館”しか見てないのか? 別翼にはあと数百人いるぞ。王たちの御用達だ。労働力にしろ、娯楽にしろな。」
そのうちの一人が檻の隙間から手を伸ばし、カエルの顎をつかむ。
「光栄に思えよ? お前は“目玉商品”なんだから。」
カエルの瞳が怒りに燃える。
「ここから出られたら……絶対にお前らを――」
貴族は薄く笑った。
「出られないさ。
ここは“ソラリスの地下牢”――
誰ひとり、逃げた者はいない。」




